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第27話 名前が先に走っていく

第27話 名前が先に走っていく

貼り紙の中のオレは、竜を片手で押さえていた。

 もう片方には酒の杯。兎の耳は実物の倍ほど長い。胸のあたりは、診断所の紙を見たのかと疑いたくなるくらい、勝手な自信に満ちていた。

 頭の上には、大きな字。

 古竜を従える女遊び人、来演。

 その下に、小さく、推定レベル三十。

「誰ですか、これ」

 ベリルは貼り紙を見て、しばらく黙った。

 否定するより先に、オレの目を見た。その順番で、知らなかったわけではないと分かった。

「版元には、竜から生還したと伝えた」

「従えてません」

「見ての通り、絵だ。客も全部そのまま信じるわけじゃない」

「レベル六です」

 自分から言った。こんな形で発表するつもりではなかったが、三十を借りるよりはよかった。

 ベリルの目が、少しだけ細くなった。

「診断したのか」

「はい」

「だったら、数字は取ろう」

「竜も、取ってください」

「そうすると、何を見に来てもらう?」

 オレは口を閉じた。

 そこが、痛かった。

 何を見せられるか。何に金を払ってもらえるか。昨日、ニノと遊んだ芝居には笑い声があった。でも、街の端から人を呼ぶほどの名前はまだない。

 ベリルは、貼り紙の下を指した。

「一座の名だけなら、常連が来る。新しい顔が入るなら、それを知ってもらわないと。人が来なければ、あの子の声を聞く客もいない」

 ニノのことを言われ、返事が遅れた。

「……それでも、違うことは書けません」

「分かった。直させる」

 彼は一枚を壁から外した。紙が乾いた音を立て、端から少し破れる。

 それを見た途端、胸が苦しくなった。

 自分の名前が、大きな字で通りに出ていた。

 腹を立てているのに、嬉しかった部分がある。

 そのことだけは、ベリルに知られたくなかった。

     *

 貼り紙はすでに何枚か、街へ回っていた。

 昼の仕事へ戻ると、客が「竜は連れてこないのか」と聞いた。オレは笑って否定した。一度なら冗談になる。五度目には、声の角が少し立った。

「連れてきたら、お店、入れませんから」

「じゃ、外で芸をさせればいい」

 客は悪気なく笑った。

 オレも笑った。そういう仕事だった。

 裏へ下がると、店主が棚の上から紙を一枚下ろした。同じ貼り紙だった。ベリルから、店へ貼ってくれと頼まれたらしい。

「違うんだろう?」

「はい」

「じゃ、貼らない」

 それだけで、棚へ戻した。

「……お客さんが減ったら、困りますよね」

「嘘を当てにして来た客も、あとで困る」

 店主は、皮を剥いた玉葱を桶へ落とした。

「何をやるんだ」

「案内と、幕間を少し。あと、人形の相手役を、できたら」

「それを書いてもらえ」

 それで人が来るのか、とは聞かなかった。

 来なくてもいい、とも言わなかった。

     *

 仕事の合間に、ニノが店へ来た。

 父親の使いで、直した鍋の取っ手を届けにきたのだという。きちんと布へ包み、両手で持っている。オレを見ると、少し迷ってから声をかけた。

「貼り紙、変わるんだって」

「うん。アタシ、竜を飼ってないから」

「知ってる」

 子供にそこを即答されると、こちらが少し情けない。

 ニノは取っ手を渡してからも、帰らなかった。卓の角を指でなぞり、爪に引っかかった木の粉を落とす。

「僕、出なくても、いいよ」

 言った。

「どうして?」

「人が来ないと、困るんでしょう。僕が出る時間、ほかのをやっても」

 オレは布を畳む手を止めた。

 ベリルがあの子のためと言ったことを、本人も聞いていたのか。それとも、大人のやり取りから、自分でそこへ辿り着いたのか。

「ニノが出ないと、王様、誰と話すの」

「座長なら、一人で両方できる」

「そうだね」

 嘘で励ますのは、やめた。

「でも、アタシはニノの鶏とやるつもりで、台詞を覚えてるよ」

 少年が顔を上げた。

「上手い方がいい、とは、思う」

 オレは言った。

「でも、誰がやっても同じってことでもないでしょう。お父さんの金具だって、形が同じなら何でもいいわけじゃない」

「……穴のとこ、引っかからないようにするんだ」

 ニノは、取っ手を包んでいた布を開いた。

「そこ、何度も触ってた。父さん。指を切らないかって」

 小さな指が、磨かれた縁をなぞった。

 誰かが見ている。

 客が見る前の仕事を、見ている人がいる。

「じゃ、アタシたちも、もう一回、合わせよう。お客さんに見せる前に」

 少年は頷いた。

 帰る前に、一つだけ聞いた。

「竜、ほんとは怖かった?」

「ものすごく」

「僕のお父さんより?」

「そこは、比べたらお父さんが困ると思う」

 ニノが笑った。

 オレは、貼り紙を見直した。

