第29話 面白くない話を聞いてください
第29話 面白くない話を聞いてください
翌朝の土は、靴へついて離れなかった。
夜のうちに、小雨が降ったらしい。空は明るい。屋台の主人たちは、幕を張り直しながら、これなら客は来ると言い合っていた。
川の色だけが、昨日と違った。
緑がかった水が、薄茶色になっている。橋脚にぶつかる音も、少し太い。流れてくる枝が、見ている間に二本、三本と増えた。
トマは朝から、取水口へ人を出していた。
「水車の仕事は、昼までで止める。こちらも先に逃がし口を開ける」
ベリルが舞台の脚を見た。
「市は?」
「今すぐ浸かる高さじゃない。ただ、川側へ荷を積むな。通路を空けておいてくれ」
それだけで、作業は増えた。
客用に並べた箱を動かし、荷を内側へ寄せ、低いところに置いた布を上へ上げる。朝の稽古は短くなった。ニノは鶏の人形を握ったまま、父親の背中を見ていた。
「お父さん、今日は見られるかな」
オレは、見られるよとは言わなかった。
「出番が来たら、ちゃんとやろう。あとで話せるように」
ニノはうなずいた。少し、残念そうだった。
*
昼前には、客が集まった。
昨日見た子が友達を連れてくる。屋台の間を走り、親に呼び戻される。鍋の湯気に小雨が混じり、匂いが地面へ近くなった。
雨が止むと、皆がほっとした。
川の水は、止まらなかった。
オレは客を案内しながら、何度も橋を見た。赤い板は、まだ上がっていない。ただ、取水口から戻った若い職人が、トマと長く話していた。
口元までは見えない。手の動きだけが速い。
セラがこちらへ来た。
「次の回を、少し遅らせるわ」
「何かあったんですか」
「上の格子に、流木が詰まってる。取水を絞りきれない。こっちの逃がし口も、途中から動きが重いそうよ」
昨日、トマが叩いた軸を思い返す。
今のも動く。ただ、重くなってからだと噛む。
「閉めればいいんじゃないんですか」
「閉めるために、詰まった物をどけてるところ。指で栓をするのとは違うの」
分からないことを、簡単な動作に置き換えていた。
オレは口を閉じた。
セラは、先にベリルへ説明に行った。ゴルドは用意していた綱を持ち、水門へ向かった。アルトは裏口の荷を上へ移した。
オレの仕事は、客を止めることになった。
*
「次の回は、少しお待ちください」
最初は、いつもの声で言った。
笑顔で。驚かせないように。理由を短く。
「川の水が増えています。安全を確かめていますので、こちらの通路を空けて――」
「竜でも来るのか?」
客が笑った。
周りも笑った。
オレの口も、習慣で笑いそうになった。
「いえ、今日は、面白い話ではなくて」
「新しい前口上だろう。昨日の王様も面白かったぞ」
褒められた。
褒められたせいで、言葉が届かなくなった。
舞台衣装。兎の耳。よく通る接客の声。昨日は人を呼ぶために使ったものが、今日はすべて、冗談だと受け取られる理由になっていた。
オレは耳を外した。
髪が少し乱れ、額に雨粒が落ちた。
「本当に、川の水が増えています。小屋へ寄らず、広場の内側へ移ってください」
声を低くした。
何人かが動いた。動かない者もいた。
「ギルドは何て言ってる?」
「今、確認に――」
「じゃ、決まってから呼んでくれよ」
男は屋台へ戻った。
オレは足を出しかけ、止めた。怒鳴ればいいのか。追いかければいいのか。分からない。
焦るほど、自分の声が薄くなっていく。
背後から、木の板を打つ音がした。
ベリルだった。
「上演中止です。今の回の代金は受付でお返しします。返金は明日以降も受けます。今は道を空けてください」
金の話をすると、客の顔が変わった。
面白い前口上のために、興行師は金を返さない。
セラが領収の札を見せ、受付を高い道の方へ移した。
ようやく、人が流れ始めた。
ベリルがオレの横へ来る。
「悪かった。今日は、その格好で言わせる話じゃなかった」
「アタシも、いつもの言い方をしました」
「次は、別の声を借りよう」
彼は呼び込みの板を、オレへ渡した。
叩く。
音が、鍋の匂いと笑い声の中へ、固く入っていった。
*
受付を移すにも、最初は人がついてこなかった。
金を返すと言われると、その場で返してほしくなる。セラの机の前へ列ができ、通路がまた狭くなった。
オレは列の先へ回った。
