第23話 取っ手のささくれ
第23話 取っ手のささくれ
最初の記録は、四だった。
昼前の客が二人。皿を洗いながら店主が一度。配達に来た少年が一度。紙の端に、笑った人数を正の字で数えた。
店主が覗き込んだ。
「売上か?」
「修練の記録です」
「じゃ、売上も数えてくれ」
その言い方がおかしくて、オレが笑った。
五本目を書きかけ、止まる。自分の分を数えていいのか。人数なのか回数なのか。もう初日から、記録の基準が崩れた。
バートンが笑ったときも、村の子が笑ったときも、竜が笑ったときも、胸の奥に何かが残った。だから、笑わせることで成長するのかもしれない。そこまでは、悪くない仮説のはずだ。
問題は、回数を増やそうと思った途端、相手の顔より、紙の線を見たくなることだった。
「ドランさん。面白い話、聞きません?」
「おう」
返事が来た。
オレの頭には、まだ面白い話がなかった。
待たれる。酔客二人がこちらを向く。厨房から皿の置かれる音。待たれる。
「……ゴルドさんが、財布をなくしたんですけど」
「いつものことじゃねえか」
「ですよね」
そのあと、何も続かなかった。
ドランは気の毒そうに口を曲げ、「まあ、頑張れ」と言った。
これは笑いだろうか。同情だろうか。手元のペンが、ますます動かなくなった。
*
昼の仕事を終えたあと、ギルドで受けたのは、見世物小屋の搬入の手伝いだった。
二週間後、川沿いの広場で宵市が開かれる。昼は道具と食料の市、夕方からは歌や芝居や食べ物の屋台。人形を扱う一座が、舞台の部材を倉庫へ運び込む人手を探していた。
報酬は四人で三十二ピィ。半日の運搬。壊した物は相談のうえで弁償。
「最後の一行、読みました?」
ゴルドへ聞くと、爺さんは胸を張った。
「読んだ。だから壊れる前に持つ」
「持ち上げるときが、一番壊れるんですよ」
倉庫には、顔ばかりの木箱が積まれていた。
笑う男、怒る王様、鼻の長い老人。どれも頭だけで、身体は別の箱に入っている。目が合うと、見られている気がした。
「王様は上。盗賊は下。混ぜないでくれよ」
座長のベリルが、手を叩いて指示した。細身で、襟だけ派手な男だった。肩の飾りは擦り切れているが、客を見るときの目はよく動く。
「身分の厳しい箱ですね」
「鼻の長さの話さ。上に王様を置くと、盗賊が潰れる」
ベリルは説明しながら、素早く帳面を確かめていた。オレが顔を覗き込むと、数字ではなく、出番の順が書かれている。
すべての紙が、金を数えているわけではなかった。
箱を運んでいると、奥で小さな声がした。
「わ、わたしが、この国の」
そこで止まる。
「わたしが、この、この」
幕の裏へ回ると、少年が一人、王様の人形を握っていた。背丈はオレの肩より低い。手の関節が赤く、人形の柄を握りすぎている。
「練習?」
少年は肩を跳ねさせた。
「ごめん。邪魔するつもりじゃ」
「……大丈夫」
口の中で消えそうな声だった。
ベリルが後ろから声をかけた。
「ニノ、箱の紐を集めてくれ。人形はあとでいい」
少年は王様を布に包んだ。しまう前に、冠の傾きを親指で直す。その仕草が、妙に優しかった。
オレは、さっきの紙を思い出した。
客を見る。
今、見えているのは、笑わせる相手ではなく、笑わせる側になりたい子供だった。
*
休憩のあいだに、ベリルが短い芝居を見せてくれた。
王様が、鶏を家来にしようとする。鶏は返事をせず、卵を一つ産む。王様は忠誠の印だと思い、翌日から卵にも給金を払う。
くだらない。
くだらないのに、三度目の給金でゴルドが笑った。セラは最後まで真顔だったが、「殻のまま雇うからよ」と呟いたので、楽しんでいないわけではなさそうだった。
オレも王様を借りた。
「わたしが、この国の、ええと」
頭を上げる。王冠が梁へ当たる。人形の鼻が、オレの額を打った。
ニノが吹き出した。
オレは、やっと来た、と思った。
来たと思った瞬間、次もぶつければ笑うのではないか、と考えてしまった。
もう一度、王冠を梁へ当てた。
今度は、ニノは笑わなかった。
「痛くない?」
先に、心配された。
オレは人形を下ろした。頬が熱い。
人を笑わせるのと、人に笑ってもらおうとするのは、近くて、妙に遠かった。
ベリルは何も言わず、王様の襟を直した。ニノに渡すと、少年の手の中で、人形が少しだけ生きた。
「わたしが、この国の」
また、止まる。
