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第30話 笑えない人の隣

第30話 笑えない人の隣

「こちらへ。水が上がってきます」

 女は、オレを見なかった。

 濡れた青い布を胸へ抱え、屋台の奥へもう一度手を伸ばす。棚には布が何巻も並んでいた。明るい赤、黄色、まだ染めていない白。どれも、持つには重そうだった。

「先に、人が上へ移っています。荷は、あとで」

「これを、置いていけって?」

 声は怒っていなかった。

 怒っていないから、簡単に反論できる話ではないと分かった。

 布を一本。もう一本。腕へ重ねる。指が色で青く染まっていた。

「何日かけたと思ってるの」

 オレは周りを見た。

 高い道までは、まだ戻れる。足首より下の水。流れは弱い。しかし溝からは、絶えず新しい水が湧いてくる。何度見ても、減ってはいない。

「全部は、持てません」

「分かってる」

 女は言った。

「分かってるから、選んでるんじゃない」

 オレは口を閉じた。

 急いで、と言うのは簡単だ。選べと言われているのが、自分の何週間分かなら、手が止まる。

 女の腰には、小さな鋏があった。柄の片方に、布が巻いてある。使う者の指に合わせた道具だ。

「その鋏も、一緒に」

 女が初めて、こちらを見た。

「布だけじゃなくて。あとで、また作るなら」

「またって、簡単に言うね」

「簡単じゃ、ないです」

 すぐに言えたのは、セラの話を聞いたあとだったからかもしれない。道具を取れば返せない。できあがった物を失うのと、作る手まで失うのは、同じではない。

「アタシが一本持ちます。どれがいいか、決めてください」

 女は棚を見た。

 青い布へ目を戻す。

「これ」

 オレは受け取った。濡れている。重い。客の皿を運ぶときと同じように、重さを腕ではなく身体へ寄せた。

「お名前は?」

「エダ」

「エダさん。アタシはミアです。あっちの石段まで、一緒に行きます」

「知ってる。竜の娘でしょう」

 また、それか、と一瞬思った。

 でも、彼女は続けた。

「昨日、うちの子が笑ってた」

 オレは、抱えた布を持ち直した。

「今日は、笑わせる余裕がないです」

「そうだろうね」

 二人で、屋台を出た。

     *

 屋台を出るとき、エダは壁に掛けてあった札を外した。

 染め物の値段ではない。小さな木に、家の印らしい模様が彫られていた。花か、鳥か、濡れていて分からない。

 オレが見ていると、女は言った。

「夫が作った。字が下手だから、絵にしたんだよ」

 布の染みた指で、泥を拭う。

「今は、お一人でお店を?」

「ああ。去年から」

 それ以上は、聞かなかった。

 彼女が青い布ばかり選んだことの意味も、勝手に決めなかった。夫が好きだったのかもしれない。ただ高い布なのかもしれない。どちらでも、今、この人が持っていきたい物だった。

「重かったら、言って。半分、私が持つから」

 エダが言った。

 助けに来たつもりの相手に、心配されている。

「大丈夫です。皿を運ぶのは、慣れてるので」

「布は皿じゃないよ」

「ですよね。さっきから、少しずつ水を吸ってます」

「布だからね」

 女が、ごく短く笑った。

 オレはその笑いを、続けようとしなかった。歩く方が先だ。

 通路を塞いでいた籠を、足でどける。手は布で埋まっている。無理に持ち上げると、自分も相手も動けなくなる。

 エダが空いた片手で籠を支え、オレが身体を横へ滑らせる。そのあと、オレが布を持ち直し、彼女の腕の分も少し受ける。

 二人で交替しながら、狭い場所を抜けた。

 誰かを助けるとき、助ける側だけがずっと力を出しているわけではない。

 女が足を動かし、自分の荷を選び、オレの通る幅を作っているから、一緒に戻れていた。

 途中で、エダの足が止まった。

 板の下へ、何かが流れていった。小さな木箱。彼女の屋台から出てきた物らしい。

「あれ、糸が」

 手が伸びた。

 オレも反射的に伸ばしかけた。指先が、水面へ近づく。

 頭の中で、床が入れ替わった。

 磨かれた石。白い照明。横から伸びる手。薄い紙を、両手で角度を揃えて差し出している。次の瞬間、脇腹の内側が冷えた。

 痛みではなく、冷たさだった。

 息が抜けた。

「ミア?」

 エダの声で、戻った。

 水。布。濡れた靴。

 オレは伸ばした手を引いた。

「追いません」

 声が震えた。

 自分にも言った。

「あそこ、板の下です。足が入ったら、抜けないかもしれない」

 エダは木箱を見送った。口が一度、固く結ばれる。

「分かった」

 それだけ言い、また歩き出した。

 石段の手前で、アルトが来てくれた。オレたちの荷を受け取るより先に、足場を確かめる。石へ一枚ずつ足を載せ、滑らない位置を指した。

「ここに、足を。手は、僕の腕へ」

 エダが上がる。

 オレも上がった。膝が笑っている。さっきの冷たさが、まだ脇腹にある。

 アルトが聞いた。

「どこか、打ちました?」

「いえ。ちょっと、怖くなって」

「僕もです」

 彼は、ごく普通に答えた。

 その返事で、息が一つ通った。

     *

 高い道には、荷物と人が溜まっていた。

 誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが濡れた品の値段を口にしている。行く先が分からないまま止まると、後ろの人も止まる。

