第4話 初仕事は赤字です
第4話 初仕事は赤字です
街道を外れたところで、道が靴に勝った。
右のかかとが土へ沈む。抜こうとすると、今度は左が沈む。胸を張れば立派な職業衣装も、畑の脇では、ただ前へ進みにくい服だった。
ゴルドは先を歩いている。アルトは何度も振り返り、そのたびに待ってくれた。待たれると急ぎたくなり、急ぐと靴が埋まる。
「脱いで歩けばどうですか」
「石があるから、やめた方がいい」
アルトが足元の小石を蹴り除けた。
「帰りに豆が潰れると、もっと痛いから」
妙に実感のある言い方だった。
セラが荷物から細い布を出した。足首を留める帯の内側へ挟み、擦れそうなところを覆う。
「今日はこれで。我慢できないなら言って」
「治療費がかかるからですか」
「帰りに担ぐと、全員の時間が掛かるから」
いろいろな損の数え方があるらしかった。
畑の間を抜けると、低い石垣の向こうに山羊が見えた。
白、茶、黒。地面を嗅ぐもの、杭を舐めるもの、何もせずにこちらを見るもの。耳が別々の方向を向いているせいで、全員が違う相談事を抱えているように見える。
小屋の前にいた老人が、オレたちに気づいて立ち上がった。
白い髭が胸まである。片手には修理中の桶。もう片方は腰へ当てていたが、四人を見ると静かに下ろした。
「ギルドからかね」
「はい。バートンさんですね」
セラが依頼書を出す。
老人は頷いた。驚きも反論もなく、桶を作業台へ置く。その丁寧さが、かえって嫌だった。いつ来るかと待ち続けていた人の動きだった。
「払えん、と届けたはずだが」
「被害の確認も含めて来ました。お話を聞かせてください」
バートンは、まず山羊を見た。
つられて見ると、小さな一頭が石垣へ前脚を掛けていた。向こうの草を食べたいのか、顔だけ外へ出している。
老人はその頭を押し戻した。それから、小屋の横を指した。
そこから先の牧草地には、ほとんど緑がなかった。
*
近づくと、ただ食べられたのではないと分かった。
土が浅く掘り返され、草の根が白く乾いている。柵の下には穴がいくつもあり、新しい木材の先端が、何かに噛み砕かれていた。
「借りた金は、この柵だ」
バートンが、まだ色の明るい支柱を叩いた。
「前の柵が腐って、山羊が出るようになってな。直せば安心だと思った。今度は、外から入ってきた」
セラはしゃがみ、穴の縁に残った毛をつまんだ。
「いつからですか」
「十日ほど前から増えた。最初は一、二匹だった。追うと逃げる。それで、たいしたことはないと思った」
ゴルドが柵をまたぎ、土を足で均した。少し離れた藪が、かすかに動く。
オレには風との違いが分からなかった。爺さんには分かったらしい。欠伸をしかけた口が閉じた。
「ホーンラビットだな」
名前を聞いた瞬間、短い角のついた丸い影が、頭のどこかを跳ねた。
弱い敵。
そういう言葉まで、一緒についてくる。
何と比べて弱いのか。誰がそう決めたのか。
確かめようとすると像は崩れた。残ったのは、ウサギなら何とかなりそうだという、ひどく頼りない感覚だけだった。
「乳の出も落ちてる。残った草じゃ足りん」
バートンの声に戻される。
「山羊を売れば、借りは返せる。だが……」
そこで言葉が止まった。
小屋の脇には、背の低い腰掛けがあった。桶を置いた跡が丸くつき、その前だけ地面が踏み固められている。毎朝、そこに座って乳を搾ってきたのだろう。
売れば、明日の朝からその椅子は要らなくなる。
「先に被害を止めましょう」
セラが立ち上がった。
「回収するにしても、担保まで傷むのは困ります」
「追加の金は出せんぞ」
「分かっています。まず、この仕事を終わらせられる状態にするんです」
ゴルドは上着の袖を折っていた。アルトは鞘ごと剣を腰から外し、柵の脇へ立てかける。
「抜かないんですか」
「狭いところで振ると、柵に当たるから」
アルトは代わりに、バートンから長い木の棒を借りた。
もっともらしい。実際、柵を壊したら借金が増える。ただ、剣を置いたあとの方が呼吸が楽そうなのは、気のせいではなかった。