オレは先を言いかけた。ベリルの指が、静かにこちらへ向いた。待て、という形だった。
ニノは唇を噛み、それから王様を横向きにした。
「……王様だ」
横を向いただけで、声が出た。
「聞こえたよ」
オレが言うと、少年は人形の顔をこちらへ戻した。本人は、まだ見ない。
「人形なら、言えるときがある」
「じゃ、王様に言ってもらおうか」
オレは客席の代わりに、空き箱へ座った。笑おうとはしなかった。次に何を言うのか、聞きたかった。
王様は、卵を雇った。
鶏は、オレが持った。
返事をしなくていい役だった。困るほど役に合っていた。
*
仕事が済む頃、倉庫の外は少し暗くなっていた。
ベリルは壊れた部品がないかを確かめ、報酬をセラへ渡した。予定より早く終わったが、約束の額は減らさなかった。
「宵市のときも、来ないか。荷運びじゃなく、口の方で」
「アタシ、今日、頭を打っただけですよ」
「頭を打っても、客のいる方へ顔を戻した。それができない奴は、意外と多い」
褒められたのか、職業上の欠点を見抜かれたのか、分からなかった。
彼は小さな札を渡してきた。打ち合わせの日時と場所。報酬は、そのとき相談、とある。
「決めてから来いとは言わない。聞きに来るだけでもいい」
セラを見た。彼女は札を確かめ、「店の予定と合わせて」と言った。
勝手に名簿へ入れられなかったので、かえって行ってみたくなった。
帰り道、ニノが倉庫の戸口から手を振った。
人形の手だった。
オレも袖口を少し持ち上げ、白い手袋の指を振った。
胸の奥が、わずかに軽くなった。
何回目かは、数えなかった。
*
その夜、笑った人数を書いた紙を開いた。
四本の線。自分の分を足しかけた、短い傷。
これだけ見ると、午後のニノはどこにもいない。王冠のぶつかった音も、声が出るまで待った時間も、最後に人形の手が振られたことも。
オレは線の横に、小さく書き足した。
急ぐと、相手の声がなくなる。
賢者の修行記録としては、あまり賢そうではなかった。
それでも、四を五にするより、今日はその方を残しておきたかった。
*
翌朝、宵市の相談を持ちかけると、店主は仕込みの包丁を止めた。
「夕方から出るのか」
「はい。毎日じゃなくて、市の二日間だけです。まだ内容は決まってません」
「こっちも市へ出すつもりなんだ。チーズを焼いて、パンに載せる」
「じゃ、お店は?」
「昼は開ける。夜は早めに閉める。どっちに出るかは、決めてから言ってくれ」
嫌な顔をされると思っていた。
それを顔に出したらしい。店主は包丁をまな板へ寝かせた。
「何だよ」
「もっと、困るかなって」
「困るよ。手が一人減るんだから」
「ですよね」
「だから、早く決めて言ってくれ」
許す、許さないの話ではなかった。自分のいない時間を、誰かが埋める。それだけのことが、今さら少し重い。
「今日は、皮むき多めにやります」
「今日多くむいても、来週の手は増えないぞ」
皿を落としたときより、厳しい現実だった。
*
昼の客が切れたあと、裏口の取っ手が外れた。
オレはいつもの位置へ指を添え、ささくれを避けて引いた。ところが扉ではなく、取っ手だけがこちらへ来た。
手の中に、小さな木の棒。
扉は、閉じたまま。
「……独立した」
「何がだ」
店主が裏から開けてくれた。オレの手を見ると、ああ、と短く言った。
「そのうち替えなきゃと思ってたんだ」
「そのうちが、今です」
釘と新しい木片が持ってこられた。オレが古い取っ手を渡すと、店主は捨てる桶へ入れかけ、途中で止めた。
「手、切らなかったか」
「はい。ここ、避けるの、覚えてるので」
ささくれを指した。
店主の顔が少し変わった。
「何ですか」
「いや。最初は、毎度そこで引っかけてたからな」
オレは木片を見た。
最初。
自分の中では、目を覚ました朝からずっと、そこを避けていた。誰かに聞いたのではなく、考える前に指が曲がった。
「アタシ、ここで、どれくらい働いてます?」
店主は釘を口へ運びかけ、やめた。手のひらへ戻す。
「三年になる前だな。二度、寒い冬を越した」
棒の木目が、急に細かく見えた。
目を覚ました前に、冬が二つある。
「そんなに」
声が、自分でも変だった。
店主は、すぐには槌を振らなかった。
「近ごろ、前のことを聞くな」
「……覚えてることと、覚えてないことが、あるので」
嘘ではなかった。正直と言い切るには、足りない言葉だった。