 セラが、古い集荷所の扉を開けさせていた。

「ここへ入れる人は、中へ。怪我人は左。荷物は壁沿い。入口を塞がないで」

 衛兵が二人来ていた。ギルドの指示で周辺を回っているという。セラは彼らへ分かっている人数を伝え、まだ下に人がいないか確かめてほしいと頼んだ。

 オレはエダの布を壁へ置いた。

 女は鋏を外し、布の上へ載せた。ずっと握っていた青い手が、ようやく開く。

「子供は、姉の屋台にいる。先に上へ行ったはず」

「確かめます。お名前を」

 名を聞き、姉の屋台の品物を聞いた。走り出す前に、セラへ伝えた。自分の頭だけに入れると、探している途中でほかの用事が入り、分からなくなる。

 セラは紙へ書いた。

 エダ、子供一人、姉と合流確認。

 人が一行になることに、前は冷たさを感じた。今は、その一行があると、どこへ戻せばいいか分かる。

 書類も、使う場所によるらしい。

     *

 エダは、しばらく誰とも喋らなかった。

 オレが水を持っていくと、受け取って、布の端を濡らした。飲むための水だと言いかけたが、彼女の指が子供の服へついた泥を落とす形で動いているのを見て、止めた。目の前には子供がいない。それでも、手はそういうことをしたがっていた。

 もう一杯、持っていった。

「こっちは、エダさんの分です」

 女は杯を見て、少しぼんやりしてから口へ運んだ。

「ごめん。水、余ってるわけじゃないだろう」

「汲みに行く人がいます。必要な分を、使っていいそうです」

 そう言ってから、あとで本当に水の係へ確かめようと思った。安心させるために、ない約束まで増やしてはいけない。

 エダは壁へ頭を預けた。

「夫がいたら、さっき、怒られた」

 初めて、自分から話した。

「物より先に上がれって。分かってる。言うことも、声も、今でも分かるのに」

 オレは隣へ座った。

「荷を離したら、全部なくなる気がして」

 青い布の上に、彫り物の札があった。

 オレの引き出しにも、古い木の取っ手がある。人から見れば捨てる物だ。なくなれば店の記憶まで消えるわけではない。それでも、なくしていいとは思えない。

「全部は、なくなってません」

 言った。

 女は返事をしなかった。

 オレも、それ以上は言わなかった。なくなった物は、確かにある。残った物を並べて、悲しむ分まで引き算することはできない。

 しばらく座ってから、エダが自分で立ち上がった。

「娘の場所を、確かめてくる。布、見ててくれる?」

「はい」

 オレは頷いた。

 預かった物が、また一つ増えた。

 ベリルは、人形の箱を二つ持ってきた。

 残りは高い棚へ移したという。舞台は捨ててはいないが、固定し直す余裕はない。夕方まで水が増えれば、流れるかもしれない。

 ニノは、一緒ではなかった。

「父親のところだ。職人と上へ行った」

「取水口ですか」

「ああ。道具を届けに行くと言ってた。大人が二人ついている」

 オレはうなずいた。勝手に不安を増やしても仕方がない。しかし、仕事のある大人は、みんな同じ方向へ動いている。誰が誰を見ているのか、途中で分からなくならないだろうか。

 ゴルドが集荷所へ顔を出した。

 濡れていた。胸から下だけでなく、肩まで暗い色になっている。

「上の道が切れかけてる。取水は止めたが、戻りに使ってた板橋が外れた。向こうにトマたちが残ってる」

 オレの喉が狭くなった。

「ニノも?」

「いる。小屋の石台までは上がってる。今すぐ流される場所じゃない」

 ゴルドは、先にそこを言った。

「衛兵が上の橋から回る。だが、道がぬかるんでる。こっちから綱を渡せるなら、その方が早い」

 手には、長い綱があった。

 買っていたものだった。

 使わずに済めば、それでよかったもの。

 ベリルが箱を床へ置いた。

「俺も行く」

「来るなら、まず手を空けろ」

 ゴルドは人形を見た。

 ベリルは箱を開け、鶏を一体、オレへ渡した。

「頼む」

 それだけ言って、爺さんについていった。

     *

 オレも行こうとした。

 行って何をするかは、まだなかった。でも、ここで待っていると、自分だけ安全なところへ残るような気がした。

 セラが入口から呼んだ。

「ミア。手が要る」

 振り返る。

 集荷所の奥で、子供が泣き始めていた。親が一人、探しに出ようとしている。怪我をした男が、血を見たくないのか、床ばかり見ている。

「ここにも、仕事がある」

 セラは言った。

 諭す声ではない。本当に、手が足りなかった。

 オレは鶏の人形を見た。

 まだ、笑わせる話ではない。

 まず、ここに誰がいるのかを確かめる。誰を待っているのかを聞く。泣く子の隣へ座る。水が欲しい人へ渡す。

 オレは中へ戻った。

 今いる人を見ないまま、向こうにいる人のためだと言って走り出すのは、違う気がした。

 鶏を脇へ置き、濡れた手を拭いた。

「何から、しますか」

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