第22話 そこまで測るとは聞いてない
第22話 そこまで測るとは聞いてない
診断の日、オレは朝から、やけに姿勢がよかった。
背筋を伸ばして歩く。段差を軽く越える。重い扉を片手で押す。こんな直前の仕上げで何かが変わるとは思っていない。思っていないが、分からないときの人間は、無関係なところから整え始める。
「胸を張りすぎよ。肩が上がってる」
セラに言われ、慌てて力を抜いた。
付き添いは、彼女だけに頼んだ。アルトは仕入れ、ゴルドはマルヴァと宿の荷物整理。何を整理しているのかは聞かなかった。昨日、爺さんが寝台の下から出した瓶の本数を、セラが黙って書いていたからだ。
診断棟の待合には、長椅子と水差しがあった。
壁に、人間の手足を描いた図が貼られている。剣で魔物を倒している絵ではなかった。指を開く人。片足を上げる人。何かを持ち上げる人。どれも、見ているだけならできそうだ。
受付の女が、予約票を受け取った。
「ミアさん。担当のヘルマです。今日は初回ですね」
白い上着。袖を肘まで折っている。短く切った爪の脇に、石を削ったような白い粉がついていた。年齢は店主より下、セラより上。そのくらいしか分からない。
代金の二十四ピィを払い、領収の紙を受け取る。
「同行の方は説明まで一緒でかまいません。途中の計測は、御本人がよければ」
「いてください」
即答すると、セラが片眉を上げた。
「高い数字が出ても、報酬の割合は変えないわよ」
「期待を先回りして叩かないでください」
ヘルマは笑わず、しかし口元だけ少し緩めた。何度も見た種類のやり取りらしい。
*
診断室の真ん中には、椅子と、銀色の輪が並んでいた。
輪は兜にも首飾りにも見える。長さの違う細い針金が張られ、そばの箱には小さな石が二列に収まっている。魔法の器具だろうとは思ったが、触れれば何でも分かる水晶玉のようなものはなかった。
「まず、普段どんな仕事をしているかを」
「酒場の接客と、冒険者の手伝いです」
「睡眠は。直近の怪我は。今朝は食事を取りましたか」
竜の話をする前に、豆の煮込みを食べた話になった。
ヘルマは一つずつ書いた。怪我については、牧草地で脚を擦ったことと、旅のあと靴擦れがあったことを伝えた。彼女は肌を見る前に触ってよいかを尋ね、触れたあとには、もう離したと教えてくれた。
それで、肩の力が少し抜けた。
「レベルの自己申告は?」
「不明です。決めてません」
「分かりました」
「適当に三十とか言うと、困ります?」
「比較する過去の記録がなければ、三十と申告した方、とだけ書きます。診断値とは別の欄です」
紙を見せてもらうと、本当に二つあった。自称の三十と、測った三十は、同じ数字でも別人の顔をして並ぶらしい。
「今日測るのは、何ができるかの全部ではありません」
ヘルマは石を一つ、輪の台へ置いた。
「この器具の決まった刺激に、身体がどれだけ応じて、安定して戻るか。それを基準の表と照合します。走る速さや、剣の腕や、頭の良さそのものではないんです」
「じゃ、六十の人が十の人に負けることも?」
「あります。寝ていれば、もっと簡単に」
ゴルドの顔が浮かんだ。寝ていても起こすだけで一仕事だが、それは今は置いておく。
「職業が違っても、同じ数字になるんですか」
「同じ基準を使います。ただし、そこからどういう力を使えるかは別です。治療の術式を知らなければ、高い値でも怪我は治せません」
セラが小さくうなずいた。授業料を払った者が、苦労を勝手に消されずに済んだ顔だった。
オレは椅子へ座った。
輪の位置を合わせるため、上着の上から胸のまわりへ細い帯を回された。息を吸って、吐く。帯がずれて、ヘルマが手を止める。
「支えの位置が合いませんね。別の寸法を出します」
棚から巻尺が出てきた。
身長を測る。腕の長さを測る。肩の位置を確かめる。そこまでは、いい。
「失礼します。こちら、もう一度」
胸の高い位置へ巻尺が回った。
ヘルマが小さく数字を読み、台の紙に書いた。下の位置も測る。二つを比べ、引き出しを開けた。
「こちらの型ですね。差が大きいので、標準帯だと圧が――」
「待ってください」
声が、急に大きくなった。
セラが、ちらりと紙へ目をやった。
「なるほど」
「なるほどじゃないです! そっちの数値、いらんねん!」
最後の一言だけ、声の底が沈んだ。
自分の喉へ、知らない手が触れたようだった。オレは息を止める。セラも、一瞬だけ目を上げた。