「具合が悪いのか」
「痛いとか、そういうのはないです。昨日のことは、ちゃんと覚えてます」
「ならいい、とは言えんな」
店主は椅子を引いた。オレに座らせ、自分は水を注いだ。初めてマルヴァへ出したときと同じ、冷たすぎない水だった。
何を話せばいいのか、分からなかった。
目覚める前は、男だった気がする。もっと前には、別の手があった気がする。身体はミアで、ミアとしての年月を、オレだけが知らない。
口に出したら、どこか一つへ決まってしまいそうだった。
「ここへ来た日のこと、教えてもらえますか」
ようやく、そう言った。
*
店主は、通りの方を見た。
「雨が降ってた」
いつの雨かは、言わなかった。
「荷を入れようとして裏を開けたら、あんたが座ってた。壁の乾いてるところへ、膝を抱えて」
オレは今、自分が座っている位置を見た。壁際。戸口からは、少し外れている。
「何か、言いました?」
「ここにいていいか、って」
「それだけ?」
「追い出されるつもりの声だった。だから、ここじゃ邪魔だ、そっちへ座れって言った」
厨房の椅子が指された。
ずっと、店主が休むときに使う椅子だと思っていた。
「腹が減ってないか聞いたら、減ってないって言う。なのに、鍋を開けるたび見てる。面倒だから、余った分だって出した」
「余ってたんですか」
「客が来れば足りなくなる分だ」
オレは水を飲んだ。喉を通る音が、いつもより近い。
「名前は、言えた?」
店主はうなずいた。
「ミア。そこは、すぐだった」
名前は先にあった。オレが露店の女に呼ばれて受け取る、ずっと前から。
「次の日には、皿を運ぶって言い出した。三枚割った」
「初日から?」
「運べますって顔だったから、任せたら三枚だ。やる気のある顔と、できる手は別なんだな」
少し、笑えた。
「今は、ちゃんとできます」
「だから給金を払ってる」
店主はそこで、ようやく槌を持った。
「前にどこから来たかは、聞いてない。話せるようになったら話せばいいと思って、そのままだ」
「聞かなかったんですね」
「一日に質問を十個しても、腹は一回分しか膨れんだろう」
理屈としては、おかしい。
しかし、オレは今、それ以上上手い理屈を求めたくなかった。
*
新しい取っ手は、少し太かった。
取りつけたあと、店主が扉を三度開け閉めした。オレにもやれと言う。
いつもの位置に指を置く。ささくれがない。避けるために曲がった指が、空振りをする。
「変な感じです」
「そのうち慣れる」
身体が覚えているものを、一つ取り替えた。
消えたわけではない。古い木片は、まだ机の上にある。
オレはそれを拾った。黒ずんだところと、妙に滑らかなところがある。店主も、オレも、ほかの誰かも触れたはずなのに、自分の指が当たる位置だけ、見つけられる気がした。
「もらっていいですか」
「そんなもん、何にする」
「分かりません」
「じゃ、刺さらないよう包め」
店主は古い布を出した。
紙より先に、包むものが来た。
*
夜、オレは客に酒を注いだ。
水差しの縁に布を添える。最後の一滴を逃がす。手首が、知っている形に戻る。
これは、誰かから奪った技術なのだろうか。
元からここにいたミアの代わりに、オレが勝手に使っているだけなのだろうか。
考えた瞬間、指が止まった。酒の筋が少しだけ外へ流れた。
「おっと」
客が杯を寄せてくれた。
「すみません」
「眠いか?」
「少し、考え事です」
「俺の顔より面白いことを考えてたなら、今度聞かせてくれ」
その客の顔が、本当に面白いほど赤かったので、笑ってしまった。
客も笑った。
胸の奥が少し温かくなり、同時に、申し訳なさが薄くなった。
この返事をしたのは、今のオレだ。
それくらいは、自分のものにしてもいいのかもしれない。
閉店後、店主に宵市の札を見せた。
「一座の仕事、受ける方向で相談してきます。お店の仕込みは、昼まで手伝います。足りない時間は、前もって決めたいです」
「分かった」
「……戻ってきますから」
言う必要のない言葉が、出た。
店主は少しだけ、眉を寄せた。
「市は川向こうだぞ。どこまで行くつもりだ」
オレは笑った。
部屋へ帰ると、古い取っ手を机の引き出しへしまった。賢者、と書いた紙の下。
昔を確かめる物と、これからを勝手に決めた物が、同じ引き出しに入った。
どちらも、まだ使い道が分からない。