第32話 冷めるまでの時間
第32話 冷めるまでの時間
集荷所の中は、濡れた服の匂いでいっぱいだった。
戻ったニノたちを見て、ベリルは何も言わなかった。少年の頭へ手を置き、すぐ離し、また置いた。芝居の台詞なら、いくらでも出る男なのに。
セラがその手を少し押しのけた。
「先に、身体を見ます。話は座ってから」
ニノはうなずいた。父親の袖は、離さなかった。
オレは入口へ立ち、戻ってきた人数を紙へ書いた。四人。全員。トマの名とニノの名の横へ、小さな丸をつける。
その丸をつけるだけで、指に力が入った。
エダの子供も、姉と一緒に別の建物へ避難していたと分かった。衛兵が知らせに来た。オレが伝えると、エダは一度だけ顔を覆い、すぐに布を畳み始めた。
泣く時間も、人によって違う。
*
しばらくすると、集荷所の管理人が来た。
扉を開けたままでは冷えるので、奥の部屋も使うことになった。ただし、保管している商会の荷を勝手に動かすことはできないという。
「ここにいるのは、病人もいるんですよ」
屋台の男が声を上げた。
「だから使うなとは言っていない。ただ、荷の持ち主が」
「持ち主が来るまで、待てってのか」
声が重なり始めた。
オレは割って入ろうとした。セラが先に、帳簿を閉じた。
「鍵は、あなたが持っていますか」
管理人がうなずく。
「動かした荷を、誰が確認すればいいですか」
「私が。ただ、許可は」
「衛兵の方。ギルドの臨時使用として、責任者の名をここへ。管理人さんは、元の置き場所を教えてください。私が移動先を書きます」
怒っていた男が、黙った。
管理人は紙を見た。セラが示した欄へ目を落とし、頷いた。
「それなら、奥の十箱を寄せれば、床が空きます」
許可を無視したのではなかった。
許可を出すために誰が何を引き受けるかを、先に揃えたのだ。
オレは木箱を持ち上げた。中身は染料らしく、見た目より重い。無理をして腕で引き上げず、アルトを呼んだ。二人で運ぶ。
「ここですか」
セラが指を差す。
床が、少しずつ現れた。
*
怪我人は、重い者から診られていた。
名前を呼ばれない男が、苛立ち始めた。腕に浅い傷があり、血が服へついている。自分よりあとに来た女が先に横になるのを見て、立ち上がった。
「俺は、さっきから待ってるんだ」
セラは女の脈を確かめながら言った。
「聞こえています。その傷は、順番を待てます」
「見ただけで分かるのかよ」
「最初に確認しました。こちらの人は、先に診る必要があります」
男は何か言おうとした。
オレは水を持って、隣へ座った。
「痛み、増えてますか」
「そりゃ痛いよ」
「増えてるなら、伝えます。さっきと同じなら、ここで待ちましょう。杯、持てます?」
男は少し意地になった顔で受け取った。持てた。
飲んだ。
怒鳴るための息が、一回、別のことに使われた。
「店、全部、水だ」
ぽつりと言った。
腕の話ではなくなった。
「何のお店ですか」
「木の匙だよ。こんなの、乾けば売れると思うか」
濡れた袋を見せられた。先が丸い匙が、何本もある。柄に小さな花が彫ってあった。
「分かりません」
正直に言った。
「でも、使えないかどうかを決める前に、乾かす場所は作れます」
男はオレを見た。
慰めにもならないと思ったのかもしれない。だが、少しして、袋の口を閉じた。
「……そうか」
オレは隣にいた。セラに呼ばれるまで。
笑いは、一度も取れなかった。
*
エダの娘が、姉に連れられて入ってきた。
母親を見つけると走り、途中で濡れた床に足を取られた。転ぶ前に、木の匙の男が手を出した。自分の傷のない方の手だった。
「走るな、滑るぞ」
子供は怒られたと思ったのか、口を引き結んだ。
エダが抱き寄せた。
「ありがとう」
男は顔をそらし、傷のある腕を見た。
さっきまで自分の番を待っていた人が、今は誰かの足を止めた。そのために、よい人へ生まれ変わる必要はなかったらしい。
セラがその男を呼んだ。
「お待たせしました」
彼は座り、傷を見せた。治療が始まると、今度は黙っていた。
オレは隣で、使う布を渡した。手順の説明を求めず、言われた物を渡す。自分にできることと、知識のある人へ任せることの境目が、机の幅くらいにはっきりしている。
男がセラの顔を見て、眉を寄せた。
「どこかで、見たことがあるな」
セラの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「この街で、前は金貸しの店にいました」
「ああ。あの角の」
「ええ」
オレは息を詰めた。
だが、男は傷を見る方へ戻った。
「今は、こっちか」
「今は、こっちです」
それで終わった。
許された、とか、認められた、とか、そういう大きな場面ではなかった。相手は痛い。彼女は診る。昔の話をする時間ではない。それだけのことだった。
治療が済み、男が席を立つと、セラは空いた布を畳んだ。
「見ないで」
オレへ言った。
「そんなに、見てました?」
