第6話 一日だけが終わらない
第6話 一日だけが終わらない
報酬は、音がした。
ドリスが小袋を窓口へ置いたとき、中の硬貨が短く鳴った。紙の上では何度も見ていた三十二ピィが、初めて持ち上げられるものになった。
セラは受領の署名をし、その場で数えた。
数え終わってから、小袋の口を閉じる。
「確認しました」
オレは、その手元を見ていた。
山羊の柵。泥のついた傷。試食の皿。バートンの白い髭。
そういうものが全部、この袋に入ったわけではない。でも、四日間の仕事に、やっと終わりの形ができた。
「お疲れさまでした」
ドリスが言った。
オレも頭を下げる。正式な冒険者になってから四度目の朝だった。
*
宿の部屋で、セラは机を空けた。
帳簿を左に、硬貨を真ん中に、受領証を右に置く。ゴルドが座ると、椅子の背がぎしりと鳴った。
オレはその音を聞いて、思わず彼の懐を見た。
「大丈夫よ。お金はまだ私が持ってる」
「何を警戒したか分かるんですね」
「だいたい同じものを警戒してるから」
爺さんは、不当に扱われているという顔をした。抗議はしなかった。
「基本報酬が二十ピィ。追加が十二。合計三十二を四等分して、一人八ピィ」
机に四つの山ができる。
オレの前にも、八枚が来た。
実際に自分の前へ置かれると、気持ちが少し変わった。触れたら温かいのではないかと思うほど、目がそこに寄っていく。
「ミアの治療費が八ピィ」
セラは引き取らず、手を開いて待った。
オレは八枚をもう一度数えてから、彼女の手の上へ載せた。
短い旅だった。
「確かに。これで、あなたの未払いはなし」
治療の明細に、済の印が押された。
オレの前には、紙だけが残る。
「黒字ではないんですよね」
「でも、三ピィの赤字でもない」
「分かってるんですけど、一度持つと惜しくなりますね」
セラは小さく頷いた。
「だから、支払う前に数えるの」
その言葉は、嫌味ではなかった。
次に、残る三人の八枚ずつがまとめられた。二十四ピィ。
セラは治療費として受け取った八枚も、そこへ足した。
「私の治療代の分も、いったん共同資金へ貸す。別に記録するわ」
「全部、戻すんですか」
「宿へ払わないと、今晩は机ごと外よ」
オレは窓の向こうを見た。朝の雲が低く垂れ込めていた。帳簿に雨除けがついているようには見えない。
「酒場の十二ピィは、ゴルドさんの個人の借りとして共同資金から立て替える。次の取り分から返してもらう」
「もう返したことにはならんのか」
「店への借りが、こちらへの借りになるだけ」
「引っ越しか」
「出ていってもいいんですよ、その借金」
オレが言うと、アルトがうつむいて笑った。
宿代は三泊分で十八ピィ。最初の六枚で払った一晩のあと、契約を詰め、品を届け、報告を済ませる間に溜まった分だった。
三十二から十二、十八。
残り二枚。
セラはその二枚を、机の隅へ並べた。
「共同の手持ちは、これ」
「スープですね」
「一杯分ね」
オレの値上げ交渉は、どこへ行ったのだろう。
いや、治療費を払い終えたのだから、無駄ではない。そもそも、この二枚はオレ一人の稼ぎではない。
考えると、勘定は合っていた。合っているのが、いちばん腹立たしい。
アルトが遠慮がちに口を開いた。
「今夜の分は、まだだよね」
「そう。だから、明日の依頼を探す」
セラが帳簿に細い線を引く。
終わった仕事の下へ、もう次の空欄ができていた。
*
宿の女将は、十八枚を自分でも数えた。
それから帳面の赤い線を、黒で横切った。
「これで昨日までの分。今夜はどうする」
「明日の依頼の受注票を、お見せします」
「紙は食えないからね」
入口でクルルが、掲示の端へ口を伸ばした。
女将は目も向けず、手元の扇で鼻先を押し戻した。
「あんたは食うな」
オレは登録札が懐にあるのを確かめた。この宿では、書類も油断できない。
酒場への支払いには、四人で行った。