あの狭い部屋。画面へ向かって文句を言う、低い声。笑いにしてしまえば、自分のことを話さずに済む。
いや、今は、そういう話ではない。
「……失礼しました。測る場所の説明を、先にしていただきたかったです」
敬語へ戻すと、声も戻った。戻ったことを確かめてから、ようやく息を吐いた。
オレは反射的に胸の前で腕を組んだ。巻尺の端が、袖口に引っかかる。隠そうとして、余計に外せなくなった。
「レベルの診断ですよね? 今、何の規模まで調べてます?」
「装具の寸法です。帯の圧が違うと、測定が揃わないので」
「だったら、先にそこまで言ってください! 身体を測るって、腕とか脚とか、そういう!」
ヘルマは巻尺を置いた。
「説明が足りませんでした。すみません。いったん外します」
謝られると、怒りを置く場所が変わった。真面目な人が真面目な理由で、真面目に測っている。それは分かる。分かるが、こちらの覚悟は何も測っていなかった。
「この数字、冒険者証に載るんですか」
「載りません。診断値にも加えません」
「それは、加えてくれても」
言ってから、セラを見た。
彼女は口元を押さえていた。
「……今のなしで」
「今、聞いた」
「聞かなかったことにする料金って、いくらですか」
「交渉で上がる種類ね」
ヘルマが、今度は声を出して笑った。笑ってから、使用する型だけ書き写し、寸法の書かれた小さな紙をこちらへ渡した。
「器具の型は残します。寸法の控えは、御本人が持つか、こちらで処分します。どちらにしますか」
オレは紙を折った。二度、三度。小さくなっても数字がなくなるわけではないが、人に見えなくなるのは大事だ。
「持って帰ります。服、直すときに使えるので」
「合理的ね」
「さっき笑った人に褒められたくないです」
セラは、ようやく笑うのをやめた。
*
寸法の合う帯は、驚くほど苦しくなかった。
さっきまでの怒りが、自分の息の深さに負けそうになる。適切な器具というものは、言い訳を許さず快適だった。
手首と足首に薄い金属を当て、ヘルマが台の石を替えた。
「光や音を感じる方もいますが、何も感じない方もいます。感じようとしなくて大丈夫です」
言われると、感じようとしてしまう。
閉じたまぶたの裏で、青い四角が浮かんだ。
白い字。短い音。指の腹で押す、硬い丸。
選ぶ。戻る。もう一つ下へ。
「ミアさん。息、止まっています」
オレは大きく吐いた。部屋の匂いが戻る。磨いた金属と、乾かした布と、セラが持ち込んだ薬の匂い。
「何か、見えました?」
「……前に見たような、ものが」
「眩しくなったり、気分が悪くなったら教えてください」
ヘルマはそれ以上の意味をつけなかった。オレも、つけられなかった。
三度測った。
一度目と二度目の間に、水を飲んだ。三度目の前には椅子から立ち、しばらく歩いた。ヘルマは三枚の薄い記録紙を重ね、窓から差す光へ透かした。
待つ時間の方が、測る時間より長い。
オレは胸元の折り畳んだ紙に触れかけ、やめた。あれは結果ではない。今いちばん確かな数字ではあるが。
「現在の基準では、六です」
ヘルマが紙を置いた。
六。
大きくも小さくもない形の字が、欄の真ん中にあった。
「六、ですか」
「今回の三回は、どれも六の範囲です。測定日は今日。器具の型も書いてあります」
「竜と話して、六」
言ってから、ドリスの注意を思い返した。低くても、昨日の報告がなくなるわけではない。
ヘルマは頷きもしなかった。
「竜に会う前は、測っていないんですね」
「はい」
「では、そこからどれだけ変わったかは、この紙だけでは分かりません」
三だったかもしれない。六だったかもしれない。最初からもっと高くて、疲れて下がっているのかもしれない。考えればいくらでも増える。増えるのは解釈ばかりで、紙の六は動かない。
「次に測るなら?」
「すぐ同じことをしても、同じ辺りになることが多いです。数週間は空けて、普段通りに過ごしてください。体調が大きく違う日は、そのことを添えましょう」
六の横に、小さな線が引かれた。次の測定を書く場所だった。
未来の欄は、空いていた。
*
帰り道、セラはしばらく数字の話をしなかった。
露店で豆の袋を買い、重さを確かめ、オレにも半分持たせる。歩く速さは、いつもと変わらない。
「がっかりした?」
橋の手前で聞かれた。
「ちょっと。もっと、すごいかもって」
「でしょうね」
「否定しないんですね」
「期待してたのは、本当でしょう」
