第21話 効かせる女
第21話 効かせる女
翌朝、机の上に並んだ四枚の紙は、昨夜よりずっと真面目な顔をしていた。
日が当たると、ゴルドの署名の曲がり具合までよく見える。最後の一文字だけが、逃げ出そうとしていた。
「飲んでないと、こういう字を書くんですか」
「飲んでたからだ」
「包帯のせいって言ってましたよ」
「理由は多い方がいい」
セラはどちらも採用せず、書類をオレの前へ滑らせた。『居眠り山羊亭』の食堂は、煮た豆の匂いがする。アルトが四人分の水を運んできて、ゴルドの杯だけ少し遠くへ置いた。中身を酒と取り違えた爺さんが、すでに一度、顔をしかめている。
報酬は共通経費を精算して四等分。依頼で負った怪我の治療は共通負担。私用の酒代と罰金は本人負担。参加を断るときは、次の仕事を受ける前に申し出ること。
オレは最後まで読み、紙の隅を押さえた。
「昨日と、同じです」
「ええ。昨日のあんたとも、同じ意見?」
膝の上で手を握った。窓の外では、クルルが干してある布を食べようとして女将に追い払われていた。山羊のいる宿に三人が暮らし、オレは朝に通ってくる。数日前まで旅の途中だったのに、もう戻る場所の形をしている。
「同じです。よろしくお願いします」
アルトが、こちらより深く頭を下げた。ゴルドは水の杯を持ち上げる。
「末永く」
「借金の話みたいに言わないでください」
「そっちは、もう末永くなってるわ」
セラが別の帳簿を閉じた。乾いた音に、ゴルドの杯が少し下がった。
*
ギルドのドリスは、四人の顔を順に見てから、仮登録の紙を抜いた。
紙が抜けるだけだった。
鐘も鳴らないし、光も出ない。窓口の奥で誰かがくしゃみをして、隣では依頼の期限を一日勘違いした男が頭を抱えていた。
「変更を受け付けました。これで正式な編成です」
木の印が下りた。こつん、と音がした。
思っていたよりも、小さい。
オレは新しい控えを両手で受け取り、端を揃えて袋へ入れた。これで何かが変わるわけではない、と言おうとして、やめる。昨夜も今朝も、変わるまでにやることがあった。印は、その最後なのだろう。
「それと、診断について聞きたいんですけど」
ドリスが顔を上げた。
「レベルの測定ですね」
「はい。昨日、登録票を見て。ずっと不明なのも、ちょっと」
「自分で数字を決める方もいますよ」
「そうすると、景気のいい日に増えそうなので」
隣の窓口の男が、こちらを見た。見なかったことにした。
ドリスは引き出しから薄い案内を出した。診断所はギルド裏の石造りの棟。初回は二十四ピィ。二度目から、同じ項目だけ測るなら八ピィ。
紙の上で数字を確かめてから、オレは顔を上げた。
「測っただけで、スープ十二杯」
「測るだけではありません。初回の器具合わせと聞き取り、結果の説明を含みます」
「スープを含める余地は」
「空腹でいらっしゃる方がいるので、飴は置いてあります」
十二杯が飴一粒になった。交渉するたび小さくなる。
セラは案内を覗き込んだが、口を挟まなかった。こういうとき、すぐ損得を言うと思っていたので、かえって気になった。
「受けた方がいいと思います?」
「何を知りたいのかによるわね」
「強くなったかどうか」
「前の数字がないから、今回は比べられない。それでも受ける?」
そこで、少し止まった。
竜と話した。山羊のチーズを売った。子供が笑った。どれも、何かが胸の中に残った。でも、それが成長なのか、単に上手くいって嬉しかったのかは分からない。
強くなった証拠を買いに来たつもりだった。ここで買えるのは、今どこにいるか、らしい。
「……今を知っておけば、次は比べられますよね」
「そうね」
セラが案内を戻した。
「必要な費用にしたいなら、共通から出す相談もできるわ。個人の興味で受けるなら、自分で払う。そこは決めておきましょう」
「今回は、自分で払います」
袋の中には、前の仕事の取り分と心付けがある。百二十五ピィから二十四を出せば、百一。セラに言われる前に数えた。まだ、靴を返すための買い物もできる。
思えば、不明でいるのは無料だった。知るには金がかかる。
「予約、お願いします」
ドリスは二日後の朝に印をつけた。受け付けたのは日時だけで、料金は当日払いだという。紙をしまいかけたとき、彼女が少し声を落とした。
