第5話 商談成立
第五話 商談成立
一晩考える、とセラは言った。
その一言を残して帳簿を閉じた背中には、反論を受け付ける隙が欠片もなかった。オレは寝台の上で天井の木目を数えながら、強制執行という言葉の硬さと、バートンの肩の落ち方を釣り合わせようとして、うまくいかないまま眠りに落ちた。
翌朝、宿の共用部屋に集まると、セラは帳簿を広げたまま、すでに答えを持っている顔をしていた。窓から差し込む朝の光が、机の上の羊皮紙を斜めに照らしている。廊下の向こうでは、看板山羊のクルルが小さく鳴いていた。瞼は半分だけ下りて、今日の景気を読ませる気はないようだった。
ゴルドは寡黙にパンを頬張り、アルトは手拭いを几帳面に畳み直しては、また広げるという意味のない動作を繰り返していた。緊張しているのか、単に手持ち無沙汰なのか、本人にもよく分かっていないのだろう。
「バートンの借金、モンメリー三枚。強制執行なら、山羊を売って終わり。取りっぱぐれは一枚もなし、こっちの手間もなし。一番簡単な解決策よ」
澱みのない口調だった。まるで、既に決まった判決を読み上げているような。
「駄目です、それ」
オレは反射的に声を上げていた。テーブルに身を乗り出す形になり、椅子がぎしりと軋む。
「知ってる。だから、一晩考えたの」
……つまり、最初から却下する気で読み上げたわけだ。だとしたら、あの澱みのなさは何だったのか。反論の余地を潰すための前振りだった、という説が一番腑に落ちる。あるいは、単に思考の順番を音読していただけで、他意はない。どちらだとしても、結論は変わらないのだが。
「山羊を売っても、バートンは何も残らない。次の稼ぎ手も失う。ギルドの帳簿は綺麗になるけど、それだけ。誰も、それ以上得をしない」
セラは羽根ペンの尻で、こめかみを軽く叩いた。かつん、かつん、と乾いた音が部屋に響く。
「つまり、非効率」
……非効率。セラの口から出ると、その一言が妙に重く響いた。人の生活を賭けた話を、損得の言葉だけで測っている。だが、その損得の先に見ている答えは、なぜかいつも誰も潰さない方向を向いている。損得勘定のふりをした何か、という仮説をオレは一度立てて、すぐに引っ込めた。考えすぎだろうか。ただの計算高い僧侶、という可能性のほうがよほど単純ではある。
「あの、ひとつ、考えがあるんですけど」
オレは、昨夜からずっと温めていた案を口にした。指先が、無意識にテーブルの端を撫でている。
「バートンさんのところ、山羊は無事です。乳も、少しは出るはずです。牧草地が完全に駄目になったわけじゃない。なら、チーズを作って、うちの店――『陽気な冒険者』に卸すのはどうでしょう」
三人の視線が、オレに集まった。ゴルドがパンを咀嚼する動きを止め、アルトの手から手拭いが落ちかけて、慌てて拾い直される。
「店主に、詫びも兼ねて話してみます。ちょうど、シチューぶちまけた借りもありますし」
「詫びと商談を同じ場でまとめる発想。面白いところを突くじゃない」
セラの目に、初めて興味の色が浮かんだ。
「問題は、バートンに今すぐチーズを作る余力があるかどうか。牧草が足りなきゃ、乳の出も悪い。今日明日で借金が返せる量は作れないでしょう」
「だから、前借りです」オレは続けた。「店主に、これからのチーズの分を先払いしてもらう。バートンさんは、その金で借金を返す。店は、名物になりそうな食材を独占で仕入れられる。安く」
セラの指が、机の上で止まった。何かを計算している目だった。指先だけが、宙で見えない算盤を弾くように、小刻みに動いている。オレはその沈黙を、固唾を呑んで見守った。
「……筋は通ってる。いえ、むしろ、いい」
セラが立ち上がる。動きが、いつもより一段速かった。
「行くわよ、店主のところへ」
昼前の『陽気な冒険者』は、夜の喧騒が嘘のように静かだった。木の椅子は行儀よく机に立てかけられ、床には水拭きの跡がまだ乾ききらずに残っている。酒精の匂いに混じって、朝の掃除で使った石鹸のような匂いがうっすら漂っていた。カウンターの向こうで帳面を繰っていた店主は、セラとオレの顔を見るなり、指を止めた。
店主は最初、腕を組んで難色を示した。太い眉が、への字に歪む。
「先払いって、お前、まだ会ったこともない山羊飼いのために、うちの金を前借りさせろってことか」
「はい」
「胡散臭いにも程があるだろう」