「ミアは小屋の側に。近づいてきたら、戸を閉めて」
セラに言われ、オレは頷いた。
言われた通りにすればいい。
今日は、その約束で来たのだ。
ゴルドが藪へ小石を投げた。
茶色いものが二つ跳ねた。続いて三つ。最初に出た一匹は、猫より少し大きい。額から伸びた角が、斜めに陽を返した。
足元に落ちた硬い木の実が、踏まれて割れた。
ぱき、と小さな音がする。
思っていたより、ずっと速かった。
*
最初の一匹は、ゴルドの脇を抜けようとした。
爺さんの足が横へ動く。蹴り上げるのではなく、進むところに靴が置かれた。ウサギはそこで向きを変え、アルトの棒に追われて柵のない方へ走った。
「数、分かるか」
「こっちは四。奥に、まだ」
セラの声は平らだった。彼女の指先に淡い光が灯り、藪の陰を照らす。
魔法だ。
驚いている暇もなく、別の一匹が光から飛び出した。アルトが棒を構える。先端が震えていたが、逃げ道を狭める位置からは動かなかった。
オレは小屋の柱を掴んでいた。
戦いと呼ぶには、妙に地味だった。誰も大声で技の名を叫ばない。魔物が動き、三人が塞ぎ、少しずつ群れが開けた場所へ押し出されていく。
だから、隙間が見えてしまった。
一匹が、石垣へ回った。さっき小さな山羊が顔を出していたあたりだ。
アルトは反対を向いている。セラも藪を見ている。
オレのすぐそばには、空の飼料桶があった。
叩けば音がする。こっちを向かせるくらいなら、できる。
胸の奥で、誰かの言葉が引っかかった。
役に立たない。
その言葉を追い払いたくて、オレは柱から手を離した。
「こっち!」
桶を叩く。
ウサギが止まった。
こちらを見た。
向かってきた。
ここまでしか、考えていなかった。
後ろへ下がろうとして、かかとが土を噛む。腕でかばった桶に角が当たり、乾いた音がした。身体ごとよろけ、石垣の縁に二の腕を擦る。
次の跳躍が、すぐ目の前まで来ていた。
「伏せて!」
アルトの声だった。
オレは座り込むように落ちた。棒が頭の上を横切り、魔物の肩を押し返す。足元を蹴られ、脛に熱い筋が走った。
痛い、と思ったときには、ゴルドが横から踏み込んでいた。
拳が下りた。
土が跳ねた。
ウサギは動かなくなった。
オレは息を吸った。吸ったつもりで、うまく入らない。泥のついた手が、自分の腿の上で細かく震えている。
白い角の先に、血がついていた。
オレの血だった。
弱い敵。
頭に残っていたその言葉が、急に腹立たしくなった。
どこかで見たものが、ここで痛くない保証にはならない。今なら分かる。分かるには、少し遅かった。
「ミア、こっちを見て」
セラがしゃがんだ。
肩に手を掛けられ、反射で身を引く。彼女は手を止め、目が合うのを待った。
「腕と脚を見る。触るわよ」
オレは頷いた。
その間にも、向こうで棒が土を打っていた。ゴルドの短い声。アルトの返事。戦いは、オレが座り込んでも続いていた。
*
傷を洗う水が、一番しみた。
「痛っ、待って、そこ」
「泥を残すと、あとでもっと痛い」
セラの手は止まらなかった。止まらなかったが、次に水をかける前には必ずこちらを見る。その一拍で、歯を食いしばる準備ができた。
小屋の中の低い椅子に座り、脚を伸ばす。網タイツには縦に穴が開いていた。黒い糸と泥を、セラが慎重に避けていく。
「命に関わる傷じゃない。腱も無事。動かしてみて」
爪先を曲げる。
痛い。でも動いた。
それだけのことが嬉しかった。昨日は、自分の足が二本あるのを不思議に思っていたのに。
セラが指をかざすと、傷の周りがじんわり温かくなった。
血が止まる。引きつれていた皮膚が少しずつ緩み、呼吸するたびに響いていた痛みが遠ざかる。
見ていたかった。見ていると、さっき自分が何をしたかも見えてくるので、目を逸らしたくもあった。
「八ピィ」
「……え?」
「洗浄と薬、腕と脚の治療。あなたの分」
柔らかな光の向こうで、金額だけがくっきり聞こえた。
「今日の報酬、二十ピィでしたよね」
「回収が済めばね」
「四等分で、五ピィ」
「そう」
