第7話 財布と戦場
第七話 財布と戦場
朝から、ゴルドの顔色が悪かった。
空は晴れていたが、ハイベルの大通りには夜露の匂いがまだ残っていて、石畳は白く濡れて光っていた。パン屋の煙突から立ち上る煙、市場の呼び込みの声、荷馬車の車輪が立てる乾いた音。そんな朝のざわめきの中で、ゴルドの足取りだけが、やけに重かった。
「――ない」
「またですか」
オレはもう驚かなくなっていた。ギルドへ向かう道すがら、ゴルドが懐を探る手つきには、既視感を通り越して様式美すら漂っている。
確信。まず、懐に手を入れて動きが止まる。指先が探る場所を一つずつ辿り、そこにあるはずのものがないことを確かめる、静かな時間。動揺。眉が寄り、探る手が速くなる。同じ場所を、上から下へ、外から内へ、順序を変えて何度も撫でる。再確認。もう見つからないと分かっているはずの場所を、なぜかもう一度探る。この未練がましい仕草そのものが、もはや様式の一部だった。絶望。両手を上げ、空を仰ぐ。まるで空が財布の在り処を知っているとでも言うように。そして、最後の一段が来る。
「まあ、いいか」
他人事。五段階、いつも通り、寸分違わず。表情の変化だけを絵に描けと言われても、オレはもう目をつぶったまま描ける自信がある。
仮説その一、これは一種の処世術ではないか。失くしたことに一喜一憂しないことで、心を守っているのかもしれない。仮説その二、単に懲りていないだけではないか。……検証するまでもない。この六日間、ゴルドが「懲りた」顔をしたところを、オレは一度も見ていない。
「よくないですよ! 今日、依頼あるんですよ!」
「金はセラが持ってる。俺の財布に入ってたのは、お守りみたいなもんだ」
「お守りが軽すぎません?」
「軽いから失くすんだ、たぶん」
「重くしたら、失くさなくなるんですか」
「さあな。試したことがない」
「試してくださいよ、一回くらい」
「今度、石でも詰めてみるか」
「それ、お守りじゃなくて重石です」
この手の問答も、七日目にもなると、朝の挨拶のようなものに変わりつつある。
ギルドに着くと、朝一番の依頼を求める冒険者たちで、掲示板の前はちょっとした人だかりになっていた。紙の擦れる音、インクと羊皮紙の匂い、受付の奥で誰かが硬貨を数える乾いた音。セラは、その隙間を迷いなく縫って進み、目当ての一枚に指をかけた。
「街道沿いの隊商護衛。灰狼の群れが出るようになったって話。半日仕事、報酬はモンメリー二枚と四ピィ」
「四人均等割りで、一人ピィ六枚ですね」
口をついて出た数字に、自分で少し驚く。指も折らずに割ってのけた。数字に強くなったのか、単にセラの影響を受けすぎているのか、判断がつかない。もっとも、この程度で驚いているうちは、セラの隣にはまだ遠い。あの人は、依頼書の文字数から相場まで逆算できそうな域にいる。
依頼主は、小さな行商団だった。荷馬車二台、御者と護衛志望の若い商人見習いが一人。街道を半日進んだあたりから、御者の表情が強張り始めた。
日差しは高く、街道の土埃が荷馬車の車輪に巻き上げられては、白く舞って落ちていく。蝉に似た虫の声が途切れることなく続き、遠くの森の緑が、風もないのに時折り不自然に揺れた。御者の男は、その揺れを見るたびに手綱を握る手へ力を込め、額の汗を袖で拭った。
「最近、あの森の際から、頻繁に出るんです」
声には、隠しきれない怯えが滲んでいた。
森の縁に差し掛かったところで、案の定、灰色の毛並みをした狼の群れが姿を現した。数は六、七頭。牙が剥き出しになり、低い唸り声が地面を這うように響く。葉陰から覗く眼が等間隔に並び、白く見えるほど低く荒い呼気と、獣特有の匂いが風に乗って流れてきた。揃いすぎた足運びだけで、これがただ腹を空かせた群れではないと分かる。
「来るぞ」
ゴルドが拳を構える。アルトも剣を抜いたが、切っ先はいつも通り震えていた。
「僕は、その、後ろで援護を……」
「アルト、前」
「は、はい、前で……」
