第25話 畳まなくても、なくならない
第25話 畳まなくても、なくならない
広場の地面には、まだ店がなかった。
杭と紐だけが四角く並び、土の上に見えない壁を作っている。ここがパン。こちらが鍋。あちらが織物。場所を知っている者には、もう人の声まで聞こえるらしい。
「舞台は、川へ背を向けるんですね」
「風を受ける方を少なくするんだ。幕が膨れると、人形が飛ぶ」
ベリルが杭を指した。
「客の入口はこちら。荷の入口は裏。混ぜると、王様より先に材木が登場する」
オレは歩いて、距離を確かめた。
通路は思ったより狭い。大人二人ならすれ違えるが、荷車が一台入ると、どちらかが止まる。舞台に立つのは声の大きい人間の仕事だと思っていた。今やっているのは、どこで客に待ってもらうかを考える仕事だった。
川沿いには石の低い壁があり、その先で水が二手に分かれていた。
一方は広い川のまま流れる。もう一方は細い水路へ入り、水車を回して戻ってくる。橋の下に、歯車と太い棒が見えた。
トマが、その棒へ油を差していた。
「舞台の金具だけじゃないんですね」
「水門も、手入れの当番だ」
「開けたり閉めたりすると、どうなるんですか」
男は手を止め、川上を指した。
「あっちが取水の口。ここは、入ってきた水を逃がす方。雨の前に流れを減らして、増えた分は下へ抜く。水車を守るには、両方使う」
棒の先についた赤い布が、風に揺れた。
「触らない方がよさそうですね」
「触るなら、呼んでくれ。重いんでな。一人で無理をすると、歯を噛む」
「歯?」
彼は歯車を指した。オレは口を閉じた。
何にでも、噛まれる場所がある。
*
橋の上を、大きな荷車が渡ってきた。
粉の袋と、根菜の籠と、蓋を縛った壺。歩いている男は、アルトと同じ色の髪をしていた。ただし、肩の張り方が違う。荷車を押す腰に、ためらいがなかった。
「この荷は、どこへ?」
ベリルが聞くより早く、アルトが動いた。
「兄さん」
男の手が、車の縁で止まった。
車輪だけが半周、進んだ。袋が傾き、アルトが支える。
「久しぶり」
彼の声は、普段より少し低かった。
「……ああ」
兄は、弟より荷物を見た。
「まだ、その剣か」
アルトの指が、柄ではなく手拭いへ触れた。
オレは横へ退いた。知らない人間が挟まってよい沈黙ではなかった。
兄はロイと名乗った。実家の食堂から、宵市の屋台へ食材を届けに来たという。届け先には店主の名もあった。近くの村が何軒かで荷をまとめ、今年は彼が運んできたらしい。
「アルトさんには、旅でご飯を作っていただきました。すごく助かりました」
オレが言うと、ロイは少しだけ表情を変えた。
「料理はできるんです。昔から」
できることを褒める言い方にも、できるのはそれだけだと言う響きにも聞こえた。
アルトは黙って荷を下ろした。
粉の袋を二人で運ぶ。その歩幅だけは、何も相談せず揃った。置くときも、片方が一度目で手を離すと、もう片方は二度目まで残した。
家族の仕事を見ている気がした。
同時に、家族の言葉が間に合っていないところも。
*
昼は、川べりの空き地で食べた。
アルトが火を起こし、持ってきた鍋へ豆を入れる。ロイは黙って葱を刻んだ。細さが、アルトと同じだった。
「薄い方が、早く煮えるから」
オレの視線に気づいたアルトが言った。
「煮崩れたら、父さんに怒られるぞ」
ロイが口を挟む。
「先に入れないよ。最後に」
「分かってるならいい」
それきり会話が止まった。
ゴルドが、湯気の向こうへ顔を出した。
「兄弟ってのは、便利だな。説明が半分で済む」
「倍かかることも、あります」
アルトの返事は、鍋へ向けられていた。
セラが碗を並べた。自分の分だけ、少し遅れて汁をよそう。ゴルドが何か言いかけたが、彼女がペンを見せる前に、マルヴァが背後を通った。
爺さんは黙って飲んだ。熱かったらしく、目が少し潤んだ。
マルヴァは通りがかりだった。広場の下見をしていたらしい。ロイが立ち上がりかけると、その肩を押して座らせる。
「飯のときは、飯を食いな」
彼女は少し離れた石へ腰を下ろした。五人目として指揮を始めるのではなく、ただ風を見ている。
ロイは何度かそちらを見た。噂を知っている顔だった。
「ずいぶん、大変な人と組んでるんだな」
「組んでないよ。ゴルドさんの奥さんで」
「そうか」
話が、また落ちた。
オレは豆を噛んだ。柔らかい。塩は薄いが、葱の匂いがある。誰かが黙るたびに、次の匙の音が大きくなった。
*
食後、ロイが小さな包みを出した。
