第28話 幕が上がるまで
第28話 幕が上がるまで
貼り紙を差し替えてから六日。宵市の初日は、玉葱を刻む音で始まった。
店主が鍋を二つ、火へかけている。片方は昼の店、片方は夜の屋台。オレは約束した時間まで仕込みを手伝い、白ひげチーズを薄く切った。
柔らかい部分は包丁に貼りつく。厚いとパンから流れ、薄いと味が足りない。バートンから届くたび少し違うので、最後は舌で確かめるしかなかった。
「それ、試食の枚数として多くないか」
「品質を揃えてます」
「胃の方にか」
店主に見つかった。
オレは切った分を並べ、布をかけた。昼までにするはずの仕事は済んだ。だが、厨房にはまだすることがある。鍋も、パンも、串も。
出ていくのをためらっていると、店主が手を振った。
「行け。あっちも待ってる」
「こっち、大丈夫ですか」
「足りない手は頼んだ。あんたが二人になる方を待つより早い」
奥から、いつもの露店の女が顔を出した。昼の片づけを手伝い、夜は店主と屋台へ出るという。
「ミア、舞台で転ばないんだよ」
「転ぶ予定はないです」
「予定にない方が、よく転ぶんだ」
経験のある言い方だった。
オレは手を洗い、袖口を替え、買った靴の紐を結んだ。
上の穴だけは、きつくしない。
*
広場に着くと、昨日まで見えなかった壁が、布と木になっていた。
煮込みの匂い。削った木の粉。染めた布の赤。鉄の鍋を叩く音。あちこちから声が飛び、どれも、うちを見てくれと言っている。
まだ昼なのに、腹が減った。
ゴルドは荷車の誘導、アルトは一座の食事と裏口、セラは受付と釣銭、オレは客席と幕間。それぞれの位置を確認し、一度だけ四人で集まった。
「具合が悪くなったら、早めに言う。困ったら、見栄を張る前に呼ぶ」
セラが言った。
「分かってます」
「主に、二人に言ってる」
ゴルドとオレが、同時にそっぽを向いた。アルトが笑った。
ベリルが幕の裏から出てきた。
「最初は短いのをやる。子供が座ったら、その後ろへ大人を。通路は必ず空けてくれ」
ニノは人形の箱を抱えていた。父親のトマは水門の点検を済ませてから、見に来ると言ったらしい。
「来てくれるといいね」
「うん。でも、来たら、間違えそう」
「来なくても緊張するんでしょう?」
「うん」
どちらを選んでも難しいなら、来てもらう方がいい。そう言いかけて、やめた。本人が決めることだ。
代わりに、王様の冠を直した。
「今日は、朝ご飯にされないようにしよう」
ニノが少し笑った。
*
最初の客は、三人だった。
子供が一人、母親が一人、腕を組んだ老人が一人。広い席の前に三人だけ座ると、呼び込みの声が、妙に大げさに響く。
「本日はこちら、王様より鶏の方が賢いお話です♪」
言ってから、ニノの人形へ目をやった。
王様が、怒っている。
「失礼しました。王様にも、よいところはあります」
「どこだ」
ベリルの声が、人形から出た。
「給金を、ちゃんと払います」
セラが受付でうなずいた。
客が笑うより先に、ゴルドが笑った。身内の笑いは、反則のようでありがたい。少し遠くで足を止めていた親子が、その声に引かれて入ってきた。
芝居が始まった。
ニノの最初の台詞は、短い鶏の鳴き声だった。それなら出る。ベリルが間を取り、王様が返す。少年が次の声を出すまで、冠をいじる。
昨日までの稽古と、同じ。
同じにするために、大人たちが細かく動いている。
オレは客席を見た。落ち着かずに立ちかけた子を、母親が抱き寄せる。その隣の老人が、見えるように少し身体をずらした。
笑いは、一人ずつ出る。
いっぺんに出るのは、少しあとだった。
*
午前の回が終わると、オレは客席の下へ落ちた木の実の殻を拾った。
舞台に立つ仕事だと思っていたが、しゃがんでいる時間も長い。小さな物を踏んで転ぶ客がいないように、板の隙間まで見る。
エダが隣の屋台から、短い箒を貸してくれた。
「手でやってたら、腰をやるよ」
「ありがとうございます。戻します」
「使ってる間は、そっちへ置いときな」
彼女の屋台には、染めた布と、それで作った小袋が並んでいた。青いものだけ、端へ一列に置かれている。
「その色、綺麗ですね」
「三度染めた分。手間だけなら、いちばんかかってる」
エダは指の青い染みを見せた。
「売れるんですか」
「売りたいから、ここへ持ってきたんだよ」
笑われた。
当たり前だった。店に並んでいる物は、売れた物ではなく、これから誰かに選んでもらう物なのだ。
客が来ると、エダは話を切り、布を広げた。光へ透かし、厚さを確かめてもらう。褒めるだけでは売れない。何に使うのかを聞いて、その用途に合う大きさを示す。
オレは、その手順を少し見ていた。