「竜の件のあとですから、念のため。高い数字が出るとは限りません。低くても、昨日の報告がなくなるわけではありません」
その言い方で、ここに来る人の中には、紙一枚にひどく傷つく人もいるのだと分かった。
「はい」
今度は、冗談を添えずに答えた。
*
ギルドを出ると、ゴルドが急に大股になった。
「じゃあ俺は、少し用がある」
「どちらへ?」
「身の回りをな」
「整えるんですか。今になって」
「今だからだ」
その返事には、反論できない切迫感があった。マルヴァが帰る。時期は分からない。分からないから、いつでも怖い。顔に書いてあった。
セラが、袖をつまむ。
「送金の手続きが先よ」
「本人が来るんなら、渡した方が早くないか」
「もう預ける約束で控えを作ってある。行き違いになっても受け取れるよう、窓口で相談するわ」
「その几帳面さを、時々でいいから、俺の都合にも」
「今、そのために動いてるのよ」
爺さんが連れていかれた。肩越しに一度だけ振り返ったが、アルトは目を合わせず、手拭いを畳んだ。あの人も、誰か得意な人に任せたいことはある。
オレは酒場へ戻る途中で、靴屋の前に立ち止まった。
低い棚に、飾りのない靴が並んでいた。紐を通す穴が四つ。先は丸く、底は厚い。店主に借りた靴と、よく似ている。
昨日までの足は、借り物だったのだ。
店の男が、一足を下ろしてくれた。
「歩く仕事?」
「歩いて、走って、たまに逃げます」
「じゃ、踵を合わせな」
男は職業もレベルも聞かなかった。代わりに、指が曲がっていないか、爪が当たらないかを何度も聞いた。オレが足先ばかり見ていると、立って歩け、と外を指した。
三歩。戻って三歩。
借りた靴より少し軽い。新品だから少し硬い。柔らかくするには、こちらが歩くしかないらしい。
「十八ピィ」
安くはない。でも、足を入れたものを棚に戻す気にはならなかった。
代金を払い、古い靴を包んでもらった。新しい方は、そのまま履いていく。通りの端の泥を避けかけて、靴先だけほんの少し入れてみた。
沈まなかった。
それだけで、診断より先に何かを獲得した気になった。
*
夕方の『陽気な冒険者』は、昨日より静かだった。
店主に靴を返すと、裏までひっくり返して見て、「磨いたのか」と言われた。旅から戻ってすぐ、磨いておいた。世話になったものが泥だらけだと落ち着かなかったのだ。
「ありがとうございました。自分の、買いました」
「足は痛くないか」
「今のところ」
「痛くなる前に言えよ。新しい革は、張り切るからな」
人みたいに言う。
店主は古い靴を棚の下へ戻した。捨てるでも、飾るでもなく、また誰かが履ける位置へ。その手つきを、少し長く見ていた。
「何だ」
「いえ。アタシの前にも、それ、誰かに貸しました?」
「貸したよ」
「何人くらい?」
「足の数は数えてない」
「二本ずつなら、人数には直せますけど」
「暇なら、卓を拭け」
布が飛んできた。身体が先に受け取る。問いの続きを置く場所は、今はなかった。
夜の一番客は、旅装の女だった。
短い髪に白いものが混じっている。日に焼けた首。細くも太くも見えない、しかし荷を下ろすときに肩の線がくっきり浮く腕。腰には派手な剣も杖もない。擦り切れた革の袋を、椅子の脚の内側へ寄せた。
「空いてるかい」
「どうぞ♪ お飲み物は?」
「まず、水。冷たすぎないのを」
近くの井戸から汲んだばかりのものを、少し常温の水と混ぜた。杯を置こうとすると、女の指が卓の端を二度、軽く叩いた。
「もう少し、こっちへ」
言われた位置へ置いた。右手が自然に届くところだった。椅子に座ってから、この人は一度も肩を動かしていない。
水を一口。杯を戻す音は、ほとんどしなかった。
「いい注ぎ方するね。最後の一滴、布に逃がすのか」
オレは手の中の水差しを見た。注ぎ終わりに手首を返し、縁へ添えた布で滴を取っている。言われるまで、動作として数えていなかった。
「服に落ちると、冷たいので」
「誰仕込みだい」
厨房を振り返ると、店主が鍋の蓋を持ったまま止まっていた。
女も、そちらを見た。
「あんた、まだ人を拾ってるんだね」
「拾ってるんじゃない。働いてもらってるんだ」