「これ。預かった」
アルトへ投げるように渡した。アルトは両手で受け取る。布の中に、さらに布が入っていた。
手拭いだった。
白地に、細い青い筋が二本。角に、小さな縫い目がある。
アルトの指が止まった。
「今年も、織ってくれたんだ」
「目が悪くなってきたから、線が曲がったって」
「曲がってない」
アルトは、すぐに言った。
ロイが顔をそむけた。
「本人に言えよ」
言葉が硬く落ちた。
アルトは、古い方の手拭いを握った。青い線は、洗われすぎてほとんど消えていた。毎朝、何度も畳み直している布。その新しい姿を、初めて見た。
「……帰れるときに」
「いつだよ」
ロイの声が、今度ははっきり荒くなった。
「お前、ずっと、そう言ってるだろう」
周りの作業の音が止まったわけではない。槌が鳴り、馬が鼻を鳴らし、川は変わらず流れている。その中で、オレたちの輪だけ、動けなくなった。
アルトは頭を下げかけた。
その前に、セラが空いた碗を二つ重ねた。
「ロイさん。納品の控え、確認してもらえますか」
仕事の声だった。
兄は一度、息を吐いた。紙を受け取り、名前を書いた。弟の隣へ戻ろうとはしなかった。
「明日も、残りを届けに来る」
そう言って荷車を引いた。
アルトは見送った。新しい布は、畳まれないまま膝に載っていた。
*
夕方、広場から舞台の位置まで歩く練習をした。
客を案内するのに、自分が道を覚えていないと困るからだ。入口から舞台、舞台から水場、水場から橋。暗くなると、杭の影が土と同じ色になった。
アルトがランプを持って、後ろを歩いてくれた。
聞くなら今だと思った。聞かない方がいいとも思った。
「手拭い、大事な人からなんですね」
ようやく、それだけ言った。
「はい」
長い間があった。
「僕が、助けられなかった人です」
でも、今年も届いた。
そのことは、言わなかった。彼の方が、誰より知っている。
風が川から上がってきて、ランプの火が横へ寝た。アルトが掌を添え、オレの足元を照らした。
「そこ、杭があります」
オレは立ち止まった。
光の中へ、細い木の頭が現れた。
*
杭を避けたあと、アルトがもう少し歩こうと言った。
仕事の下見は済んでいる。こちらも分かっていたので、どこまで、と聞かなかった。広場の端から、川上へ続く道を歩いた。家々の窓に灯が入り、炊事の匂いが低いところに溜まっている。
「隣の家の、おばあさんなんです」
アルトはランプを持ち替えた。
「村が襲われたとき、僕は物置の裏に隠れていました。その人が転んだのを、見たのに。動けなかった」
井戸端で聞いた話の、続きだった。
「亡くなったわけじゃ、ないんですね」
「通りがかった冒険者が、助けてくれました。怪我はしましたけど、今も村にいます」
声が少しだけ明るくなり、その明るさを自分で恥じるように、また小さくなる。
「よかった、って、思うんです。僕のせいで死ななくて。でも、そう思って安心するのも、ずるい気がして」
オレは足元を見た。
自分を許さないことが、何かを守る場合はあるのだろうか。少なくとも、あの手拭いは、罰として送られてくるようには見えなかった。
「その人は、何て?」
「村を出るとき、持っておいき、って。汗は、生きてる者しかかかないからね、って」
アルトは布を取り出した。今日届いた方ではない。古く、薄くなった方だ。
「以来、毎年一本。僕が返事を短くしか書けない年も、来ます」
オレは、送り手の顔を知らない。
でも、細い糸を一本ずつ通す手は、想像できた。返事が短いからと織るのをやめるのではなく、今年も使うだろうと、同じ大きさに作る手。
アルトが布を畳んだ。開いた。端を揃え直した。
「それ、畳まないと、どうなります?」
「え?」
「いえ。いつも、畳んでるので」
彼は手を止めた。布が指の間で、少し垂れた。
「……落ち着かなく、なります」
「落ち着かないだけで、なくなったりはしませんよね」
言ってから、余計なことを言ったと思った。人の癖を簡単に解いたつもりになるのは、よくない。自分だって、いつ使うか分からない木の取っ手を引き出しにしまっている。
「すみません。別に、やめた方がいいってことじゃなくて」
「分かります」
アルトは布を開いたまま、しばらく見た。
「なくならないんですね。畳んでなくても」
それを確かめるみたいに、片手へふわりと載せた。
川の音が聞こえた。
*
翌日、ロイは昼前に来た。
約束より少し早い。アルトも、いつもより早く広場へ来ていた。二人とも相手を待っていたと言わないために、手を動かしているように見えた。
