第31話 魔法使いは、唱えた
第31話 魔法使いは、唱えた
「水を配って。飲む水と、洗う水は分けてある」
セラが二つの桶を指した。
オレは杯を持って、一人ずつ回った。飲めるか、吐き気はないか、誰かとはぐれていないか。聞いたことは、戻って伝える。
それを二度繰り返した頃、アルトが迎えに来た。
「向こうの小屋へ、声を届けてほしいんです」
息が上がっていた。
「ゴルドさんたちが綱を渡します。大人は合図を見ていますけど、ニノが、動けなくなっていて」
オレはセラを見た。
彼女は、近くにいた屋台の女へ桶を任せた。
「ここは引き継げる。行って。手を出す場所と、声を出す場所を混ぜないで」
「分かりました」
鶏の人形を取った。
今度は、何をするかを持って外へ出た。
*
水路は、さっき見たものとは別の道になっていた。
茶色い水が、石の縁まで来ている。ところどころで白く巻き、細い枝がそこへ吸われる。対岸の作業小屋は、腰ほど高い石台に載っていた。その上に、四人。
トマ。ニノ。若い職人が二人。
こちら側にはゴルドとベリル、それから衛兵が一人。マルヴァは水路を下って、合流点の方を見に行っているという。
「近づきすぎるな」
ゴルドが言った。
すでに一度、綱を投げたあとだった。端を束ねたものが、対岸へ届かず流され、こちらへ引き戻されている。
距離は、驚くほど遠いわけではない。
しかし、重い綱を向かい風の中で、狙った場所へ落とすには遠い。投げる者は川縁へ出られないし、受ける者も台の端へ身を乗り出せない。
届きそうなのに、届かない。
その方が、見ている者を焦らせた。
ゴルドは綱を脇へ置き、細い紐を取り出した。長い綱に沿わせて持ってきた、道具を吊るすためのものらしい。
「先に、こっちを渡す」
小さな布袋へ砂を詰め、紐の端へ結んだ。
「重い綱は、この細いのを向こうで引いてもらう。結び目が来たら、いったん止める。それを伝えろ」
衛兵が大声で叫んだ。トマが腕を上げた。
ニノは、父親の陰でしゃがんでいた。
オレは高い石の上へ立った。アルトが袖を押さえる。支えるというより、そこより先へ行くなという手だった。
「ニノ!」
呼んだ。
少年は顔を上げない。
もう一度呼ぶ。水の音が、途中で声をほどいていく。
オレは鶏の人形を上げた。
「王様が、朝ご飯を探してるよ!」
自分でも、今それかと思った。
ニノが顔を上げた。
オレは人形を振らず、見える高さで止めた。
「こっちにいる! 勝手に食べられないよう、戻っておいで!」
少年の口が動いた。何と言ったかは聞こえない。でも、父親の袖を握る手が、少し上へ動いた。
トマが子供を抱え直した。
今は、それでよかった。
*
衛兵が、もう一度、向こうへ声を飛ばした。
細い紐を渡す。次に綱を引く。結び目が来たら止める。
トマがうなずいた。だが、若い職人の一人は首を傾げていた。全部は聞こえていないらしい。
オレは横から口を挟んだ。
「一つずつ、言ってもらえますか。返事を見てから、次を」
衛兵がオレを見る。
偉そうに聞こえたかもしれない。だが、気にしている時間はなかった。
「さっき、客の人にも、後ろの方は聞こえてませんでした。分かった人がうなずくと、分からない人も動いちゃうので」
男は短く頷いた。
最初の説明だけを、もう一度叫ぶ。
向こうの職人が、今度は両腕で丸を作った。
次。
次。
話がゆっくりになったぶん、手の動きは揃った。
ニノは父親の袖を離し、台の奥へ移動した。受け取る人の足元を空けたのだ。オレは鶏を一度だけ上へ向けた。
少年が、それを見てうなずいた。
こちらの声が全部届かなくても、今、見ていると伝えることはできた。
ゴルドは紐の端を確かめていた。
ベリルが、その肩へ手を置く。
「一度で、いけるか」
「分からん」
爺さんは言った。
「風が揃えばな。外れたら、同じのを何度もやるとは思うなよ。向こうから来る手も、待っておけ」
魔法を使えば確実に助かる、とは言わなかった。
ベリルは唇を噛み、頷いた。
「分かった」
その返事を聞いてから、ゴルドは目を閉じた。
いつもの冗談を、誰も求めなかった。
ゴルドは、右手を開いた。
殴るときの形ではなかった。
指を離し、掌の中心を少し窪ませる。左手の布袋が、その前へ来る。砂の入った端が、風の中でゆっくり揺れた。
爺さんが、息を吸った。
「ここで吸う」
教科書の余白が、頭に浮かんだ。
ゴルドの口から、知らない節が出た。短い言葉が三つ。いつもの声なのに、置く場所が違う。一つ目を低く。二つ目を長く。三つ目を、歯の間で止める。
掌の前の雨粒が、丸く散った。
風が集まった、のだと思う。
見えたのは、粒の向きだけだった。
ゴルドが布袋を放った。
軽い袋は、途中で一度沈みかけ、それから押されるように伸びた。紐が空へ細い線を引く。
対岸の石台の奥へ、落ちた。
若い職人が踏みつけるように押さえ、拾い上げる。トマが腕を大きく回した。
届いた。
ゴルドの膝が、わずかに折れた。
ベリルが肩を支える。
「大丈夫か」
「舌を噛まんかった」
爺さんは、それだけ言った。