「そういうことにしとこうか」
席の周りに、薄い薬草の匂いがした。火にくべた葉の、甘く苦い残り香。
喉の奥が、わずかに熱くなる。
「……マルヴァさん?」
女は驚かなかった。オレの顔と、兎の耳と、買ったばかりの靴を一度ずつ見た。
「うちのが、世話になったそうだね」
背後の扉で、何かがぶつかった。
振り返ると、入ってきたゴルドが、閉じかけた扉と肩を押し合っていた。
扉の方が、先に譲った。
*
「帰ったのか」
ゴルドが言った。
それだけだった。あれだけ手紙を裏返し、夜中まで何かを磨いていたらしい男の第一声としては、ずいぶん小さい。
「ああ」
マルヴァも、それだけ返した。
オレは水差しを持ったまま、二人の間に立っていた。どくべきだとは分かる。しかし、どちら側へどけば無事なのか、情報が足りない。
マルヴァが椅子を足で押し、隣を空けた。
「手」
「大したことはない」
「手を出しな、って言ったんだ」
ゴルドは包帯の残る右手を差し出した。マルヴァの指が、その上に触れる。オレはつい、身構えた。手首を折るだの針箱だの、聞いている話がよくない。
けれど女は、指の付け根を順に確かめただけだった。ゴルドの顔が、三つ目で少し歪む。
「そこか」
「ほぼ治った」
「ほぼ、ね」
布の結び目がほどかれた。傷口を見る目つきは、爺さんの言い訳より、ずっと静かだった。
いつの間にか入ってきたセラが、背後から言った。
「骨は大丈夫。腫れは引いてるけど、力をかけるとまだ痛むわ」
「世話をかけたね」
「本人に請求するから」
「そうしな」
マルヴァは包帯を巻き直した。最後の端を入れ込む指が、妙に丁寧だった。
それからゴルドの額を、巻き終えた手でぴしりと弾いた。
「痛っ」
「治ってるところでよかったね」
オレは、息を吐いた。怖いのか、怖くないのか。判断は保留した。
*
食事が運ばれてくると、ゴルドが魚の皿を自分の方へ引いた。
「取るつもりですか。奥さんの分」
「骨を外すんだ」
包帯の手では、普段より遅い。左手の叉で押さえ、少しずつ身を分ける。その横で、マルヴァは硬いパンを二つに割り、片方をスープへ浸した。
「歯でも悪いんですか?」
尋ねてから、年齢を探るように聞こえたかもしれないと後悔した。
「こいつが、熱いまま食べたがるから」
マルヴァは浸したパンを、ゴルドの皿へ戻した。スープを吸った分だけ、少し冷める。
爺さんは何も言わず、骨を外した皿を彼女の前へ置いた。
二人とも、こちらを見なかった。
夫婦というものを、初めて見た気がした。そんなはずはない。そういう言葉を知っているくらいなのだから、見たことくらいはあるだろう。それでも、説明されなければ分からない動きが、説明なしで噛み合うところを、こんなに近くで見るのは。
「バニーの。皿、もう一枚」
「あ、はい」
呼ばれて、手が動く。
マルヴァは取り分けた魚を少し、空いた皿へ移した。皮の焼けたところが多い。
「厨房の。あんたの分」
「客が店主に分けるなよ」
「昔から、そこをつまむだろう」
店主が、面倒くさそうに皿を受け取った。口の端だけが緩んでいた。
この人は、ここに帰ってきたのだ。
噂が戸口を通って人間になった、と思った途端、隣の卓の客が酔った声を上げた。
「マルヴァって、あの? 古竜を笑わせたっていう」
「飯の最中だよ」
「一言でいいんだ、何を言ったんだ?」
それは、オレも聞きたかった。
男が椅子を寄せた。ゴルドの包帯を見るなり、口元に薄い笑いを浮かべる。
「亭主は拳を痛めて帰ったらしいがな。奥方に教わった方が――」
続きを言おうとして、男の声が途切れた。
マルヴァが、皿から骨を一本つまんでいた。
骨を投げたわけではない。突きつけたわけでもない。ただ、男の視線がその先に吸われたとき、足元の椅子を少しずらした。
男が座ろうとしていた位置と、椅子がずれた。
尻餅をつく直前、マルヴァの手が襟を掴んだ。
「立って食うかい」
「い、いや」
「じゃ、椅子を見な」
男は自分で椅子を戻し、自分で座った。さっきまで余っていた声が、急に足りなくなったらしい。
骨は皿の縁へ戻された。
マルヴァは魚を食べた。