「何か言いたそうな顔を、してる」
オレは少し迷った。
「お腹、減ってませんか」
言いたかったことは、別にあった。
でも、今ここで渡せるものは、そちらだった。
セラは目を伏せた。
「少し」
初めて、素直な返事が来た。
薬の瓶が、残り少なくなった。
セラは空いた瓶を並べ、その横へ使った本数を書いた。診る手は休めず、短い指示だけをオレへ渡す。
「薬店へ、この紙を。追加の包帯と、指定した分。代金は私の――」
そこで止まった。
オレも止まった。
コルム村では、彼女が自分の在庫を使い、自分で赤字を抱えた。今日も、そうするつもりの顔だった。
衛兵が受付の机へ来た。
「ギルドから、緊急支出の許可が出ました。必要なものを、この番号で受け取れます」
セラは紙を読んだ。
必要な治療用品。飲み水。移送。寝具。
彼女の指が、止まったままになる。
「……私用に出した分も、明細を」
「確認できれば精算します。勝手に全部、かぶらないでくださいよ」
若い衛兵の言い方は、軽かった。
セラは、少し目を細めた。
「確認できるように書いてあるわ」
それは、いつもの声だった。
オレは新しい番号の入った紙を受け取った。
取り立てる人が、取り立てられる側へ回るのではなく、必要な支払いを必要なところへ回す。そんな当たり前のことをするにも、この人は少し勇気が要るらしい。
*
薬店から戻ると、アルトが大鍋を借りていた。
店主の屋台で残った豆、パン屋が持ち出した端のパン、荷車から無事だった根菜。持ち主が出してよいと言った分を、セラが控えている。
奪って分けるのではない。
何が使えるかを、聞いて回ったのだ。
鍋が温まり、匂いが建物の奥へ届くと、子供の泣き声が少し減った。腹が減っていたことを、ようやく思い出したらしい。
「熱いです。少しずつ」
アルトは同じ注意を何度も言った。誰に対しても、言い方を荒くしない。
オレは一杯、セラへ運んだ。
「あとで」
「今、少し冷まします」
「だから、あとで」
「冷めすぎる前の、あとでです」
碗を彼女の手の届く位置へ置いた。
セラは帳簿から顔を上げた。何か言おうとして、やめた。
「……そこなら、いいわ」
しばらくして、彼女が匙を持った。
ひと口。
飲み込む。
目を伏せた。
「ちょうどいい」
小さな声だった。
オレは、聞こえなかったふりをした。
*
食べ物が行き渡ると、今度は寝る場所が問題になった。
奥へ荷を寄せたぶんの床は空いたが、そのままでは冷たい。敷く物を集めると、店の覆いが三枚、粗い麻布が二枚、誰かの外套が四着あった。
エダが立ち上がり、抱えてきた青い布を広げた。
「これ、使って」
オレは思わず顔を上げた。
「大事な布じゃ」
「大事だよ。だから、濡れた人の下じゃなく、子供の肩へかける。乾いてるところを、選んで」
捨てろと言われるのと、自分で使う場所を決めるのは、違う。
オレは受け取り、子供たちの背へ掛けた。青が並ぶと、殺風景な倉庫の隅が、少しだけ別の部屋に見えた。
セラが値段を記録しようとすると、エダは首を振った。
「貸す。あとで返して」
「分かりました。貸し出しとして、長さと枚数を」
「そこまで書くのかい」
「返すとき、揉めないために」
エダは笑った。
「じゃ、書いて。破れたら、そのとき相談」
紙の上に、また一本の約束ができた。
オレは、その布の中で子供が身体を丸くするところを見た。
高い品を売れなかった日の終わりに、別の使い方で誰かへ渡る。それがよいことだった、と簡単には言えない。エダは失った分を取り戻したわけではないからだ。
ただ、今夜ここで、その布を必要とする身体があった。
女は自分の手で、それを選んだ。
夜になっても、水は引ききらなかった。
取水口は閉じた。しかし流れ込んだ分が、逃がし口で滞っている。下の工房へ水が回る前に、詰まった送りねじを外し、門を少し上げたいという。
トマは、包帯を巻いた腕を見た。
「右手は使える。行く」
セラは、怪我の場所をもう一度確かめた。
「一人では行かない。道具は人に持たせる。途中で痛みが増したら戻る。それを条件に」
「分かった」
ニノが父親の袖を掴んだ。
男は、しゃがんだ。
「今度は、ここから下の門だけだ。場所も、人も分かってる。終わったら、ここへ戻る」
戻る、だけではなく、どこへ行くかを言った。
ニノは袖を離した。
オレは、その短い説明が持つ力を見ていた。
曖昧な大丈夫より、今いる場所が一つ分かる方が、握った手は開くことがある。
トマが出ていくと、少年は鶏を抱きしめた。
「お父さん、また仕事」
「うん」
「遊んでくれない」
責める声ではなかった。寂しい子供の、正しい声だった。
オレは隣へ座った。
「戻ってきたら、王様に休みを命じてもらおうか」
ニノは、少しだけ笑った。
「王様、給金も払わないと」
「そこは、セラさんに相談しよう」
机の向こうから、数字による、と返事が来た。
今度は、少年が声を出して笑った。