第24話 取り立てる側の椅子
第24話 取り立てる側の椅子
セラが立ち止まったのは、看板の消えた建物の前だった。
宵市の舞台に使う金具を受け取りに来た。ベリルとの打ち合わせはまとまり、オレは二日間、客の案内と幕間のつなぎを担当することになった。日中の設営と撤収を含め、四人で請ける。報酬は六十ピィ。祭りだからと勝手に増える額ではなかった。
ゴルドとアルトは大きな板を取りに行き、オレとセラは川沿いの工房へ回った。その途中、通りの角で、彼女の靴音だけが消えた。
壁には四つ、看板を留めていた穴がある。
セラはそこを見ていた。
「前に、何かあった場所ですか」
「私の家」
言い方が平らだったので、聞き間違いかと思った。
今は布の倉庫だった。戸口に巻いた麻布が積まれ、奥から荷車の車輪が鳴る。金貸しの大店。遠い厨房。冷めて届く食事。彼女の話から勝手に描いていたものより、入口は低かった。
「ここで、育ったんですか」
「上が住まい。下が店。厨房は裏の棟だった」
セラの目が、奥の細い廊下へ向いた。
「食事が冷める距離ですか」
「十分に」
いつもの答えが返り、少し安心した。その安心を見透かしたように、彼女は歩き始めた。
「工房へ行きましょう。受取の時間、過ぎるわ」
*
工房には、鉄と濡れた木の匂いがした。
軒下に、水車の歯が並んでいる。刃物ではないのに、ずらりと揃った形が少し怖い。奥では男が、細い金具の穴を鑢で広げていた。
「舞台の留め具、十二本。受け取りに来ました」
セラが伝票を出した。
男は顔を上げた。彼女を見ると、鑢の音が止まった。
「……あんたか」
セラの手が、伝票の角を揃えた。
「今は、ギルドの依頼の代理です」
「知ってる。帳面を持ってるのは、変わらんがな」
オレは二人の顔を見た。店員と客の間にしては、互いを見る時間が長い。
男はトマと名乗った。伝票の裏を確かめ、金具を布の上へ並べる。一、二、三。セラも数えた。数える声は出さない。
「代金は前払い済み。領収はこちら」
「分かっています。欠けと曲がりだけ、確認させてください」
「好きなだけ見な」
棘のある言い方だった。しかし金具は、どれも丁寧に磨かれていた。オレが持ち上げると、指を切らないように、と男が言った。棘と親切は、同じ口から出る。
数え終わる前に、奥の扉が開いた。
「父さん、これ、持っていく分?」
女の子ではなく、ニノだった。
少年はオレを見て、目を丸くした。
「鶏の人」
「兎の方が先なんだけど」
トマが、息子とオレを見比べた。
「一座で手伝ってたのか。こいつが、世話になった」
「こちらこそ。王様、とても上手でした」
ニノが、すぐに目を伏せた。父親は何か言いかけ、やめた。
セラは金具を布へ戻していた。ニノの顔を見るときだけ、目元が柔らかくなる。それが、父親にも見えたらしい。
「あの頃は、このくらいだった」
トマが腰の高さへ手を置いた。
「覚えてます」
セラは答えた。
「戸の陰から、ずっと見てた」
ニノは首を傾げた。覚えていないのか、思い出したくないのか、分からなかった。
*
金具を包み終えたところで、工房へ年配の女が来た。
小さな水桶を持っている。底から水が漏れるので、箍を締め直してほしいらしい。トマは桶を裏返し、使っている場所を聞いた。
「畑。ほら、うちの裏の」
「じゃ、持ち歩くんだな。底板も、一本傷んでる」
「箍だけじゃ、駄目?」
「締めれば今日明日は止まる。ただ、板が割れたら同じだ」
女は袋の口を開け、硬貨を指で寄せた。その数を、オレは見ないようにした。セラは見た。見てから、桶を見た。
「店先にあった古い板、使えませんか」
トマの顔が硬くなった。
「あれは、別の仕事の残りだ」
「ええ。長さが合うかと思って」
「他人の値段を決めに来たのか」
工房の空気が、少し冷えた。
セラは口を閉じ、半歩下がった。
「失礼しました。仕事の見積もりは、あなたが決めることでした」
素直に謝ったので、トマの方も言葉を止めた。
女は二人を見て、不安そうに桶を引き寄せた。直せないなら持って帰る、と言いかける。
「いや。見せてくれ」
トマが受け取った。
底板を叩き、店先の木材を選び、もう一度長さを比べる。今度は誰も口を出さなかった。
「端材でよければ、安くできる。見た目の色は揃わんが、持つには持つ」
女は、何度もうなずいた。
セラはそのやり取りを見ていた。自分の案が採られたという顔ではなかった。紙を持つ指が、さっきより少し曲がっていた。
外へ出る間際、トマが彼女を呼んだ。
「あの板が使えると、どうして分かった」
「前に、道具を数えたとき、用途を聞いたので。桶の板と、車輪の板を、分けていました」
男は、短く鼻から息を吐いた。
「そんなところまで、覚えてたか」
「忘れていい仕事では、なかったと思っています」
トマは答えなかった。
工房へ戻る背中を見送り、セラはようやく歩き出した。
工房を出てから、セラはしばらく黙っていた。
オレも黙った。訊けば答えるとは限らないし、訊かなければよかったという顔を、させたくなかった。
橋の途中で彼女が止まり、欄干に手を置いた。
「取り立てに来たのよ。父の店で働いてた頃」