オレは屋台の札を書いていた。字は身体が知っているが、綺麗に見せようとすると途端に難しい。『白ひげチーズ』の『白』だけ、やけに太くなった。
「目立つな」
ゴルドが言った。
「役に立つ欠点です」
「俺の欠点にも、そういう呼び名を」
「つきません」
セラが遠くから返した。届く距離にいた。
荷車のそばで、ロイとアルトが話し始めた。
声は低い。オレは札へ目を戻した。聞かないふりをするには、実際に仕事をするのが一番だった。
しばらくして、ロイの声が上がった。
「剣を持って歩いてれば、村に戻らなくていいのかよ」
筆が止まった。
アルトは、すぐ謝らなかった。
「そう思ってたことは、ある」
答えが予想と違ったのか、ロイは黙った。
「何かできるようになってから帰れば、前の僕じゃないって、言える気がした。でも、まだできない」
「だったら」
「でも、何もしてないわけじゃない」
アルトはロイを見た。
オレが知る限り、彼がその言い方をしたのは初めてだった。
「怖くて、動けないことはある。昨日も、兄さんが何て言うか怖かった。でも、仕事はしてる。誰かと一緒に、戻ってくるためのことを」
ロイの指が荷車を掴んだ。
「こっちは、残ってるんだぞ」
その声の方が、さっきより痛そうだった。
「畑も、食堂も、自警団も。誰かが帰ってくるまで、置いておけないんだ。お前が変わるのを待つ間にも、やることがある」
アルトはうなずいた。
ロイはそれを見て、さらに何か言いかけた。けれど、荷車の上で籠が傾いた。
二人の手が同時に出た。
片方が籠を支え、片方が下の布を引く。根菜が二つだけ転がり、オレの足元へ来た。拾って渡すと、兄弟は同じ角度で頭を下げた。
少しだけ、笑いそうになった。笑わなかった。
「手紙、書く」
アルトが言った。
「おばあさんにも、父さんにも。何をしてるか、短くしないで書く。帰る日も、決めたら先に知らせる」
「決めたら、か」
「今、適当に約束したら、また同じになるから」
ロイは目を伏せた。
「そうかよ」
仲直りした、と言える声ではなかった。
でも、そのあとで彼は、実家の新しい煮込みの話をした。根菜を焼いてから鍋へ入れると、客がよく食べる、と。
アルトは、焼き方を聞いた。
話せることが一つ、戻った。
*
午後、広場で小さな騒ぎが起きた。
迷い込んだ荷馬が、屋台の布に驚いたのだ。繋いでいた綱が杭を抜き、木片を引きずりながら走り出した。
オレは札を落とした。
馬の向こうに、荷を抱えた女がいる。脇へ逃げようとしたが、通路は板の山で狭くなっていた。
ゴルドが走った。間に合うのか。オレが一歩出たとき、アルトが声を上げた。
「布を下ろして!」
ベリルが留め紐を解いた。ばたついていた赤い布が落ちる。
アルトは馬の正面へは行かなかった。横の広い方へ回り、両腕を広げた。手には剣ではなく、荷を包んでいた大きな麻布がある。
馬が顔を振った。
その一瞬に、ゴルドが綱を拾った。身体ごと引かれかけて、足を横へ開く。
「近づくな!」
低い声に、周りが止まる。
馬は二度足を踏み、ようやく走るのをやめた。鼻息が荒い。アルトの方も、同じくらい息が荒かった。
女が壁に手をつき、しゃがみ込む。
オレは駆け寄って、荷を受け取った。落とさないように抱えすぎて、指が固まっていた。
「もう、置いて大丈夫です」
自分が何度も言ってもらった言葉だった。
アルトは布を下げた。その端を持つ手が、小刻みに震えている。
ロイは、少し離れたところに立っていた。
「剣、使わなかったな」
言った。
アルトは柄を見て、それから馬を見た。
「怖がってる馬に向けたら、もっと暴れるから」
昨日までなら、抜けなかった、と言ったかもしれない。
今日も、抜けなかったのかもしれない。
でも、今の答えには、選んだ理由があった。
ロイはうなずかなかった。ただ、倒れた杭を拾い、打ち直し始めた。アルトも手伝った。今度は、何も話さずに道具を渡し合っていた。
*
夕方、ロイは空の荷車で村へ戻った。
アルトは橋まで見送った。その手には短い手紙ではなく、まだ何も書いていない紙があった。届けるのは次の便にするらしい。
「今日、書くことが増えたので」
戻ってきて、彼はそう言った。
手拭いは、腰に挟まれていた。女の荷物の泥を拭いたので、端が汚れている。いつものように畳み直そうとして、途中で止めた。
「まず、洗います」
アルトは桶へ向かった。
水へ広がった布の青い線が、揺れた。
古くても、薄くても、ちゃんとそこにあった。