第34話 遊び人のまま、先へ
第34話 遊び人のまま、先へ
宵市の二日目は、昼までの売上で終わった。
終わった、と書くのは簡単だった。
実際には、それから何日も、濡れた布を干し、泥を掻き、折れた木を拾った。木の匙の男は、乾いた品を一本ずつ確かめた。使えるものと、歪んだものを分ける。その隣で、エダが色の変わった布を広げた。
オレも、仕事の合間に通った。
賢者の修練、と紙に書いてみたこともある。でも、泥を運んでいる途中で、そんな名前をつける必要があるのかと思った。
運ばなければ、ここを次の荷車が通れない。
今日は、その理由で十分だった。
*
一座の精算は、広場ではなく倉庫で行われた。
ベリルは六十ピィを並べた。二日目の上演が中止になったので、減るのではないかと思っていた。
「仕事は、してもらった。幕を上げられなかったのは、そちらの都合じゃない」
セラは契約の紙を確かめ、受領の欄へ署名した。
綱や運搬に使った共同備品のうち、この依頼に入れると合意した経費は十二ピィ。残り四十八、各十二ピィ。救助に使った薬や、避難所の品は別の精算になる。
数字が大きくないことに、オレは少し驚いた。
あれだけ働いた。
あれだけ怖かった。
だから、世界が何か特別な袋をくれるような気が、どこかにあったのだろう。
ベリルは袋を閉じた。
「次の町へ行くのは、少し遅らせる。舞台を直さないとな」
「損、出ました?」
「出た。返した入場料も、壊れた脚もある」
隠さず言った。
「でも、王様も鶏もいる。喋る方もな」
ニノが箱を運んでいた。
父親の工房に預ける部品と、一座が持っていく物を分けている。少年はまだ遠い町へ同行しない。父親と相談し、ハイベルへ来たときに稽古を続けることになったという。
「辞めるわけじゃ、ないんだよね」
オレが聞くと、ニノはうなずいた。
「次に来るまでに、王様の方も覚える」
「鶏から出世するんだ」
「朝ご飯にされなくなるから」
笑った。
別れがあるたびに、相手がいなくなるわけではない。
稽古の続きが、少し先に置かれることもある。
*
広場が使えるようになった頃、オレは再び診断棟へ行った。
最初の測定から、四週間近く経っていた。
働いた日を数えれば長い。覚えている場面だけを並べると、数分で終わる。その間、どれくらい変わったのか、今度は少しだけ知る方法がある。
付き添いは頼まなかった。
セラに来てもらうのが嫌なのではない。結果の最初の顔を、まず自分で見たかった。
ヘルマは前回の記録を出した。
「大きな怪我は。睡眠は取れていますか」
「一週間ほど前、川の増水で、ほとんど寝なかった日があります。その後は普通です」
「疲れは残っています?」
「足に、少し。でも、歩くのは平気です」
聞かれたことを、一つずつ答えた。
料金は八ピィ。前回と同じ器具の型を使う。
「今日は、もう、寸法は?」
「装具が合っていれば、細かく測り直しません」
「助かります」
「何か変化があれば、言ってください」
「そこより、別のところに期待してます」
ヘルマは笑った。
*
帯が締まり、石が替えられた。
前回と同じ部屋なのに、窓の外の木に新しい枝が伸びていた。前は見ていなかっただけかもしれない。変わったものと、初めて気づいたものを区別するのは難しい。
目を閉じる。
青い四角は出なかった。
代わりに、泥の上の鉤が浮かんだ。ニノの人形。セラの冷めかけた碗。綱が空へ引いた細い線。
強くなったか。
何も、分からない。
小皿の水は今も動かせない。棒は自分に当てなくなった程度。アルトと歩けば、やっぱり坂の途中で息が切れる。
ただ、困ったときに誰を呼ぶかは、前より少し早く分かる。
それがレベルへ入るのかどうかは、知らない。
三度の測定が終わった。
ヘルマは紙を重ね、前と同じように窓へ透かした。
オレは膝の上で、手を開いて待った。
「八です」
言われた瞬間、息を止めた。
「……八」
「今回の三回は八の範囲に収まっています。前回と同じ基準では、二つ上ですね」
紙が置かれた。
六の隣に、八がある。
数字が、急に重くなった。
「上がった、ってことでいいんですか」
「今回の診断では、そう判断できます」
ヘルマは、はっきり答えた。
疑えばいくらでも疑える。それでも、前と同じ方法で測り、違う結果が出た。この人はその違いを、誤魔化さず渡してくれた。
オレは紙へ手を伸ばした。
指先が、少し震えていた。
竜を倒したわけではない。
世界を救ってもいない。
それでも、六のままではなかった。
*
「何をしたから上がったのかは、分かりますか」
尋ねると、ヘルマは首を横に振った。
「この器具では、そこまでは。前回からの暮らしを書いておくと、あとで比べられます」
「人を笑わせたり、話を聞いたり。それで変わることも?」
「職業や生活によって、経験の積み方は違います。ただ、こちらでは、その一つだけが理由とは言えません。身体を使ったり、眠ったり、食べたりもしていますから」
