第26話 届かない拳
第26話 届かない拳
ゴルドの荷物から、教科書が出てきた。
マルヴァに整理を命じられた成果だという。革の表紙は酒染みだらけで、角は丸くなっていた。それなのに、中の紙は意外なくらい丁寧に扱われている。
「読んでいいですか」
「笑わんならな」
開いた。
一頁目に、大きな字で名前が書いてあった。ゴルド。その下に、同じ字が三度。最後だけ、今より少し綺麗だった。
「練習したんですか」
「貸した本が戻らんと困るからな」
「名前を三回書いたら、戻るんですか」
「一回よりは」
理屈の弱いところは、昔かららしい。
余白には、詠唱の区切りが引かれていた。ここで吸う。ここは急がない。舌を噛む。そこだけ、何度も線が重なっている。
爺さんが教室に座り、若い学生と並んで息の練習をしている姿を想像した。
「何歳のときに、学院へ?」
「四十だ」
「大人になってからですね」
「大人は、学校に行かんとでも?」
「いえ。ゴルドさんが、椅子にじっと座ってるのが、ちょっと」
「座ってたぞ。殴れば済む問題が、一つもなかった」
それは確かに、難しい学校だ。
*
市の準備が始まってから、午後の宿は珍しく静かだった。
アルトは手紙を書きに自分の机へ戻り、セラは依頼料の前払い分を受け取りに行った。マルヴァは、水路の上の方を見に出たという。
オレは共用の机で教科書を読んだ。小皿の水を動かせなかったあと、借りた本を返しにくくなっていたので、別の入口があるなら知りたかった。
最初の説明には、力を集める前に、どこへ逃がすかを決めろ、とある。
「殴るときも、そうなんですか」
「殴るときは、殴ったあと自分がどこにいるかを決める」
「前に出ればいいわけじゃないんですね」
「前に出たまま戻れん奴は、多い」
声が、少し変わった。
ゴルドは自分の拳を見た。包帯はもう外れている。関節を曲げると、皮の色が白くなった。
「俺も、そういう奴だった」
マルヴァと出会ったのは、前線だったという。
敵が一人、隙を見せた。ゴルドはそこへ踏み込んだ。倒せた。だが、その向こうにもう一人いた。
「見えてなかったんですか」
「見えてた。先に倒せると思った」
その違いを、オレはすぐには飲み込めなかった。
「自分の拳が届くところは、全部自分の順番だと思ってたんだな」
笑った。自慢のときの笑い方ではなかった。
「足をやられて、腕も動かん。で、あいつが来た」
「マルヴァさん?」
「ああ。敵の顔へ、砂を投げた」
あまりに簡潔で、続きがあるのか待った。
「それだけですか」
「それだけでいい場所だった。俺が腕を振れない間合いでも、砂は届いた。相手が目を閉じた間に、俺の襟を引っ張って下がった」
「格好いいですね」
「俺は、地面を引きずられてたぞ」
「そっちじゃないです」
「分かっとる」
ゴルドは少し笑い、教科書を指した。
「あとで言われた。効く手が一本しかない奴は、その一本を折られたら終わりだ、と」
峠で動かなかった拳が、頭に浮かんだ。
「それで、魔法を?」
「殴れん場所に、もう一本手が欲しかった」
単純な答えだった。
それなら、オレは何に手を届かせたいのだろう。
賢者と書いた紙が、急に少し遠くなった。
*
午後のうちに、川の上流を一緒に歩いた。
宵市で使う飲み水は井戸から運ぶ。川の水は、道具洗いと火の始末に使う。桶を運ぶ場所を、前もって確認する仕事だった。
水車はゆっくり回っていた。羽根に絡んだ草が、一番上まで運ばれ、そこから落ちる。繰り返し見ていると、いつまでも終わらない遊びに見えた。
トマは水路の縁で、若い職人へ棒の差し方を教えていた。
「深く入れすぎるな。戻らなくなる」
オレはさっきの教科書を思い出した。
どこへ逃がすか。戻ったあと、どこにいるか。
教える相手が水でも拳でも、似た注意になるらしい。
「雨が続くんですか」
ゴルドが空を見ながら聞いた。
西の山に、灰色の雲があった。ハイベルの上は、まだ青い。
「上で降ると、こっちは晴れてても増える。前に傷んだ送りねじを替えたいんだが、品が遅れてる」
トマは水門の軸を叩いた。
「今のも、動く。ただ、重くなってからだと噛む」
「早めに開けとけんのか」
「開けすぎれば、粉挽きと染め場へ水が来なくなる。市の前は、あっちも仕事を止めたがらん」