開店前のカウンターに十二ピィを置くと、店主はセラの支払約束を引き出しから取り出した。
「確かに」
紙の真ん中へ線を引き、こちらへ返す。
セラが受け取り、帳簿に挟んだ。これで、あの夜に始まった取り立ては終わりだ。
オレはようやく、肩のどこかが軽くなった気がした。
「お待たせしました」
「ちゃんと帰ってきたな」
店主は金を片づけてから、奥の棚を示した。
白ひげチーズの包みが、日付をつけて並べられている。昨日の売れ行きを見て、今夜は先にパンを薄く切っておくつもりらしい。
「こっちも、助かってる」
「よかったです」
「皿の分くらいは、すぐ出る」
オレは店主を見た。
店主は知らない顔をして包みを数えた。
「覚えてたんですね、皿」
「二枚だ。割った方は忘れても、使う方は覚えてる」
そこで笑われた方が、少し楽だった。
シチューを落とした自分が、この店に何か一つ持ち帰った。そのくらいのことは、思ってもいいだろう。
ゴルドが椅子へ手をかけた。
「さて、清算も済んだことだし」
セラと店主が、同時に見た。
椅子は引かれなかった。
「……散歩でもするか」
オレは、初めてこの人が酒場から自力で離れるところを見た。
*
午後、次の仕事を探す前に、もう一つの帳簿が開かれた。
セラは月内の送金予定をまとめていた。オレは横で、完了した依頼の控えを日付順に揃える。
数字を読むことにも、少し慣れてきた。三十と三十二は別の金。報酬と返済も別。紙が似ているからと重ねれば、あとで面倒になる。
「十八枚も送るんですね」
「まだ支払い待ち。今月の罰金は、ここまで」
セラが示した欄に、九本の短い線があった。
オレは数えた。
宿での三回。その前は六回。
「酒場の分は、入ってないんですか」
部屋の向こうで、ゴルドの靴が床を擦った。
セラが顔を上げる。
「酒場でもあったの?」
「二回。起こしたあとです」
「そう。申告する?」
オレは頷いた。
肩から腰へ回った手のことと、二度目に胸元へ伸びてきた手のことを、短く話した。
セラは余計なことを聞かなかった。日時を書き、二本の線を足す。
「二件追加で四枚。合計十一件、二十二モンメリー」
「古い話を、今になって」
ゴルドが天井を見上げたまま言った。
「まだ五日前です」
「人は変わるぞ」
「さっき椅子に手をかけたときは、変わってませんでしたね」
「飲もうとしただけだ」
「そっちは罰金に入れてないわ」
セラはきっぱり区別した。
「でも、やめさせるための制度なのに続くなら、金額の見直しは要るわね」
爺さんが天井を見るのをやめた。
「今のままが、いちばん落ち着いとる」
「落ち着いてほしいのは手です」
オレが言うと、ゴルドは両手を膝の下へ入れた。
物理的に封じれば済むのなら、最初からやってほしかった。
セラは送金予定の紙を折り、封筒へ入れた。誰の手に渡るのか、オレはまだ知らない。知っているのは、名前と、灰皿と、この二十二枚の重さだけだ。
効かせる女。
また、あの言葉が浮かんだ。
セラのペンより、店主の睨みより、この人によく効く何かを持った相手なのだろうか。
「奥さんには、ちゃんと謝るんですか」
「謝る。会えばな」
「会うまでに練習しておけばどうです」
「あいつは、練習した謝罪が嫌いだ」
すぐに返ってきた。
その答えだけは、妙にはっきりしていた。
*
ゴルドの記憶が曖昧になったのは、前の四人目の話になってからだった。
セラが古い依頼書を探していると、爺さんが机の端から一枚引いた。
「ああ、これだ。前の奴を雇ったときの護衛。雨の日だったな」
「雨?」
アルトが眉を上げた。
「ずっと晴れてて、水が足りなくなったんじゃなかった?」
「そうだったか。じゃあ帰りが雨だったんだ」
ゴルドは気にせず、紙を眺めた。
「背の高い男でな。後ろの荷台に座って、道中はほとんど喋らん。揉めそうになっても、向こうが勝手に退いた」
「女の人じゃなかった?」
セラが顔を上げた。