言いながら足は動かない。動くのは口だけだ。震える切っ先が朝日を弾いて、意味もなく眩しい光を散らしている。
狼の群れが散開し、荷馬車を囲むように動き始めた。統率の取れた動きだった。単なる獣の群れというより、狩りに慣れた集団の連携だ。
御者の顔から、見る間に血の気が引いていった。前回の教訓――前に出て瞬殺されかけた記憶――は、まだ脛のあたりに残っている。それでも、身体が動いた。
「御者さん、荷馬車の陰に!」
声を張り上げながら、御者の腕を引いて荷馬車の後ろへ誘導する。ここまでは、及第点だったはずだ。だが、その分、オレ自身の位置取りが、群れの死角から外れてしまった。
一頭が、横合いから飛び出してきた。
「――っ」
避ける間もなかった。喉の奥で、聞き慣れない節回しが何かを叫ぼうと迫り上がりかけた気がしたが、それが言葉になるより先に、ただの悲鳴が口をついて出た。牙が、こちらの二の腕を捉える、その寸前。視界の端から、影がひとつ、矢のような速さで割り込んできた。
ゴルドだった。
拳が、狼の顔面を正確に打ち抜く。骨と骨がぶつかる乾いた音が響き、地面から土埃が舞い上がった。狼は悲鳴とともに吹き飛び、白目を剥いたまま地面を転がって動かなくなった。ゴルドの体は、オレと狼の間に、完全に割り込む位置で止まっていた。
「大丈夫か」
その声には、いつもの軽薄さがなかった。短く、低く、確認だけを目的とした声だった。
「は、はい……」
声が、思ったより震えていた。心臓の音が、まだ耳の奥で鳴っている。動悸が治まらないのは恐怖のせいだと思っていたが、考えてみれば、この心臓自体、オレのものになってから十日と経っていない。借り物の心臓で怖がるというのも、妙な話だった。
「動くな。次はもっと速く来る」
言われるまま、オレは荷馬車の車輪に背をつけたまま動けずにいた。腕の産毛が逆立っている。牙が掠めた場所には傷一つない。代わりに、荷馬車の陰へ身を引いた拍子に車輪の縁で擦った肘が、今頃になってひりつき始めていた。傷はそれだけなのに、皮膚の下は、まだ噛まれたような熱を持っている。恐怖というより、遅れてやってきた実感、というほうが近い。目の前で人が守ってくれた、という事実だけが、じわじわと胸の底に染みてくる。
ゴルドはそう言うと、再び拳を構え、次々に迫る狼を捌いていった。動きに、迷いがない。財布を探す時のあの右往左往が嘘のような、静かで正確な体重移動。右から来る一頭には半身をひねって拳を通し、左から回り込もうとした一頭には、振り向きもせず肘だけで応じる。踏み込みの角度、拳の軌道、どれも無駄がなかった。強い一発ではなく、効く一発だけを選んで打っている。そんな風に見えた。アルトは剣を構えたまま、結局一撃も振るう機会のないまま立ち尽くしていた。「す、すみません、僕、何を……」呟きは誰にも拾われず、土埃の中へ消えていった。
残りの群れは、数頭が斃れたところで足並みを乱し、森の奥へと退いていった。
戦闘が終わると、ゴルドはいつもの陽気な顔に戻っていた。
「いやあ、久々に動いたな」
「今の、速かったですね」
動悸の収まらないまま、オレは言った。
「そりゃ速くもなる。嬢ちゃんが危なかったんだから」
あっさりとした返事だった。まるで、財布を失くしたことを詫びる時と同じ温度で、命を救った話をしている。
この爺さんは、財布の場所は把握できない。だが、仲間の位置は、常に把握している。狼が散開した瞬間から、たぶん、誰がどこにいて、誰が一番危ういか、ずっと数えていたのだろう。
同じ人間の中に、こんなに違う二つの精度が同居している。片方は驚くほど杜撰で、もう片方は驚くほど精密だ。
仮説を立ててみる。財布への注意力と、仲間への注意力は、同じ「注意」という器を奪い合っているのではないか。器の容量は決まっていて、大事なものにだけ全部を注ぎ込む。だから、それ以外がすべて疎かになる。……この説が正しいなら、オレは今、その器の中で「大事なもの」の側に数えられていることになる。胸の奥が、妙にくすぐったかった。