強いかどうかではなく、何に効くか。
客は青ではなく、染めていない白を買った。
エダは残念そうな顔をしなかった。包んで渡し、次の客へ向き直る。
自分がいちばん苦労した物と、相手が必要な物は、同じとは限らない。
そのあたりまで考えたところで、ベリルに呼ばれた。
「ミア、次の案内を頼む!」
「はーい!」
オレは箒を壁へ寄せ、立ち上がった。
次の回には、泣いている赤ん坊がいた。
母親は困り切っていて、入ったばかりなのに席を立とうとしている。後ろの老人が眉をしかめたのを見て、さらに慌てた。
オレは出口へ行く道を空けた。
「外の端に、座れる箱があります。よかったら、そこで少し。落ち着いてから戻れますよ」
「途中で出たら、もう一度払うんじゃ」
「同じ回ですから。こちらの札、持っていてください」
ベリルと決めてあった印を渡した。
母親は何度も謝った。謝る声にまた子供が泣く。オレは水を一杯持っていき、何も言わずに置いた。
戻ってきたのは、芝居が半分進んだ頃だった。
子供は眠っていた。
さっき眉をしかめた老人が、自分の隣を少し空けた。母親はそこへ座り、残りを見た。
誰か一人を悪い客にすれば、話は簡単だった。
でも、席を少しずらす方が、今日は早かった。
オレは出口の脇に立ち、次に立つ人がいないかを見た。舞台へ向ける顔だけが、観客の全部ではなかった。
午後になると、客は増えた。
オレが竜を従えるところを見に来た客もいた。訂正すると、がっかりする者も、笑う者も、騙されたと言う者もいる。
「前の貼り紙を見て来られた方には、こちらで説明します。まだ御覧になっていなければ、入場料はお返しできます」
セラが淡々と繰り返した。
数人が返金を受けて帰った。
ベリルは、その硬貨が机から減るところを見た。目をそむけなかった。
一人、若い男がオレへ言った。
「竜がいなきゃ、ただの遊び人じゃないか」
言葉は、予想した場所へ刺さった。
反射的に笑って、そうなんです、と返しかける。そう返せば、楽に終わる。
でも、後ろではニノが出番を待っていた。
「そうです。今日は、アタシたちの芝居を見てもらってます」
男は肩をすくめ、去っていった。
勝った感じはしなかった。
ただ、謝らなくていいところまで謝らずに済んだ。
幕の裏で、ベリルが小さく頭を下げた。
オレはうなずき、次の客へ向き直った。
*
日が落ちる前、トマが来た。
仕事着のまま、手の汚れだけを洗っていた。客席の一番後ろへ座り、膝に帽子を置く。ニノは幕の隙間からそれを見て、顔を引っ込めた。
「どうしよう」
「どうもしない。いつもの順番」
ベリルが言った。
その声には、普段の冗談がなかった。
オレは王様を受け取った。今日は一場面だけ、ベリルと交替して出る。
幕が開いた。
「わたしが、この国の王様だ」
人形の声を出す。客の顔は、布の下から膝しか見えない。それでも、こちらへ向いているのが分かる。
鶏が出てくる。
ニノの声が、一度、止まった。
オレは王様に、客席を見回させた。
「今日は、朝ご飯が来ない」
子供が笑った。
鶏が、首を振った。
「そ、そっちの、言い方が」
声が細くなる。
待つ。
王様の冠を直す。
「言い方が、悪いんだよ!」
出た。
客席の後ろで、トマが帽子を握り直した。
オレは見えなかった。芝居が終わってから、アルトが教えてくれた。
*
初日の幕が下りたあと、ニノは父親の前で何も言えなかった。
トマも、何を言えばいいか分からない顔をしていた。
「……鶏だったな」
最初に出た感想が、それだった。
「うん」
「声、聞こえた」
「うん」
二人とも、同じ方へ視線をそらした。
ベリルが口を挟みかけたので、オレは袖を軽く引いた。
待つ。
今日は、それを何度も練習した。
「明日も、やるのか」
「やる」
「……じゃ、また来る」
ニノが顔を上げた。
胸の奥に、あの温かさが来た。オレが笑わせたわけではない。台詞を少し、待っただけだ。
それでも、そこにいられてよかった。
*
屋台の片づけを手伝いに行くと、店主が最後のパンを寄こした。
白ひげチーズは、端の焼けたところだけ残っていた。香ばしい。熱い。半分に割って冷まし、セラの分を先に皿へ置く。
「明日も、晴れますかね」
アルトが空を見た。
街の上に星はあった。しかし、山の方には一つもない。
トマが水門の小屋へ戻っていく。手には、昼と違う長い棒があった。
「上で、降り始めたらしい」
通りがかった職人が言った。
マルヴァは、パンを食べる手を止めた。
少し間を置いて、また食べた。
「明日の朝、足元を見てからだね」
オレは靴の裏についた土を落とした。
今のところ、乾いていた。