「前に聞いたとき、そう言ってたでしょう」
「男だったと思うが」
爺さんはこめかみを掻いた。
いつもの冗談を探す顔ではなかった。目を少し細めて、実際に何かを見ようとしている。
「いや。背が高かったのは覚えとる。声は……」
止まる。
アルトも答えなかった。手拭いの端を一度だけ折った。
「アルトさんは、一緒にいたんですか」
「僕は別の荷車だった。何台かに分かれてたから、ずっと顔を見てたわけじゃないんだ」
「私が確かめたのは、雇い賃と、受領の印だけ」
セラは紙の下を指した。
古いインクで、小さな印が残っている。そこに人がいた証拠はあるのに、顔を尋ねると全員の目が別々の方へ向く。
「名前は」
「……何だったかな」
オレは印を見た。
昨日、書いた自分の名も、そのうちこうなるのだろうか。
女だった、いや男のような声をしていた。何もしなかった、いや少し喋った。
そんなふうに言われたら、どれも間違いとは言い切れない気がした。
窓から風が入り、依頼書の隅を持ち上げた。セラが指で押さえる。
「とにかく、支払いは二ピィ。そこは変わらない」
「変わらないのが金額だけなの、怖くないですか」
「払ったときに書いたからね」
それなら、今ここで書かれる自分も、金額くらいは確かに残る。
治療費八ピィ。取り分八ピィ。
差し引きゼロの女。
もっと、ほかに覚えてもらえるものを作りたかった。
*
次の依頼書を広げようとしたところで、オレは机へ手を置いた。
「その前に、確認を」
セラがペンを止める。
「一日だけって、言いましたよね」
「言ったわね」
「初日に終わらなくて、チーズを持ってきて、契約して、納品して。今日は報酬を受け取りました」
「ええ」
「昨夜のうちに数えました。あの宿で署名した日から、今日で六日目です」
アルトが少し口を開けた。ゴルドは、膝の下から片手を出して指を折り始める。
セラだけは驚かなかった。
「最初の仕事が、今日終わったから」
「一日を、一仕事に換えないでください」
「その指摘は正しいわ」
オレは、用意していた次の文句を飲み込んだ。
彼女は最初の仮名簿を出した。端に『臨時・一日』とある。消されてはいない。その下に、延長を示す新しい記入もない。
「続けるかどうかは、別に決めるべきだった。ごめんなさい」
正面から謝られると、こちらも正面から考えなければならなくなる。
「登録は、まだ残ってるんですよね」
「脱退の届けを出すまでは。ただ、それだけで仕事を強制することはないわ」
オレは戸口を見た。
いつでも帰れる。このあと、酒場の仕事もある。部屋も、自分の寝台もある。
なのに、この机から自分の紙だけを抜くところを想像すると、少し手が重かった。
「あの」
アルトが言った。
「また来てくれたら、嬉しいです」
「人数が足りないからですか」
「それも、あるけど」
彼は膝へ目を落とし、上げた。
「バートンさんの仕事、僕らだけだったら、山羊を運んで終わってたと思うから」
返事を探した。
役に立ったと言われたのか。たまたまチーズを見つけただけだ、と言えば、昨日の自分の少し嬉しかったところまで消してしまう気もする。
オレは、広げかけていた次の依頼書を見た。
街道の短距離護衛。戻りは夕方まで。四人以上。
「……明日の内容を、先に聞かせてください」
セラは依頼書をこちらへ向けた。
「聞いてから決めます。これからは一件ずつ、ちゃんと」
「分かったわ」
ゴルドが頷いた。
「そうして、一件が二件になっていくもんだ」
「そういう先回りは、今いちばん要りません」
夕方、酒場へ戻ると、店主が仕込みの手を止めずに言った。
「明日も行くのか」
「……昼だけです」
「一日だけの次は、昼だけか」
オレはローブを鉤へ掛け、盆を取った。
「夜は、ここにいますから」
「そりゃ助かる。三番卓」
顔を上げると、ドランが手を挙げていた。
いつもの。
今度は頼まれる前に分かった。