オレは笑いかけ、笑うには喉が固すぎると気づいた。
初めて見た魔法は、火柱でも雷でもなかった。
細い紐を、少し先へ届けただけだった。
その少しの向こうに、人がいた。
*
重い綱が、対岸へ渡った。
両側で固定する。向こうは石の柱、こちらは水車小屋の太い梁。トマが結び、衛兵がこちらの結び目を確かめた。
すぐ人を渡すわけではなかった。
綱の低い位置へ流木が当たらないか。途中で緩まないか。上の橋を回った衛兵は、どこまで来ているか。確認の声が何度も行き来する。
オレは、早くと言いたくなった。
言わなかった。
さっき、布を選ぶ女へ言えなかったのとは違う。今は急いでいる人たちが、そのままでは渡せない理由を確かめている。
アルトが綱のそばで、荷に使う幅広の帯を繋いでいた。
人を支える輪を作る。結び目を一つずつ引く。家の荷車で使う組み方だという。ベリルも手伝った。劇の仕掛けで吊るす布とは、重さが違う。二人は互いの結び目を確かめた。
衛兵が言った。
「子供だけ先に送れるか」
向こうのトマが首を振った。
ニノは、父親から離れられなかった。
オレは人形を上げかけた。励ませば動くのか。笑わせれば怖さが消えるのか。
消えない。
怖いものは、怖い。
アルトがこちらを見た。
「一人にしないで、渡せませんか」
衛兵は、綱と人数を見比べた。
そのとき上流から、別の衛兵の声がした。回り道をした組が、向こうへ着いたのだ。先に細い綱を使って荷を渡し、大人が両側から付き添えば、低い場所を横切らずに上の斜面へ上げられるという。
ここを横断させるより、そちらの方が安全だった。
渡した綱は、対岸の衛兵が斜面へ回すことになった。
せっかく準備した方法を変えるのに、誰も腹を立てなかった。
助かる方へ、変えた。
*
待っているあいだ、こちらの足場でも問題が起きた。
外れた板が流れてきて、水路の縁へ斜めに引っかかった。そこへ小枝が溜まる。水が手前へ盛り上がり、足元の泥が少しずつ削れる。
ゴルドが動こうとした。
アルトが前へ出た。
「僕が、棒を持ってきます」
「届くか」
「長いのが、裏にありました」
走って戻り、棒を低く差し入れる。水へ突っ込むのではなく、板のこちらへ出た端を押す。
押し返された。
足が滑る。
オレが名前を呼ぶ前に、彼は棒を離した。両手を空けて、梁へ掴まった。ゴルドが襟を引く。
棒だけが流れた。
「すみま――」
アルトは謝りかけ、息を吐いた。
「一人では、無理です」
そう言った。
ゴルドが頷く。
「分かった。別の手だ」
綱を板の端へ掛け、二人で引くことになった。ベリルが荷鉤を持ってきた。アルトは、今度は背後の柱へ補助の綱を結び、自分が戻れる位置を確かめてから動いた。
板が外れた。
水が、一度大きく鳴って流れた。
アルトは座り込んだ。剣は、鞘に収まったままだった。
「誰か得意な人が、いれば、任せたいんですけど」
震える息の間に、言う。
「いないところは、僕も、やります」
爺さんが肩を叩いた。
「全部やろうとせんでいい。今みたいにな」
*
対岸では、最初に若い職人が一人、斜面へ上がった。
石の出っ張りを確かめ、そこから後ろの者へ手を出す。綱は身体の代わりに歩いてはくれない。滑りかけた足を止め、次の足を置く時間を作るだけだった。
オレは、上がった人数を指で数えた。
一人。
次に、ニノ。父親と衛兵の間にいる。動かないときは大人も止まった。押されて転ぶより、少し待つ方がよかった。
少年が一段上がる。
二人。
トマがそのあとに続く。片腕を庇い、何度も後ろを見る。まだ残っている職人が、最後の道具をまとめていた。
置け、とこちらの衛兵が叫んだ。
職人は迷い、それから袋を台へ残した。
オレはその動きを見た。
道具を捨てろ、と簡単には思えなかった。あれが明日の仕事になることを、少し前に教わったばかりだ。それでも、今は袋を置くしかなかった。
四人が石台を離れた。
ゴルドは、そこで初めて大きく息を吐いた。
オレは鶏の人形を下げ、両手で握った。
無事だと分かってからの方が、指が震える。
アルトが隣へ来て、人形の頭を見た。
「濡れちゃいましたね」
「はい。朝ご飯としては、少し」
「煮れば、大丈夫かも」
「料理の話にしないでください」
彼は、困ったように笑った。
オレも笑った。
笑ったあとに、急に涙が出そうになったので、顔を水路の方へ向けた。
ニノたちが高い道へ戻ってきたのは、空が暗くなり始めた頃だった。
少年は衛兵の背に負われ、父親の手を握っていた。オレを見ると、人形を探すように目が動いた。
鶏を見せる。
「まだ、食べられてないよ」
ニノの顔が崩れた。
笑ったのではない。泣き始めた。
オレは人形を下げた。
笑わせなくていい。
泣ける場所へ戻ってきた。それが、今のところの、いちばんよい結果だった。
ゴルドは壁へ背を預けていた。マルヴァが戻り、その前へ水の杯を置く。
「届いたね」
「ああ」
二人とも、それ以上は言わなかった。
教科書に、まだ読んでいない頁がたくさんあることを、オレは思い出していた。