「ゴルドさん、財布は失くすのに、人は失くさないんですね」
「そりゃそうだ。財布は俺のだが、仲間は俺のじゃない。俺のものは雑に扱う。俺のじゃないものは、大事にする」
……妙に筋の通った価値観だった。
御者の男が、涙目で頭を下げてきた。「ありがとうございます、本当に……」
「気にするな。仕事だ」
血の気の引いたあの御者の顔は、酒場で法外な勘定書きを受け取った瞬間の客と、同じ顔だった。愛想笑いの下で表情が固まり、次の一歩が分からなくなる。あの固まり方を、オレは接客の間に数えきれないほど見てきた。ここで一声かけなければ、あと数秒で足が動かなくなる。剣の技術でも魔法の勘でもなく、ただの場数がそう読んで、身体を先に動かしていた。
道中の残りは平穏だった。荷馬車の護衛は無事に終わり、依頼主から報酬と共に、行商途中で買い付けたという干し肉のお裾分けまで貰った。日が傾き始めた頃には、街道の土埃が赤く染まり、荷馬車の車輪の音まで、行きより軽やかに聞こえた。
街に戻る道すがら、ゴルドがまた懐を探る仕草を見せた。
「……あ」
「今度は何ですか」
「干し肉、貰ったやつ。もう懐に入れて、もう失くした」
「早すぎません!?」
「俺の懐は、物を保管する場所じゃなくて、物を通過させる場所らしい」
「もっと危機感持ってください!」
「持ってますよ、危機感」
「持ってるようには見えません」
「持ってるが、財布と一緒にどこかへ落としたのかもしれん」
「危機感まで失くさないでください」
オレは笑いながら突っ込んだ。この一連のやり取りに、以前ほどの苛立ちを感じなくなっている自分に気づく。呆れながらも、どこか、この調子を心地よく感じている。
宿に戻ると、セラが待ち構えたように帳簿を開いた。羽根ペンの先が、蝋燭の灯りを弾いて小さく光る。
「報酬、モンメリー二枚と四ピィ。均等割りでピィ六枚ずつ。ミア、今回の治療費は、擦り傷一つでピィ二枚」
「はい、それは妥当です」
「今回の個人収支、プラスピィ四枚」
「初めての黒字です!」
オレは思わず声を上げた。前回の赤字、前々回のプラマイゼロを経て、ようやく手にした純粋な黒字だった。
「喜ぶには早いわよ。ゴルドさんの分から、罰金がまた引かれてる」
「え、いつの間に」
「行商の見習いの子に、肩を組もうとして怒られてたでしょう。あれ、私、しっかり見てたから」
「見てたんですか、そんな時まで」
「私の目は、常に節穴じゃないの」
ゴルドが「ぐぬ」と唸る。「累計、モンメリー二十四枚」
「増える一方ですね」
「増える一方だから、抑止力になってるのか、疑問なんだが」ゴルドがぼやく。
「なってないから、増えてるんですよ」
「理屈は分かるが、納得はできんな」
「納得できなくても、払ってください」
セラが即座に切り返した。取り立ての娘としての血が、こういう瞬間だけ、妙にはっきり顔を出す。
そのやり取りを眺めながら、小さく笑った。
この六日を経て、七日目。財布を失くす爺さんと、正論で殴る娘と、謝ってばかりの青年と。まだ完全に馴染んだとは言えない。だが、今日のこの戦場で見た一瞬のゴルドの動きは、確かにオレの中の何かを、少しだけ動かしていた。
書類の上では、まだ「臨時」の四人目。だが、こうして積み重なっていく一日一日の重みだけは、書類には決して書けないものだった。財布のように、うっかり手放してしまうことさえできない重みだ。
考えてみれば妙な話だ。契約書には名前と日付が並んでいるだけで、今日のあの一瞬――牙の間合いに割り込んできた背中や、動悸の残る腕の感触――は、どの欄にも書き込む場所がない。数字にできるものと、できないものが、同じ一日の中に平然と同居している。セラなら、きっとこれも何かの勘定に換算してみせるのだろうが、オレにはまだ、その換算式が分からない。分からないまま、ただ、悪くない、とだけ思う。
財布は、今日も帰ってこなかった。だが、それ以外のものは、ちゃんと帰ってきた。