その通りだった。少なくとも十。できれば二十。竜一頭なら、三十くらいくれても。そういう浅ましい期待が、一枚ずつ剥がれた。
川を見た。水は橋脚にぶつかり、流れを二つに分けている。どちらもその先で合わさった。
「でも、次は分かります」
紙の袋を持ち直した。
「今日より上がったら、ちゃんと」
セラは短くうなずいた。
そのあと、診断の控えを覗こうとしたので、オレは慌てて胸元を押さえた。
「こっちじゃない方です!」
「何も言ってないわよ」
その日、オレのレベルは六になった。
正確には、六だと知った。
違いは、帰ってから紙を広げたときに、ようやく分かった。
*
紙を二枚、机に並べた。
左は、レベル六。
右は、店に戻る前に仕立屋で控えてもらった服の寸法。
右を裏返した。
比較する数字を間違えると、人は簡単に自信を失う。
自分の部屋は、旅に出る前より狭く見えた。物が増えたのではない。外で並んで歩く人が三人でき、戻ると一人になるからだろう。窓辺には洗った袖口が干してある。床には新しい靴。机の端には、酒場から分けてもらった紙の切れ端が何枚か。
オレはそこへ、六、と書いた。
字を書ける。誰に習ったかは知らない。
その下に、遊び人、と書いた。
今度は、ペンが止まった。
青い四角。白い文字。昨日、診断室で浮かんだものが、薄い膜の向こうへ戻ってくる。並んでいるのは名前ではなく、選べる何かだ。丸い印が、横からこちらを指す。
遊び人。
下へ。戻る。まだ、選べない。
「……賢者?」
声にすると、部屋の中に知らない客を入れたようだった。
賢い者。字の意味は分かる。だが、その二文字と遊び人の間に、何か一本、線があった気がする。
酒場で酔客をあしらう女と、いろいろな魔法を使う誰か。繋がるはずのない二つが、妙に近い。
紙に書いてみた。
遊び人から、賢者へ。
線を引くのは、簡単だった。
*
「無理じゃないか」
翌朝、ゴルドは一口で答えた。
オレはペンを置いた。宿の食堂で持ちかけた相談が、豆の皿より早く片づけられた。
「考える時間が短いです」
「何をどう考えればいいんだ。賢者だろう? 術を教える方の職業だぞ」
「ゴルドさん、武闘家から魔法使いになったんですよね」
「学院へ通った」
「遊び人だって、通えば」
「通うだけならな。試験を受けるのも、授業料を払うのも自由だ。卒業できるかは別だが」
セラは羊皮紙の余白に、授業料、とだけ書いた。まだ金額を書いていないのに、そこだけ急に怖い。
「どうして賢者なの」
「ええと。いろいろ、できそうだから」
「大変に高額になりやすい動機ね」
アルトが、オレと紙を交互に見た。
「そういう転職をした人が、どこかにいるんですか」
そこで、詰まった。
いる。という気がする。
見た。というほどの形はない。
青い枠の中で、選んだ。誰が。何を使って。どこで。
「……お話で、聞いたような」
「どんなお話?」
「遊び人を続けてると、賢者になれる、みたいな」
ゴルドが、豆を噛むのを止めた。飲み込んでから、丁寧に言い直す。
「無理じゃないか」
「さっきより、考えてくれたのは分かります」
「そりゃ考える。そんな話、聞いたことがない」
セラもうなずいた。
「私もない。賢者と呼ばれる術者は、長い勉強や修練をしている。肩書きだけ自分で変えるのと、使える術が増えるのは別でしょう」
紙の矢印が、急にいたずら書きに見えた。
それでも、消したくはなかった。
「でも、ほら。マイナスとマイナスを合わせると、プラスになるじゃないですか」
セラのペンが止まった。
「足したら、もっとマイナスよ」
「あ、掛ける方です。掛けると」
「何を掛けるの」
「遊び人を、もっと」
沈黙が落ちた。
ゴルドが、ゆっくり酒の代わりの茶を飲んだ。アルトは笑わないようにしているのか、真剣に理解しようとしているのか、眉の形から判断がつかない。
「もっと遊び人になったら、反対側へ突き抜けるかもしれない、ってことです」
「算盤で聞いたことのない転職ね」
「算盤で全部決まるわけじゃないでしょう」
「少なくとも、その例えは算盤の側へ持ち込んだの、あんたよ」
勝てなかった。
オレは紙を折ろうとした。アルトが、その端を押さえた。
「まだ、捨てなくていいんじゃないですか」
「でも、根拠、ないですし」
「僕が勇者を名乗る根拠も、そんなに立派じゃないので」
彼は剣へ目を落とした。柄だけが、いつものように手に馴染んでいる。