当たり前のことだった。
それでも、笑わせたからだ、と言ってもらいたかった自分がいる。
楽な答えは、何度でも欲しくなる。
「日記を、続けます」
「それがよいと思います。数字だけではなく、できるようになったことも」
ヘルマは新しい日付を書いた。
未来の欄は、また空いたままだった。
*
店へ戻ると、マルヴァがカウンターに座っていた。
「どうだった」
今度は、オレの手元を見て聞いた。
「八でした。二つ、上がりました」
「そうかい」
大きく褒められはしなかった。
でも、その声が少し温かかったので、オレは診断書を広げた。
マルヴァは紙を見る前に、オレの手を見た。
「水門の晩、誰を呼んだ?」
「アルトさんです」
「何で」
「一人では、重かったので」
「前なら?」
オレは、牧草地で桶を叩いた自分を思い浮かべた。
「……とりあえず、やってたと思います」
彼女は頷いた。
「そっちも、忘れないことだ」
数字以外の成長を言われたのだと、少し遅れて分かった。
オレは紙を畳んだ。
「マルヴァさん。アタシ、賢者を目指すの、まだやめてません」
「知ってるよ」
「知らない道でも?」
「知らない道なら、知ってるふりをするな。転べば痛い。それだけは、どこへ行っても同じだ」
オレは笑った。
彼女も、少し笑った。
「ミア」
名前を呼ばれた。
バニーの、でも、四人目、でもなかった。
「今日は、何ができる?」
オレは水差しを持ち上げた。
「冷たすぎない水と、いい具合の一杯。あと、王様なら、少し」
「じゃ、水を」
杯へ注いだ。
最後の一滴を、布へ逃がす。
その手つきを、今度は自分でも見ていた。
*
八になっても、水は動かなかった。
小皿の前で手を組み、息を整え、ゴルドの本で読んだところまでを試した。窓からの風は、先に板で遮ってある。
水面は静かだった。
「正直ですね、あなた」
小皿に話しかけた。
返事もしなかった。
部屋の引き出しには、紙が増えた。診断書が二枚。店の給金の控え。宵市の報酬。笑った人数を書きかけてやめた紙。人の名前と、その日に気づいたことを書いた紙。
一番下には、古い取っ手がある。
オレはその上から、最初の紙を引き出した。
遊び人から、賢者へ。
線は、まだ残っていた。
その下へ、六、そして八、と書く。
たった二つ。
前へ進んだと言うには短いが、動いていないと言うには、確かに違う場所だった。
*
朝のギルドで、ドリスは診断書を確かめた。
「レベル欄を、診断値八に更新します。日付も付けますね」
小さな印が押された。
隣の窓口では、男が自分のレベルを三十五と申告していた。顔に見覚えがある。最初の頃、三十と言っていた客だ。
「診断は?」
受付が聞く。
「体感だ」
堂々としていた。
オレは少し笑った。
自分の八より、彼の三十五の方が大きい。それは数字の話だ。今日のオレには、八がどこから来たかを説明する紙と、紙に入らない数週間がある。
ドリスへ、もう一つ聞いた。
「賢者のことを調べるなら、どこへ行けばいいですか」
「魔法の勉強なら、学院か教会ですね。資格や職業の記録なら、こちらにも一部あります」
「遊び人から、なった人の記録を探したいんです」
ドリスは、ペンを置いた。
笑わなかった。
「私は、聞いたことがありません」
「はい。そう言われるのは、だいぶ慣れました」
「慣れるほど、聞いて回ったんですか」
「四人に。二回ずつくらい」
ドリスは眼鏡を直した。
「同じ人への二回目を、人数に加えないでください」
奥の棚から、薄い冊子が出てきた。
広域の支部と、扱っている記録の一覧だった。ギルド都市カルダス。本部の閲覧室。古い職業登録と、各地の診断法の記録。
「そこに答えがある、という意味ではありません。ハイベルで探せる範囲よりは、広いということです」
「分かってます」
分かっているつもりだった。言われなければ、またすぐ、あると思い込んでいたかもしれない。
紹介の書き方と、閲覧の費用について聞いた。今すぐ払う金ではない。行くと決める前に知る金だった。
セラが横から覗いた。
「旅費も要るわね」
「いきなり帳簿の方へ帰ってきましたね」
「歩くだけなら無料、と思ってる顔だったから」
少し、思っていた。
*
四人で宿へ戻り、今後の依頼を相談した。
カルダス方面の護衛もある。ただし、出発日も道中も、今までより長い。オレには店があり、セラには未精算の費用があり、アルトには村へ出す手紙がある。
目標ができたからといって、全員の暮らしが一枚の紙へ吸い込まれるわけではなかった。
「すぐ出なくてもいいです」
オレは言った。
「まず、ここで依頼を続けて。診断も、何度か比べたいです。本も、まだ全然読めてないので」
ゴルドが頷く。
「基礎の頁で詰まってるからな」
「そこを、朗らかに言わないでください」