「お金を受け取る場所が、変わります。順番はそのままです。先頭の方から、こちらへ」
「後から来た奴が、先に取るんじゃないか」
男が言った。
それを心配しているのだと、分かった。水が来る話より、自分の番が消えることが近い。
セラが札へ数字を書き、順に渡した。
「この番号で受け付けます。急いで並び直す必要はありません。今日ここで返せなかった分も、記録を残します」
男は札を見た。
ようやく歩いた。
紙一枚で人を動かせることもあれば、紙一枚がないせいで動けないこともある。相手が何に足を取られているかを、ちゃんと見なければ分からない。
広場の端では、別の屋台の主人が布を下ろすのを渋っていた。
「さっき火を入れたんだ。これを売らなきゃ、全部無駄になる」
大鍋の中には、焼いた肉が並んでいる。脂が音を立てていた。
オレは鍋を見て、空の荷箱を見た。
「蓋、ありますか。火だけ先に止めて、上へ運べませんか」
「運ぶって、誰が」
ベリルが荷運びを二人呼んだ。売る場所が変わるだけなら、と主人はようやく火へ向き直った。
全部諦めろと言うより、一つだけ次へ運べる形を作った方が早い。
だが、何でもそうできるわけではなかった。
水車で挽く粉の商人は、まだ仕事を続けると言った。途中で止めれば、臼の中身を捨てることになるという。
オレは言葉を探した。
そこへトマが来た。
「今、止める。引き取りに来てくれ。粉の分は、あとで相談する」
「お前が払うのか」
「今は、止める」
男の声が固かった。
オレでは出せない声だった。トマは相手の文句を聞いたまま、仕事を止めるための人を呼んだ。
何もかも納得してもらうまで待つ余裕が、もうなくなっていた。
オレは、そこをトマへ渡した。
話が通じなかったことを自分の失敗にして、なお話し続ける方が、邪魔になることもある。
ベリルと一緒に、別の屋台へ向かった。
歩きながら、何度も川を見た。朝、石の縁に見えていた白い線が、もう見えなくなっている。
あの線がどれだけ低かったのか、今になって初めて分かった。
赤い板が上がったのは、その直後だった。
取水口の方から、職人が走ってくる。
「下の道、空けてくれ! 水、来るぞ!」
川の低い側で、排水の溝が逆に溢れた。
最初は、浅い水だった。
子供が水たまりのつもりで足を入れ、親に引っ張られた。屋台の主人が箱を持ち上げる。油の鍋に蓋をする。火へ水をかけようとした男を、隣の女が止めた。
誰もが、自分の仕事を片づけながら逃げようとしていた。
そのぶん、遅かった。
オレは店主の屋台へ走った。店主はすでに火を落とし、蓋をした鍋を二人で運ぼうとしていた。
「ミア、皿は置け」
反射的に積んだ皿へ伸びた手を、止められた。
「割れたら、買う。先に人を」
厨房なら怒られる動きを、今は命じられた。
オレは頷き、足元を見た。
子供が一人、親の手から離れかけている。袖を掴みかけ、やめる。転ばせないように隣へ屈み、名前を聞いた。答える前に、母親が戻ってきた。
「この子、ここです!」
呼ぶ声は、さっきより出た。
母親が抱き上げる。ありがとう、と言いかけたので、オレは高い道を指した。
礼は、あとでよかった。
*
舞台の幕が、風を受けた。
ベリルとアルトが片側を外している。もう片側の紐が濡れて締まり、ほどけない。オレは脚立へ上がろうとした。
「下がって!」
マルヴァの声だった。
身体が、先に従った。
布を留めていた横木が外れ、脚立の横へ落ちた。水が跳ねる。さっきまでオレの頭があった高さを、木の端が通った。
マルヴァは横木を足で止め、アルトへ端を渡した。
「二人で持って。荷はあと。今は通り道を作る」
オレは立ち尽くした。
怒られたわけではない。けれど、自分がまだ、何を先にすべきか分からないことが、急に寒かった。
「四人目」
マルヴァが呼んだ。
「あんたの客は、どこにいる」
オレは顔を上げた。
客席は空いている。だが、広場の端、染め布を売っていた女が、屋台の中へ引き返していた。
青い布を抱え、動かない。
周りの者は、自分の荷を持っている。誰も、そこまで手が回らない。
「あそこに、一人」
「じゃ、声をかけておいで。無理に引っ張るな。戻れなくなる前に呼べ」
オレは頷いた。
兎の耳は、まだ手の中にあった。
それを腰へ挟み、濡れた道を渡った。