「ただ、遊び人をマイナスって言うと、あの人、怒りませんか」
食堂の入口に、マルヴァがいた。
ゴルドが茶を置いた。
オレは紙を裏返した。遅かった。
「何を隠してるんだい、バニーの」
「算数の、間違いです」
*
マルヴァは話を聞き終えても、怒らなかった。
笑いもしなかった。それが、いちばん意外だった。
「私は知らないね。そんな道があるのかどうかも」
「マルヴァさんでも、知らないんですか」
「私が知ってるのは、自分がやってきた分だけだよ」
すごい人は、すごい範囲で何でも知っている。そういう雑な期待を、当たり前の顔で返された。
「でも、なんで賢者になりたい?」
「役に立ちたいから、です」
「昨日まで、何をしてたんだい」
返事をしようとして、できなかった。
竜と話したことを、自慢していいのか。皿を運ぶことを、答えにしていいのか。どちらも違うと思っていたのに、違うと言うと、ほかの人の仕事まで小さくなる。
マルヴァは急かさなかった。
「もっと、できることを増やしたいです」
言い直すと、彼女は頷いた。
「そっちなら、分かる」
「じゃ、教えてください」
「何を」
「強くなる方法を」
「広すぎるね」
朝の相談は、そこまでだった。
*
その日から三日、オレはとりあえず、分かりやすいことをした。
最初の日は、ゴルドに木の棒の持ち方を聞いた。
「力を抜け」
「抜くと、落ちます」
「落ちない分だけ残せ」
残す分の選別ができない。握れば手が痛くなり、緩めれば棒が回る。兎の耳が視界に入り、そちらを避けて振った棒が、自分の膝を打った。
ゴルドは笑わず、棒を短いものへ替えた。
「まず、自分に当てないところからだ」
賢者への道は、膝から遠ざかるところから始まった。
二日目は、アルトと歩いた。
往復で一刻。途中の坂で、オレだけ喋れなくなった。アルトは気づくと歩幅を狭めた。申し訳なくて速く歩こうとすると、今度は止まった。
「話ができる速さにしましょう」
「……訓練、なんですけど」
「帰れなくなると、訓練が一回で終わります」
珍しく、彼の方が譲らなかった。
三日目は、セラに魔法の本を借りた。
最初の頁にある説明の半分が分からない。字は読める。意味も一つずつなら分かる。しかし、同じ文の中に並ぶと、急に他人の会話になる。
オレは小皿へ水を張り、本に書いてあった手の形を作った。
待った。
水は水だった。
祈るように、もう少し待った。
裏庭の風で、表面が揺れた。
「動いた」
「風よ」
後ろからセラの声がした。見ていたのか。
「言い切るの、早くないですか」
彼女が板で風を遮った。水は静かになった。
証拠は、ときどき意地が悪い。
*
三日目の夕方、オレは店で皿を落としかけた。
腕がだるい。ふくらはぎが張っている。小皿の水を見つめすぎて、目まで乾いていた。受け止めた盆の上で、スープが一筋こぼれた。
マルヴァが、卓から布を差し出した。
「昨日より疲れてるね」
「修練中です」
「客には、関係ない話だ」
言葉が、胸の真ん中に来た。
オレは謝り、卓を拭いた。拭いているあいだ、何か言い返したい気持ちがあった。将来のために努力している。今のままじゃ嫌だから。どれも、目の前でスープを待つ客には関係なかった。
仕事のあと、裏庭へ出ると、マルヴァが空き瓶を三つ並べていた。
「投げてみな」
「三つも?」
「一つ」
瓶を放り、受け取る。二度目で取り損ねたが、彼女が足の甲で受けた。石畳に触れる前に、手元へ戻っている。
「難しい?」
「はい」
「じゃ、いつもの盆を持ちな」
盆を持ち、瓶を三つ載せる。立つ。少し歩く。戻る。
「落ちないね」
「毎日やってますから」
「そう。それを忘れると、最初から全部、できない人間になる」
オレは盆の縁を見た。指が支える位置。歩くとき、腰より少し先に動く手。
「棒も本も、やめろってことですか」
「やめたきゃやめればいい。続けるなら、何に使うかを考えな。どっちに行ってもいい。でも、効かない努力だけはやめな」
瓶が一本、盆から取られた。
「魔法が使えないから、あんたには手がない、って話でもないだろう」
残った二本が、軽く触れ合って鳴った。
オレは部屋へ帰って、紙を広げた。
遊び人から、賢者へ。
その線は消さなかった。代わりに下へ、今できることを書こうとした。
酒を注ぐ。
皿を運ぶ。
客を見る。
三つ書いてから、思いがけず困った。
自分を役立たずだと片づけるより、続きを書く方がずっと難しかった。