第33話 夜を渡す声
第33話 夜を渡す声
最初の芝居は、観客二人で始まった。
ニノの鶏と、オレの王様。木箱一つを舞台にして、布を前へ垂らした。客はエダの子供と、眠れない小さな女の子だった。
「わたしが、この国の王様だ」
王様の冠は、湿って少し曲がっていた。
鶏が、その冠を覗き込む。
「王様、頭が、傾いてる」
「国の行く末を考えすぎたのだ」
子供たちは分からなかった。
後ろで帳簿を書いていたセラだけが、少し鼻で笑った。
難しいことを言えば賢そうに見える。賢そうに見えるだけで、面白くなるとは限らない。オレは王様に冠を裏返して被らせた。
「これで、反対側も考えられる」
女の子が笑った。
ニノも笑い、鶏をつつかせた。
それでよかった。
*
集荷所の外では、道具を運ぶ足音がしていた。
逃がし口の送りねじは、予想より深く噛んでいた。トマが状態を見て、古いものを外す段取りを決める。新しい品は届いていないので、門を所定の高さで支え、朝まで人がついて流れを確かめるという。
水を操る呪文で一度に解決するような話ではなかった。
道具の名が呼ばれる。
持つ人が替わる。
灯りが要る。
オレのところへも、衛兵が何度か来た。元の水車の担当者が誰か分からない。染め場の責任者に、下の水を止める時間を伝えたい。工房の鍵を持っている人を探している。
客席の代わりに、建物の中を見渡す。
誰が誰と話していたか。どの荷物を自分のものと言ったか。誰が名前を呼ばれて顔を上げたか。
酒場で注文を覚えるときのように、一つずつ辿った。
「あちらの、灰色の上着の方です。さっき染め場の話をしてました」
衛兵が向かう。
人が見つかる。
戻ってきて、助かったと言われる。
それだけの仕事だった。
舞台へ戻ると、ニノが一人で繋いでいた。
王様のいない鶏は、客席へ向かって言う。
「王様、働きに行っちゃった」
子供たちが笑った。
オレは幕の後ろへ入り、王様を上げた。
「戻ったぞ。給金は出なかった」
「じゃ、王様じゃなくて、ただのお手伝いだ」
今度は、大人が何人か笑った。
声が出たあと、誰かが長く息を吐いた。
*
途中で、見ていた男が一人、立ち上がった。
「よく、笑っていられるな」
声は、大きくなかった。
だから、周りの者も笑うのをやめた。
「下じゃ、まだ人が働いてるんだぞ」
オレは人形を下ろした。
男の靴は片方だけ泥に埋まった跡があり、上着の裾は裂けていた。何を失ったのか、誰を待っているのか、まだ聞いていなかった。
「うるさかったですか」
「そういう話じゃ」
男は言いかけて、口を閉じた。
オレは王様を箱へ戻した。ニノが不安そうにこちらを見る。
「場所を、少し変えます。静かな方がいい人もいるので」
男は、少し困った顔をした。
「やめろって、言ったわけじゃない」
「はい。ここにいる人、みんな同じ気分じゃないですよね」
オレがそう言うと、男は何も返さなかった。
管理人に聞き、奥の小部屋を静かに休む人のために空けた。荷の移動はもう済んでいる。そこへ外套と、水を少し運ぶ。
男は、しばらくして、そちらへ移った。
追って励ましに行かなかった。
ニノが小声で聞いた。
「面白く、なかったのかな」
「面白くても、今は聞きたくないことって、あるんだと思う」
少年は、鶏の頭を撫でた。
「じゃ、どうするの」
「聞きたい人に、聞こえるくらいの声にしよう」
オレは椅子を寄せ、輪を小さくした。
人形の鼻が、子供たちへ近くなる。大声で飛ばさなくても、目の動きが見える。ニノは、さっきより静かな声で話し始めた。
笑った人数は減った。
それを、失敗だとは思わなかった。
真夜中に近づくと、眠る人が増えた。
芝居の声を小さくした。笑わせるたび誰かを起こすのは、今はよい仕事ではない。ニノも目を擦り始めた。
「もう、休もう」
「お父さんが、まだ」
「帰ってきたら、起こしてもらおう」
「寝てたら、帰ってきたの、分からない」
オレは返事を探した。
マルヴァが壁際から近づき、少年の横へしゃがんだ。
「私が見てるよ」
短く言った。
「戻ってきたら、あんたが待ってたと伝える。起きてても寝てても、それは変わらない」
ニノは彼女を見た。
「ほんと?」
「ああ」
少年は人形を膝へ置いた。そのまま、少しずつ頭が下がった。
オレは布を肩へかける。
マルヴァは床に座り、ニノが倒れない方へ自分の膝を寄せた。
「効きますね、その言い方」
「守れない約束なら、効かない方がいい」
オレはうなずいた。
今日、何度も大丈夫と言いたくなった。その先が見えていないのに。自分が不安を止めたくて、相手へ渡そうとした言葉もあった。
マルヴァは約束できる範囲だけを、少年へ渡した。
それは大きな言葉ではなかった。
*
少しして、外からアルトが呼んだ。
「手を貸してもらえますか」
門の作業へ交替の人を呼びに来たのだった。大きな力は要らない。門が動いたあと、下の浅い溝に詰まった布と小枝を、道具で取り除く。足場は衛兵が確かめている。
セラに確認し、オレは外へ出た。
夜の川は、形が見えなかった。