「詰まれるだけ、読んだってことだ」
爺さんは真顔だった。
アルトが、依頼書を一枚出した。コルム村へ薬と布を届ける仕事。前の依頼で会った人たちがいる場所だった。
「これなら、往復を含めて二日です。道も知ってますし」
「誰か得意な人が、では?」
オレが聞くと、彼は少し困った顔をした。
「道を知ってるなら、今日は僕らが、その人たちかなって」
セラが依頼の条件を確かめた。
「報酬は大きくない。でも、今の備品で受けられる。赤字にはしないで済むわ」
決める前に、店へ話しに行くことにした。
誰も急かさなかった。
*
店主は、鍋を洗っていた。
宵市で使った大きなものだ。底についた焦げは、何度擦っても少し残る。オレは隣へ座り、片側を押さえた。
「二日、出たいです。出発は、明後日から」
「分かった。昼の仕込みを前日に寄せる。戻りが延びるなら、便で知らせろ」
「はい」
「靴は?」
「乾きました」
「ならいい」
相談は、それだけで済んだ。
でもオレは、立ち上がらなかった。
「そのうち、もっと遠くへ行くかもしれません」
店主は手を止めた。
「どのくらい」
「まだ、決まってません。調べたいことがあって」
「賢者か」
オレは顔を上げた。
「ゴルドさんですか」
「酔うと、他人の目標まで自分の武勇伝みたいに話す」
「それ、罰金になりませんかね」
「俺に聞くな」
店主はまた鍋を擦った。
「なれるのか」
「分かりません」
「そうか」
「でも、やってみたいです。笑われるような理由なんですけど」
マイナスを二つ。青い画面らしきもの。たぶん、という感触だけ。
店主は、理由を求めなかった。
「出る日が決まったら、言え。何日も前に」
「止めないんですか」
「止めてほしくて言ったのか」
オレは首を横に振った。
「じゃ、準備をしろ。こっちもする」
鍋の底から、焦げが一片はがれた。
その小さな音で、泣きそうになった。
理由が立派だから、送り出すのではない。ここにいた人間が、出ると言ったから。準備をする、と言われた。
オレは鍋を押さえる手に力を入れた。
「帰ってきたら、働けます?」
「皿を割らないならな」
「三枚までは、経験があります」
「一枚目から引くぞ」
笑えた。
*
その夜、マルヴァへ次の仕事を伝えた。
彼女は宿の卓で、ゴルドの財布に新しい留め具を縫いつけていた。本人は横で、こんな厳重にしなくても、と文句を言っている。
「前に、ベルトを替えろと言ったね」
「聞き流した俺の負けだ」
「じゃ、黙って持ってな」
会話が、きれいに閉じた。
オレは笑いながら、二日後にコルム村へ行くと言った。そのあと、カルダスへ行く可能性もある、と。
「いいんじゃないかい」
マルヴァは針を動かしたまま答えた。
「また、帰ってきたら、教えてもらえます?」
「何を」
「今日できることの、続きを」
彼女は初めて、手を止めた。
短い沈黙のあとで、財布をゴルドへ投げた。爺さんが胸で受ける。
「私がここにいたらね。いなくても、聞ける相手はいるだろう」
セラ。アルト。ゴルド。店主。ニノ。診断所のヘルマ。
教えてくれる人は、強い人だけではなかった。
「はい」
オレは答えた。
マルヴァは針を箱へしまった。
「賢者になっても、注ぎ終わりの一滴を忘れるんじゃないよ」
「なれるとは、思ってないんですよね?」
「分からないことを、分かるとは言わない。でも、なったときに床を濡らされるのは困る」
オレは笑った。
目標を笑われるのとは、違う笑いだった。
*
出発の前夜、引き出しを開けた。
診断書は置いていく。持ち歩けば水に濡れる。冒険者証には日付つきの八がある。必要なら、それを見せればいい。
小さな帳面だけを鞄へ入れた。
最初の頁に、賢者になりたい、と書いてある。その下のマイナスの式は、セラに二本線で直されたままだ。
消さなかった。
格好の悪い始まりを消すと、上手くいったとき、最初から分かっていたふりをしそうだった。
窓の外では、荷車が通っていた。遅い時間まで働く人がいる。パン屋の裏口に粉が運び込まれ、水を汲む桶の音がした。
あの音が止まれば、明日の朝食は出てこない。
そんなことを、前より少し考えるようになった。
オレは明日の靴を揃え、灯りを落とした。
*
朝、門には三人が待っていた。
セラは荷の数を確かめ、アルトは弁当を四つ持ち、ゴルドは財布を確かめていた。
一度、二度。
「あります?」
「ああ。あるぞ」
「じゃ、今日は違うものをなくさないでください」
「信用は、もう持っとらんから平気だ」
「持ってください。そこは」
アルトが笑い、セラが出発の時刻を記した。
オレは鞄の紐を肩へかけ直した。新しい靴は、もう新品の顔をしていない。けれど、足には前より合っている。
「行きましょうか」
三人が歩き出す。
オレも並んだ。
賢者になれるかどうかは、まだ誰も知らない。
今日の仕事は、薬と布を届けることだった。