オレは、一連の動作を頭の中でもう一度辿ろうとした。誰も殴られていない。大きな物音もしていない。なのに、周りの客はみんな、少しずつ椅子を引いている。
「今の、何をしたんですか」
「座りたい奴に、椅子を探させただけさ」
「それ、教わってできるものなんですか」
「人による。真似して怪我をさせたら、あんたの勘定だよ」
真似する気はなくなった。見えた動きより、見えていない判断の方が多い。
*
客足が落ち着いてから、セラが送金の控えを出した。
罰金二十八モンメリー。今回の預け入れは十モンメリーと五ピィ。残りは十七モンメリーと五ピィ。
マルヴァは紙を読み、ゴルドを見た。
「元気そうで何よりだ」
「言い方に、何か入ってるぞ」
「入れてるからね」
ゴルドが酒の杯を持った。飲もうとすると、マルヴァが指先で底を押さえた。
「先に、何をしたか聞こうか」
「記録にあるだろう」
「金額だけじゃ、謝る先が分からない」
セラが頁を開いた。
オレはその場を離れかけ、呼び止められた。
「あんたにも、迷惑をかけたね」
「いえ、アタシも叩いてますから」
「叩かせる仕事を増やしたのは、こいつだろう」
軽く言われて、返事が止まった。
ゴルドも、そこで一度、ちゃんとオレを見た。
「悪かったな」
いつもの薄い頭の下げ方ではなかった。上手く冗談にする場所がなく、オレは少しだけうなずいた。
「次は、謝らなくて済む方でお願いします」
「善処する」
「その返事、信用の残高が足りませんよ」
セラがペンを置いた。マルヴァが笑った。ゴルドだけが、まだ少し真面目な顔をしていた。
*
閉店近く、オレは裏庭で水桶を持ち上げた。
昼間に買った靴は、足には合っていた。ただ、紐をきつく結びすぎたらしい。屈むたびに甲が引かれ、歩幅が小さくなる。
「その格好、動きにくいだろう」
壁際から声がした。
マルヴァが、小さな煙管の灰を石の器へ落としていた。薬草の匂いが、夕食の残り香と混じる。
「はい。靴を替えたら、ほかも気になってきました」
「なのに、その服は替えないのかい」
自分の腰を見た。黒い衣装。白い袖口。兎の耳。目を覚ました朝には、なぜこんなものを着ているのかとしか思えなかった。
「……お客さんが、覚えてくれるので」
それだけ言うつもりだった。でも、続きが出た。
「この服だと、呼ばれやすいんです。名前を知らなくても。あそこの兎の子、って」
マルヴァの目が、少し細くなった。
「なら、効いてる」
肯定なのに、熱のない声だった。その温度が、かえって心地よかった。
「でも、足まで不自由にすることはない。紐、上の穴だけ緩めな」
言われた通りにすると、足首が曲がった。桶を持ち上げ直してみる。腰の位置が、さっきより低くできた。
「あ」
「強くなるより早いこともある」
その一言が、妙に残った。
オレは桶を置いた。
「マルヴァさんの職業って、何ですか」
「遊び人」
思わず、顔を見た。
女は煙管を布で拭いている。軽装の下にある身体は、よく使われた道具のように、余計なところがなかった。強い戦士か、凄腕の何かだと思っていた。何か、に遊び人は入っていなかった。
「同じ、なんですか」
「紙にはそう書いてある。今はほとんど仕事をしてないけどね」
「何レベルですか」
「最後に測ったときは、四十七」
「四十七」
「ずいぶん前の話だ。今は知らない」
低くはないのだろう。しかし、四十七という数字のどのあたりに、さっきの骨と椅子が入るのか、見当もつかない。
「遊び人でも、ああいうことができるんですね」
「遊び人だから、できないと思ってた?」
責める口調ではなかった。だから、ごまかせなかった。
「はい。少し」
「じゃ、今日一つ、知らなかったことが減ったね」
煙管が袋へしまわれる。女は裏口へ向かいかけた。
「あの。竜を、どうやって笑わせたんですか」
やっぱり聞いてしまった。
マルヴァは振り返り、眉を上げた。
「忘れた。気になるなら、本人に聞きな」
「聞きに行く費用が、すごく高いんですけど」
「だったら、安い疑問から片づけることだね」
扉が閉まった。
オレは、桶の取っ手を握り直した。上の穴を緩めた靴で踏ん張る。さっきより楽に持ち上がる。
二十四ピィの診断より先に、ただで分かったことが一つあった。
同じ職業でも、あの人までの距離は、まだ測れない。