見えるのは、灯りの下の石と、濡れた綱と、誰かの手。それ以外は音でしかない。人が明るいところへ集まる理由が、よく分かった。
トマが指示した。
「門を少し動かす。下へ回る水が増えるから、溝の前へ出るな。道具は脇から。抜けたら手を引け」
オレは言われた場所へ立った。
棒の先に、小さな鉤がついている。布を引っかけ、手前へ少しずつ寄せる。重くなったら、一人で引かずに声をかける。
アルトが隣にいた。
ゴルドは門の上で、太い棒を二人の職人と支えている。魔法を使う様子はなかった。唱えるだけで何度でも同じ力が出るわけではない、と、昼のあと本人が言っていた。
マルヴァもここへ来れば、速いのかもしれない。
でも、彼女は眠った子供の横にいる。
それも、誰かが引き受けなければならない仕事だった。
*
「動くぞ」
トマの声。
木の軋む音がした。
棒が傾き、人の肩が一斉に低くなる。門はほんの少し上がっただけだった。それだけで、下から出る水の音が変わった。
こちらの溝へ、枝が流れてくる。
オレは鉤を掛けた。引く。濡れた布が絡んでいる。舞台の布か、店の覆いか、暗くて分からない。
重い。
「アルトさん、こっち」
声を出した。
アルトが棒の後ろを持つ。
「せーの、で」
「はい」
引いた。
布が抜けた。いきなり軽くなり、二人で後ろへ尻餅をつく。水の筋が、足元の低いところを抜けていった。
オレはしばらく、濡れた地面に座っていた。
アルトも座っていた。
「怪我、ありません?」
同時に聞いてしまい、二人で笑った。
笑うと、息が白く見えた。
冷えていたのだと、そのとき気づく。
ゴルドが上から怒鳴った。
「座るなら、乾いたとこへ行け!」
「そっちも、濡れてますよ!」
「年寄りを真似するな!」
いつもは年寄り扱いしろと言うのに、こういうときだけ先に名乗る。
オレは立ち上がった。
さっきまで溜まっていた水が、石の隙間から少しずつ抜けている。大河を止めたわけではない。街を一人で救ったわけでもない。絡まった布を、二人で一本引いた。
それで、次の水が流れた。
*
溝が流れ始めても、仕事は終わらなかった。
一度抜けた場所へ、別の枝が来る。上で門を支える位置を変えると、こちらの流れ方も少し変わる。トマは下へ降りて確かめ、また上へ声を返した。
オレは灯りを持つ役へ移った。
照らすだけ、と思ったが、どこへ向けるかで作業が変わった。眩しすぎると手元が見えない。水面へ当てると反射する。顔ではなく、道具の先へ。動く人の少し前へ。
アルトが教えてくれた。荷車で夜道を行くときも、同じらしい。
「全部明るくしなくても、次の足を置くところが見えれば」
オレは灯りを少し下げた。
職人の手が、動きやすくなった。
「そのまま」
言われる。
オレは、動かさずに待った。
腕が重くなったら、アルトに渡した。自分で最後まで持たなければ仕事をしたことにならない、とは、今日は思わずに済んだ。
ゴルドも交替で下りてきた。肩が濡れ、息が深い。
「まだ、やれますか」
聞くと、爺さんは笑った。
「やれるが、やり続けん。若いのへ渡す」
それを少し前に聞いていれば、年寄り扱いの冗談だと思っただろう。
今は、次に必要になったときの力を残しているのだと分かった。
ベリルが布袋を運んできた。中には、集荷所から届いたパンがある。皆、手を止める時間が短いので、小さく割ってあった。
オレは一つ受け取った。
しけていた。冷えていた。店の焼きたてより、ずっと味が落ちている。
それでも、食べると腹の底へ力が戻った。
「おいしいです」
ベリルが、少し笑った。
「今日の宣伝文句は、それでいいな」
「本当のことです」
「ああ」
彼は自分も一つ食べ、袋を次の者へ回した。
門は、朝まで保った。
見張りを交替し、下の工房へ水が回らないかを何度も確かめる。取水口からは、増水の山を越えたと報せが来た。
空が白む頃、トマが集荷所へ戻った。
ニノは眠っていた。マルヴァの膝へ寄りかかり、人形の鶏を抱えている。
彼女は父親を見ると、人差し指を唇へ添えた。
「待ってたよ」
そう言った。
約束の通りだった。
トマはしゃがみ、息子の濡れていない方の髪を撫でた。起こそうとはしなかった。少年の呼吸を確かめてから、床へ座り込む。
オレは壁へ背をつけた。
足の裏が痛い。肩も重い。まぶたを閉じれば眠れそうなのに、目を離すのが惜しかった。
向こうで店主が、火の残りを確かめている。アルトが鍋を温め直し、セラが使った薬の紙を一束にまとめる。ゴルドは濡れた綱を干す場所を探していた。
誰も、自分の仕事の終わりを大声で告げなかった。
朝は、それぞれの小さな片づけの上へ、ゆっくり来た。
エダが外から戻ってきた。
「靴、泥だらけだね」
オレの足元を見て言う。
「新品だったんです」
「じゃ、よく働いた証拠だ」
彼女の声に、昨日より少し力があった。
オレは笑い、靴の紐を緩めた。
そのとき胸の奥へ、深く、温かいものが落ちた。
竜の前で感じたものとは違う。大きな一つではなく、小さいものがいくつも、遅れて重なってくる。
誰が笑った分なのか、分からなかった。
分けて数えようとは、思わなかった。