川の水が、橋の影に入って暗くなる。
「工房の道具を、差し押さえた。返済が遅れていたから」
「道具がなければ、仕事が」
「できない。だから残りも返せない」
セラはオレを見る。
「分かりやすいでしょう。後からなら」
何と言えばいいか、分からなかった。彼女は慰めを待っている顔ではなかった。
「父は、払わない相手に甘い顔をすると、ほかも払わなくなると言った。あの頃の私は、そういうものだと思っていた。取り立てた道具を売って、帳面の赤い字を少し減らした」
人差し指の脇に、今日もインクがついている。
「道具を買い直す金は、別の人が貸した。工房は残った。でも、うちの客は減った。困ったときに借りる相手として、選ばれなくなったの」
彼女は欄干から手を離した。
「結局、看板を下ろした。売れた物の値段は全部覚えてる。なくなった信用には、最後まで数字がつかなかった」
山羊を売れば終わった依頼を、セラがそうしなかった理由が、一つ増えた。
あのとき彼女は、賢い商談を見つけたから乗ったのだと思っていた。たぶん、それも本当だ。しかし、乗らなかったときに何が残るかを、知っている人でもあった。
「それで、僧侶に?」
「いくつか、順番はあるけどね」
少しだけ、笑った。
「回収に行った先で、相手が死んでることもあった。紙はきれいなままなの。利息も期限も読める。でも、誰も返事をしない」
彼女は帳簿の角を押さえた。
「債務者が死ぬのが、一番の貸し倒れでしょう」
また、損得の言葉に戻った。
オレは今度は、それを剥がそうと思わなかった。触る場所を自分で決めるための服のようなものなのだろう。
*
倉庫へ金具を届けると、アルトが板の上へ座っていた。
ゴルドは立っている。板の端を持ったまま、どこに置けばいいか分からなくなったらしい。
「そこ、まだ支えてください」
アルトの声で、オレは下を覗いた。組み立て途中の脚に、一つだけ亀裂がある。
ニノの父親に見てもらうことになり、運搬は一時中断された。
ベリルが、追加の修理代に顔をしかめた。
「去年は持ったんだがな」
「去年持った木ですからね」
セラが言う。
「一年分、古くなっています」
その正論には、一座の男たちまで黙った。
トマがやってきたのは、日が傾いてからだった。亀裂を見て、替えるしかないと言う。木材は倉庫の予備を使える。仕事の手間は六ピィ。
ベリルが、四では、と言いかけた。
「六です」
セラが先に言った。
「直したあと、人が乗るものです。手順を省かせる値切り方はしません」
トマの手が一瞬止まった。
彼はセラを見た。それから木を見る。
「分かった。六で、明日の昼までに」
セラがその場で依頼人の確認を取り、紙へ書いた。昔の借金を帳消しにするような話ではない。今の仕事に、今の値段をつけるだけだった。
それが、今日この二人にできることなのだと思った。
*
修理を待つあいだ、オレはセラの手元の紙を見た。
道具の名前。受取の日付。依頼人の確認。きれいな字が、さっきの工房と同じものを、違う場所へ置いている。
「後悔してること、全部覚えてるんですか」
「全部は、無理よ」
セラはすぐ答えた。
「覚えてるものだけでも、次に同じことをしない役に立てたい。それも、相手が私を許す理由にはならないけど」
トマの棘のある声を思い返した。
セラが今、誰かを治していても、昔取り上げられた道具が戻るわけではない。
「謝ったんですか」
「店を閉める前に、一度。聞いてもらえなかった」
彼女は紙を畳んだ。
「今日は、仕事の話を聞いてもらえた。それで十分」
十分という言葉を、この人は欲のない意味では使わない。今あるものを、それ以上に見積もらないための言葉なのだと思った。
オレは金具の包みを持ち直した。
「さっき、桶の見積もりでも、すぐ謝りましたよね」
「勝手に仕事へ口を出したから」
「アタシなら、役に立とうとしたのに、って思いそうです」
「思ったわよ」
思わず顔を見た。
セラは、少しだけ苦い顔をした。
「思うのと、相手の取り分まで自分の判断にするのは、別でしょう」
オレは頷いた。
上手な人は、最初から嫌な気持ちにならないのだと思っていた。違うらしい。嫌な気持ちになったあとで、手をどこへ置くかを選んでいる。
そのことは、少しだけ真似できる気がした。
宿へ帰る道で、オレはずっと気になっていたことを聞いた。
「セラさんは、どうしてこのパーティーにいるんですか」
「ゴルドの借金を回収するため」
「それ、今も?」
「最初は、そのつもりだった」
セラは、少しだけ嫌な顔をした。
「回収が終わる前に、次の立替ができた。その次も。そのうち、本人に財布を持たせるより、私がまとめて払う方が早くなった」
「アタシも、お代を取りに行っただけだったんですけど」
「知ってるわ」
「同じじゃないですか」
「言わないで」
思わず笑った。
セラも、口元を隠す前に少し笑った。
ゴルドが遠くから、何の話だ、と聞いてきた。
「債権者同士の交流です」
爺さんの歩幅が、目に見えて狭くなった。
取り立てに来た二人が、同じ机へ座るようになった。
そのことを、帳簿のどこへ書くか。セラに聞くのは、やめておいた。