男は川の両岸を見た。
見えるだけでも、水車が二つ、染めた布を干す枠がいくつもある。川は景色ではなく、それぞれの仕事へ少しずつ貸し出されていた。
「合図は?」
ゴルドが聞いた。
「上の取水口に赤い板を出す。増える前に、見張りが知らせる手順だ」
男が指した先には、道の曲がりで半分隠れた小屋があった。
オレは板の場所を覚えた。
使う場面がないといい、と思いながら覚える仕事もある。
*
帰り、ゴルドが長い綱を一本買った。
自分の財布を出しかけ、ないことを確かめ、セラから渡された経費袋を出し直した。財布をなくしたのではなく、最初から持たされていないのだった。
「便利じゃのう。なくす物がない」
「自慢にできる段階ではないと思います」
綱は、市の共同備品として明細に入れる。勝手に買って怒られないよう、先に必要性を話してあったらしい。
「何に使うんですか」
「使わず済めば、それでいい」
爺さんは綱を肩へ掛けた。酒瓶を運ぶときより、丁寧に持った。
宿へ戻ると、マルヴァが階段の下にいた。
ゴルドの綱を見る。
「短く切ってないね」
「届かんと困るだろう」
「そう」
彼女はそれだけ言って、横を通り過ぎた。
ゴルドは、その背中を少しだけ見送った。
「峠へは、昔も連れていってもらえなかった」
突然、言った。
「あんたの拳は、あそこじゃ効かない、だと。言われたときは面白くなかったが、実際、面白いくらい効かなかったな」
拳を振る。痛みは、ほとんどないらしい。
「言われたこと、ちゃんと覚えてるんですね」
「人の話だからな」
自分の武勇伝は、炎になったり氷になったりする。
でも、砂が飛んだ向きも、襟を掴まれた手も、この人はきっと間違えない。
オレは教科書を返した。
「少しずつ、また読んでもいいですか」
「いいぞ。名前は三回書いてある」
「一回でも、返しますよ」
ゴルドは笑い、綱を宿の物置へ掛けた。床へ落ちない高さで、すぐ手が届くところに。
*
翌日も、オレは店の裏庭へ出た。マルヴァに教わる約束など、していなかった。
それでも、店が忙しくなる前の一刻、裏庭に彼女がいると、オレもそこへ行くようになった。稽古場ではない。空き瓶が並び、洗った布が干され、たまに店主が葱を取りに通る。
その日は、丸めた布が一つ、卓に置かれていた。
「取ってみな」
マルヴァが言った。
「取ったら、何かされます?」
「欲しいのは布かい。それとも、先の説明かい」
「できれば、両方」
手を伸ばした。
彼女の指が、オレの袖口に触れた。掴まれたほどの力ではない。それなのに、布へ届くはずの手が、少し横へそれる。
空振りした。
「今の、もう一回」
今度は肩に力を入れた。袖を取られる前に速く動く。すると、彼女は布そのものを引いた。
指が卓を叩く。
「ずるいです」
「布を取る話だろう」
「そうですけど」
「私の手に勝てとは言ってない」
もう一度。
今度はマルヴァの顔を見た。目はオレの手首にある。なら、先に布を押して、卓の反対側へ落とせば。
布を押す前に、卓の脚を引かれた。
オレは、一歩よろけた。
マルヴァが肘を支えた。
「まだ、そこまで」
胸が熱くなった。悔しい。怪我もしていないのに、負けた感じだけが妙に強い。
「どうすればいいんですか」
「何に困ってる?」
「取れないことです」
「頼んでみたら?」
オレは、彼女を見た。
「……その布、ください」
「ああ」
渡された。
あまりに普通に渡されたので、しばらく受け取れなかった。
「欲しい物を取る手は、いつも一つじゃない。私が渡さない相手なら、別の手が要る。その順番を飛ばすなってだけだよ」
布は温かかった。握りしめすぎた自分の手のせいだ。
*
稽古のあと、二人で宵市の下見へ行った。
マルヴァは通りを歩くだけで、よく声をかけられた。敬礼する衛兵もいれば、手を振る薬売りもいる。彼女は相手ごとに、ほんの少し声を変えた。
大声で返す相手。近くへ寄ってから話す相手。顔を見せるだけで済む相手。
オレがそれを数えていると、彼女は言った。
「全部真似することはないよ」
「見てただけです」
「見てたから言ってる」
パン屋の角で、小さな子が座っていた。
物乞いではなかった。前に空の籠を置いて、母親が買い物を終えるのを待っている。だが、店からパンが出てくるたび、目だけがそちらへ動いた。