 あの絵の中の女なら、怖くなかった顔をするのだろう。

 実物が絵に追いつくために、怖かったことまで消す必要はなかった。

 その夜、オレはベリルのところへ行った。

 倉庫の奥で、彼は帳面を見ていた。蝋燭は短く、指には黒い染みがある。宣伝を版元へ任せたと言っていたが、修正用の札は自分で書いていたらしい。

「まだ起きてたんですね」

「寝ても、紙は直らないからな」

 責めるつもりではない声だった。かえって、こちらが責められている気分になる。

 オレは向かいへ座った。

「文句だけ言って帰ったので。何て書くか、相談したくて」

 ベリルはペンを置いた。

 卓には、旅費と荷車代の紙があった。人形一体の修理代。舞台の木材。蝋燭。ニノの衣装に足す布。どれも派手ではなく、どれも払わなければ幕が上がらない。

「すごい人に見せたいわけじゃない」

 彼が言った。

「来てもらう入口が欲しかったんだ。中を見てもらえれば、笑わせる自信はある」

「入口で違う約束をすると、中の話も聞いてもらえなくなりません?」

「なるな」

 すぐ認めたので、驚いた。

「分かってることを、急ぐと飛ばす。長くやっても、そういうことはある」

 オレは貼り紙の兎を見た。

 見られたい。ちゃんと名前を呼ばれたい。お前には何ができる、と言われる前に、大きな字を置きたい。

 白い光の中で、文字が流れた。

 誰も読まない書き込み。送信したあと、何度も見直す指。返事の数字だけが増えない。

 目を上げると、ベリルがこちらを見ていた。

「どうした」

「いえ。アタシも、少し嬉しかったんです。名前が大きく書いてあって」

 言うと、急に恥ずかしくなった。

「でも、その絵ができると思って来られたら、アタシ、ずっと言い訳することになります」

「そうだな」

「ニノも、竜を連れてこられない人の次に出ることになる」

 ベリルが、紙をこちらへ向けた。

「じゃ、どう書く」

 オレはペンを取った。

 竜の愚痴を聞いた兎と、王様の朝ご飯。

 ベリルは読んで、口元を曲げた。

「弱いな」

「本当のことです」

「本当で、強い言い方を探そう」

 しばらく、二人で考えた。

 最後に残ったのは、こうだった。

 竜も喋る。鶏は黙る。さて、王様は?

 その下に一座の名と、ミアの名。レベルの欄はない。古竜を従えるという約束もない。

 これで本当に人が来るかは、分からなかった。

 分からないまま、こちらを採ることにした。

     *

 文面が決まったあと、ベリルは版元への差し替え費用を数えた。

 オレも袋を出しかけた。自分が嫌だと言ったせいでかかる金だ、と思ったからだ。

 彼が手を上げた。

「それは違う。最初に確かめなかったのは、こっちだ」

「でも、一座の金が」

「仕事の間違いを、出る子の金で直し始めたら、次から誰も嫌だと言えなくなる」

 オレは袋をしまった。

 少し前に、ニノが出なくてもいいと言った顔が浮かんだ。

 ベリルにもその話をした。責めるためではなく、少年が何を聞き取っていたかを伝えたかった。

 男は長く黙った。

 蝋燭が一度、揺れた。

「俺は、客の数を見ていた。あの子が俺の顔を見てるのを、忘れてたな」

 言って、残った紙を揃えた。

「明日、話す。出番を減らす話と、宣伝を直す話は、別だとな」

「お願いします」

 オレは立った。

 扉まで行くと、ベリルが呼び止めた。

「ミア。あの子を待ってくれて、ありがとな」

 オレは返事を探した。

 待つことを、技術として褒められたのは初めてだった。

「アタシも、待ってもらってるので」

 それだけ言って、外へ出た。

 夜の通りには人が少なかった。竜を従える女でも、推定三十の遊び人でもないオレが、一人で靴音を立てて帰る。

 派手さはなかった。

 けれど、明日も同じ名で店へ行けることが、少し嬉しかった。

 翌朝、二人で貼り紙を差し替えた。

 すでに古いものを剥がして持っていった客がいるらしい。全部を回収することはできなかった。版元は、最初に了解してくれれば直した、と言った。ベリルは、了解する前に配らせた自分の手順を認めた。

 オレも、配られた数を聞かずに怒って帰ったことを認めた。

 互いに格好の悪い話をしたあと、新しい紙を持って通りへ出た。

 露店の女が、二枚を見比べた。

「最初の方が、立派だったねえ」

「実物はこちらです」

「正直だね」

 買うとも、見に行くとも言わず、女は仕事へ戻った。

 正直さだけで客は増えないらしい。

 オレは釘を押し込んだ。紙の中の兎は、まだ実物より少し胸を張っている。

「そこも直します?」

 ベリルが聞いた。

「……姿勢くらいは、当日、合わせます」

 彼が笑った。

 オレも、少しだけ笑った。

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