「三ピィ、足りません」
「よく計算できました」
褒める声ではなかった。
オレは両手で顔を覆った。冒険者になって初めて、自分で稼ぐ予定の金より、使った金の方が大きくなった。
まだ報酬を受け取ってさえいない。
「……すみません」
口にしてから、アルトもこんな気持ちなのだろうかと思った。
謝れば傷が戻るわけではない。でも、ほかに置く場所のないものがある。
「何をするつもりだったの」
「山羊の方へ行ったので。気を引けば、と思って」
「気を引いたあと、どこへ逃げるつもりだった?」
答えられなかった。
セラは薬瓶の栓を閉めた。
「次は、見えたことを教えて。勝手に一人増えた分まで、戦い方を変えるのは難しい」
役に立つな、と言われたわけではない。
何をすればよかったのかを、言われたのだ。
それでも頷くまでに、少し時間がかかった。
入口でアルトが、折れた棒を二本持っていた。
「これ、どこに置けば」
「薪にする。そこへ頼む」
バートンが答える。オレは、その棒の新しい折り口を見た。
「アルトさん、ごめんなさい」
「え、あ、いや。間に合ってよかった」
彼は棒を置き、手のひらをズボンで拭いた。こちらを見ずに言う。
「声をかけるのが、もう少し早ければよかったね」
「それは、アタシの方です」
二人で黙った。どちらも、相手に謝られると居心地が悪くなるらしい。
ゴルドが戸口へ顔を出した。
「残りも散った。柵の穴を塞ぐぞ」
オレは立とうとした。
セラの目が動く。
座り直した。
「……縄の切れ端を揃えるくらいなら」
「それならお願い」
手元へ束が置かれた。
短いものと、長いもの。結び直せるものと、傷んだもの。分けるだけの仕事だったが、オレは一つずつ確かめた。
外で必要な長さを呼ばれる。選んで渡す。アルトが受け取り、柵へ持っていく。
さっきより静かなやり方で、仕事の中に戻れた。
*
柵の下へ石を詰め、持ち込まれた巣材を片づけ終えるころには、陽が傾いていた。
バートンは山羊を一頭ずつ確かめていた。角の欠けた一頭が頬へ鼻を寄せると、低い声で何かを言い、その首を叩く。
追い払うための叩き方ではなかった。
セラが近づいたのに気づいて、老人の手が止まった。
「助かった」
「根が残った場所は戻ると思います。しばらく、山羊は外へ出さないで」
「ああ」
老人は頷いたあと、帽子を取った。
「だが、金は」
声が続かなかった。
セラは帳簿を開いていたが、すぐには何も書かなかった。
荒らすものを追い払っても、草が今日伸びるわけではない。乳も、売上も、財布の中身も、今すぐには戻らない。
オレは、自分の脚の包帯を見た。
治したから終わりになるものと、そうでないものがあるらしい。
「担保の確認をして、今日は持ち帰ります」
セラが言った。
「今夜、山羊は連れていかないのか」
「夕方までに戻る約束ですから。運搬の手配もしていません」
バートンの肩が、ほんの少し下がった。
猶予が延びただけだ。明日どうするかは、まだ決まっていない。
帰り支度をしていると、小屋から木の椀を四つ持ってきてくれた。薄く温めた山羊乳だった。
「代わりにはならんが、飲んでいってくれ」
受け取るのをためらうと、老人は「売り物にするには少ない」と言った。
オレは両手で椀を包んだ。ほのかな甘さの後ろに、青草の匂いがした。
壁の棚には、丸いチーズが幾つも並んでいる。表面が乾いたもの、小さな布に包まれたもの。その下へ、乳を濾す布が干してあった。
ゴルドが二杯目をねだりかけ、セラに椀を取り上げられた。
「一人一杯」
「美味いと言っただけだ」
「椀を差し出して言わなくても伝わるわ」
バートンが少し笑った。すぐに口元を隠したが、その笑いは、さっきまでの顔にはなかった。
棚のチーズへ、もう一度目を向ける。
まだ、ただの食べ物だった。
帰り道、ゴルドがオレの歩く速さに合わせて言った。
「どうだ。初めての仕事は」
「身体は治りました」
「そりゃよかった」
「財布に傷が残りました」
セラが前を向いたまま答えた。
「そちらの治療は、明日ね」