マルヴァは足を止め、パンを二つ買った。
一つを子供へ渡そうとして、やめる。店の奥へ声をかけた。
「この子に、少し食わせてもいいかい」
奥から女が顔を出し、いいんですか、と驚いた。
返事を待って、パンが渡された。子供は両手で受け取り、端から小さく噛んだ。
マルヴァは残りを半分に割り、オレへ寄こした。
「ありがとうございます」
「歩きながら食うと、詰まるよ」
言われて、店の壁際へ寄った。
焼きたての皮は硬く、中は柔らかい。口の端に粉がついた。マルヴァは子供を見るでもなく、通りを見ていた。
「小さい頃から、そういうの、上手だったんですか」
「パンを食うのが?」
「人を見るのが」
彼女はパンの切れ目へ目を落とした。
「上手くないと、食えなかったからね」
その声は、軽かった。
軽いから、聞き返すのが少し怖かった。
「家が、なかったんですか」
「途中からね。畑が焼けて、人も減った。食い物は、もっと減った」
戦争か、飢饉か。どちらだったのか聞こうとして、やめた。住む者にとって、境界はそう綺麗ではないのかもしれない。
「物をくれる大人と、くれるふりをする大人と、何もないのに追い払わない大人がいた。全部、顔が違う。見分け損なうと、その日は腹が減る」
彼女はパンを噛んだ。
「力はなかった。術も使えなかった。職業を書けと言われて、書けるものがなかった。それで遊び人」
オレは、ギルドの窓口を思い返した。
名前。職業。レベル。
同じ枠の前に、この人も立ったのだ。
「嫌じゃ、なかったんですか」
「嫌だった日もあるよ」
答えは、すぐだった。
「でも、紙を睨んでても腹は膨れない。先に食って、あとで嫌がることにした」
その順番が、店主の話と似ていた。
オレは残ったパンを食べた。食べ終わってからなら、もう少し上手く質問できる気がした。
「賢者になりたいって言ったら、今の自分を嫌ってるみたいに聞こえますか」
「それは、あんたが決めることだ」
マルヴァは手の粉を払った。
「ただ、今の手を捨ててから次を探す必要はない」
そう言って、オレの手を見た。
手袋の下の指が、パンの温度をまだ覚えている。
*
広場では、ニノが一人で幕を畳んでいた。
オレたちに気づくと、慌てて立ち上がる。幕の端が足へ巻きつき、また座った。
「ゆっくりでいいよ」
言いながら、手を伸ばしかけた。マルヴァは動かなかった。
ニノは自分で足を抜き、布を広げ直した。
「お稽古は?」
「夕方。今日は、客の前で少し」
声が震えた。
「怖い?」
「うん」
マルヴァが、舞台の箱へ腰を下ろした。
「じゃ、怖いまま、聞かせとくれ」
ニノは驚いた顔をした。
怖くなくなったらやれ、と言われると思っていたのかもしれない。アルトも、オレも、その待ち方をしてしまうことがある。
少年は人形を出した。
王様が国を治める話ではなかった。名前を呼ばれると隠れてしまう鶏の話だった。王様が呼ぶ。鶏は箱へ入る。王様は怒り、さらに大声で呼ぶ。鶏はもっと深く入る。
オレは王様を持ち、ニノは鶏を持った。
「出てこい。わたしの朝ご飯になるのだ」
鶏が、ぴたりと止まった。
マルヴァが吹き出した。
「そりゃ出てこないね」
ニノも笑った。笑うと声が途切れずに出た。
「王様、言い方が悪いんだよ」
「では、わたしの大切な」
「大切な?」
「朝ご飯に」
「同じだよ!」
今度は、少年が声を上げた。
通りがかりの荷運びが一人、足を止めた。少し離れて二人目も止まる。オレはそこを見ず、鶏を見ていた。
ニノが喋る間、待つ。
詰まったら、王様に冠を直させる。
沈黙の全部を、言葉で埋めなくてもよかった。
短い芝居が終わると、荷運びが笑いながら手を叩いた。ニノは人形の後ろで赤くなった。逃げなかった。
マルヴァが箱から立った。
「四人目」
オレは、自分が呼ばれたと気づくまで少しかかった。
「今の、誰の役に立った?」
鶏を見る。人形を抱いた少年を見る。笑って歩き出した荷運びを見る。
「……一人じゃ、ないです」
「そう」
それだけだった。
褒め言葉を待っていたことに気づき、少し恥ずかしくなる。
でも、バニーの、ではなくなっていた。
その呼ばれ方を、帰ってから紙へ書きたいと思った。