店主は帳面をぱたんと閉じ、カウンターに肘をついた。指がとんとんと木の天板を叩く。品定めするような目つきで、オレとセラを交互に見比べた。
「でも、味は本物です。あそこの山羊、毛艶がいいんです。餌が良かった証拠です」
「毛艶と、借金を返す気があるかどうかは、また別問題だろうが」
店主の声には、まだ疑いの色が濃かった。腹の底で、聞き慣れない節回しの苛立ちがわずかに迫り上がりかけたが、すんでのところで飲み込んだ。
オレは、自分でも意外なほど、この交渉に本気になっていた。バートンの肩が落ちる姿を、もう一度見たくなかった。理屈じゃない、という自覚はある。だが理屈で拾えない部分にこそ、いちばん大事なものが埋まっているのではないか。……なんて、柄にもないことを考えている自分に、少し驚く。
「肩書きは遊び人ですけど、味には自信があります。何せ、毎晩あの看板メニューを運んでるので」
「ミア、お前の意見は感想。商談には、数字がいる」
セラが横から、涼しい顔で数字を並べる。カウンターの上に、指先で見えない線を引くように。
「先払いはモンメリー三枚。以降、週にピィ五枚分のチーズを六週にわたって納品させます。相場の七掛け。店側の実質利益は、六週で――」
「待て。七掛けってのは、こっちが安く買い叩く形になるが、山羊飼いの側にとっちゃ、それで割に合うのか」
店主が眉間に皺を寄せ、初めてまともな疑問を口にした。数字に弱いふりをしていただけで、勘定そのものは決して鈍くないらしい。
「合います」オレは即答した。「バートンさんにとっては、借金を清算できて、なおかつ毎週の現金収入が確定するんです。相場より安くても、確実に売れる先がある方が、彼にとっては大きい」
セラが小さく頷いた。「安定した販路。これも一種の対価よ」
店主はぶつぶつと、口の中で数字を転がし始めた。
セラの指が、宙で素早く動く。
「前払いの三十は、六週の納品でそっくり戻ります。店に残るのは、相場との差額。仕入れを三割まけさせた名物が、他所には一切出回らない」
差額、という言葉のあたりで、店主の眉がぴくりと動いた。帳面に戻るはずの指が動かないのは、頭の中で同じ勘定を先回りして終えた証拠だろう。
「独占、ってのは、いい響きだな」
だが、その声にはまだ迷いが残っていた。腕組みを解いたかと思うと、また組み直す。
「六週の間、山羊がまた兎かなんかにやられたら、どうなる」
「そのために、もう害獣は駆除済みです」オレは即座に返した。「同じ手は、そう何度も食いません」
「食わない、と言い切れるのか」
「言い切れませんけど、次があっても、今度は駆除の手順を知ってます。二度目は、一度目より早く片付きます」
言い切ってから、少し不安になった。保証にも何にもなっていない、ただの威勢だけの返事だ。だが店主は、意外にもその答えに小さく笑った。
「威勢だけは、一丁前だな」
「一丁前で結構です」
店主はカウンターの木目を指でなぞったまま、何も言わなかった。時が止まったような間だった。表の通りを荷馬車が過ぎる音、遠くで鶏が鳴く声、そんな些細な音だけが、静かな店内を埋めていく。沈黙が長引くほど、オレの心臓は勝手に拍を速めていった。
「で、だ」店主が、顔も上げずに口を開いた。「仮にうちが乗るとして、その品、品書きに何と載せる。『郊外の山羊飼いのチーズ』じゃ、客の目は素通りするぞ」
乗り気だ。質問が、もう仕入れた後の話になっている。オレはカウンターに半歩踏み込み、胸を張って答えた。
「『白ひげチーズ』。うちの名物として、酒の肴の看板にします」
「白ひげ?」
「バートンさん、髭が真っ白なので」
「安易な名前だな」
「安易な名前ほど、覚えられやすいものです♪」
オレは営業スマイルを全開にした。この笑顔だけは、意識せずとも完璧に出る。接客の声、というやつだ。中身がどれだけ冷や汗をかいていても、顔の筋肉だけは勝手に仕事を覚えている。誰に仕込まれた芸なのかは、考えないでおく。
店主はしばらく黙り込み、それからニヤリと笑った。
「――いいだろう。ミア、お前がそこまで言うなら」
「ありがとうございます! あと、シチューの件、本当にすみませんでした」
「あれはもう、いい。今回の件でチャラだ」
過去の失点まで、ついでに帳消しになった。
その日の午後、バートンの元へ話を持っていくと、老人は最初、状況が呑み込めない顔をしていた。牧草地には、昨日の戦闘の名残が残る地面から、乾いた土埃がかすかに舞っていた。
「――前借り? 儂に?」
バートンの声は掠れていた。皺の寄った目が、大きく見開かれる。
「はい。これで、ギルドへの借金は返せます」
オレは、店主から預かった前金の袋を差し出した。バートンはそれを受け取り、しばらく中身を見つめていた。手が、かすかに震えていた。革袋の口から覗く銀の輝きに、老人の視線が吸い寄せられている。
「儂は、もう、山羊を手放すしかないと思っていた」
「手放さなくて大丈夫です。これからは、チーズを卸してください。週に決まった分だけ」
「本当に、それで、いいのか」
「はい」
「儂の作るチーズなんぞ、店に出せるような代物か分からんぞ」
バートンが、自信なさげに袋を握りしめる。指の関節が白くなっていた。
「毛艶のいい山羊が作るチーズです。味は保証されてるようなものですよ」
「保証、な」バートンは小さく笑った。乾いた笑い方だった。「そんな言葉、久しく聞いてなかった気がする」
バートンの顔が、ゆっくりとほどけていった。眉間の皺が緩むのと、固く結ばれていた口元から力が抜けるのと、どちらが先とも言えない速さで、深く刻まれた皺の間から、長らく見せていなかったであろう笑みがじわりと滲み出てくる。目の縁には、薄く光るものが浮かんでいた。老人はそれを隠すように、袋を胸に抱え込んだ。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、オレの胸の奥で、何かが、すっと満ちた。温かい、とも違う。強いて言えば、空だった枡に、目に見えない何かが一目盛りぶん注がれたような感覚だった。この枡がどこにあって、何のために満ちていくのかは、分からないままだが。
――これが、たぶん「手応え」というやつだ。
人を楽しませる、あるいは救う、そのたびにこの感触が積み上がっていくのだとしたら。それは経験と呼ぶべきものなのか、それとも、もっと別の何かなのか。答えは出ないが、胸の中に積もっていく感覚だけは確かだった。
書類には書けない何かが、今、確かにここにあった。
セラが帳簿にペンを走らせながら、こちらを一瞥した。
「いい顔だったわね、今の」
「え?」
「バートンの顔よ。ああいう解決の仕方、嫌いじゃない」
「セラさん、慈善事業みたいなこと言いますね」
「慈善じゃない」セラはすぐに訂正した。「これは利益よ。店は独占の名物を安く仕入れて、バートンは生活の手段を取り戻して、うちはギルドから債権回収の完了報酬を貰う。全員が得をした。ただの、いい商談」
……全員が得をする解を、頑なに「利益」と呼び続ける。だが、その頑なさの継ぎ目から、奥にあるものがほんの一瞬だけ覗いた。損得勘定という言葉の鎧を着ているだけで、中身は案外、単純なものかもしれない。
ギルドに戻ると、依頼完了の報告と共に、解決手数料が支払われた。
「回収方法が独創的だったから、成功報酬に色をつけたわ」ドリスが微笑みながら告げる。「モンメリー一枚と二ピィ」
「え、そんなに?」
「強制執行より手間がかかった分、規定の加算があります」
セラが、何か四角い板を叩くような速さで数字を弾き出す。……四角い板? 何の話だ、それは。喩えの元が、自分でも分からなかった。「四人均等割りで、一人あたりピィ三枚」
昨日の赤字、ピィ三枚。今日の取り分、ピィ三枚。
「……差し引き、ちょうどゼロですね、これ」
「ゼロは黒字とは言わないけどね」セラが淡々と返す。「でも、赤字からは脱出したわ」
「地味に嬉しいです」
「地味な喜びを大事にしなさい。派手な喜びは、たいてい高くつく」
……名言なのか、単なる金の話なのか、判別がつかない。つかないなりに、今日の帳尻は気持ちのいい音を立てて合った。
夜、酒場のカウンターに立つ。あの「白ひげチーズ」は、これから毎週届く。バートンの山羊たちも、少しずつ牧草地の緑を取り戻していくだろう。
カウンターの向こうでは、ゴルドがいつもの調子で誰かに絡み、ドランが「いつもの」を静かに呷っている。今夜は、誰も財布を失くしていない。今のところは。
カウンターの端に開かれた仕込みの帳面には、店主の字で、もう新しい品名が一行、書き込まれていた。
どうやら、この仕事、思っていたより悪くないのかもしれない。