第5話 売るのは山羊じゃありません
第5話 売るのは山羊じゃありません
翌朝、店主は仕入れたチーズの端を切って、口へ放り込んだ。
しばらく噛む。
眉が寄る。
残りを皿へ戻し、黙ってパンを一切れ足した。
「しょっぱいんですか」
「しょっぱい」
「お酒は進みますね」
「先に水が進む」
オレは卓を拭く手を止めた。
昨日、山羊飼いの小屋で飲んだ乳は、少し甘かった。棚のチーズも、その乳から作ったものだろう。
味までは分からない。匂いが強いかもしれないし、この店の客には合わないかもしれない。
それでも、棚に置かれた丸いものを、昨日より具体的に想像できた。
「店のチーズって、全部同じところから買うんですか」
「今はな」
「ほかに美味しいのがあったら、変えます?」
店主はオレの手元を見た。
「同じ場所をそんなに磨くなら、先に用件を言え」
確かに、卓の隅だけが濡れて光っていた。
オレは布巾を畳んだ。
バートンの山羊のこと。荒らされた牧草地のこと。借金を返せず、山羊を売るかもしれないことを話す。
店主は最後まで聞いてから、腕を組んだ。
「可哀想だから買え、って話なら断るぞ」
口が止まった。
そういうつもりではない、と言いかける。でも、そういうつもりもあった。
老人が山羊へ触れる手を、忘れられなかった。あの椅子から、毎朝の仕事がなくなるのを見たくなかった。
それだけでは、店の金を出す理由にはならない。
「味を、見てもらえませんか」
「食ってからなら、話はできる」
店主はまな板へ向き直った。
「それと、お前の脚で何度も往復するな。昼には休め」
「もう、傷は塞がってます」
「疲れまで塞がった顔はしてない」
見抜かれると腹が立つほどではないが、逃げ場がなくて困る。
オレは、試食だけという約束を忘れないよう、紙の端に小さく書いた。
*
セラは話を聞くと、すぐに帳簿を開いた。
「チーズを、店へ?」
「山羊そのものを売ったら、次に売るものがなくなるでしょう。乳とか、チーズとか、毎週できるものを」
「現金になるまでに時間がかかる」
「そこなんですけど」
オレは昨夜から何度も並べ直した考えを、言葉にした。
「先に買う約束をして、お金を出してもらうことはできませんか。何回かに分けて、品物を届けるんです」
セラの指が止まった。
アルトが横で湯を注いでいる。誰もすぐには喋らなかった。その沈黙に耐えきれず、説明を足しそうになる。
セラは手帳に、六本の短い線を引いた。
「前払いね。店側が引き受ける危険がある。その分、値段か条件で得をしてもらわないと」
「やっぱり、難しいですか」
「まだ計算してる」
オレは口を閉じた。
「毎週五ピィ分を六回なら、三十ピィ。借金と同額。納品できる量があるか、店が引き受けるか、ギルドが返済方法を認めるか。確かめるのは三つ」
紙がこちらへ向けられた。
できない理由を並べられると思っていた。並んだのは、確かめる項目だった。
「じゃあ、試しても」
「押収して山羊を運び、売り先を探すより安ければ、その方がいいわ」
セラは茶を口へ近づけ、すぐに離した。
アルトが、しまったという顔をする。
「熱かった?」
「普通よ」
もう一度、近づける。
やはり飲まない。
ゴルドが何か言いかけたので、彼女は無言で羽根ペンを持ち替えた。爺さんは、自分の茶へ視線を落とした。
オレは、二人の間で何かの会話が終わったことだけを察した。
その日の午前、バートンの小屋を再び訪ねた。
老人は、空の荷車を連れていないことにまず気づいた。
「山羊は」
「今日は、チーズを見せてください」
オレが言うと、老人は眉を上げた。
棚の前では、さっきまでと別の人のようによく喋った。若いものは水気がある。置いたものは匂いが強い。布の湿らせ方を間違えると、表面が割れる。
話の途中で、山羊の鳴き声に耳を向ける。それから、ごく自然に続きを話す。
長く続けてきた仕事は、借金の紙に書かれるより、ずっと細かくできていた。
アルトが一切れ口にして、ゆっくり噛んだ。
「パンに載せてもよさそうですね」
「柔らかいうちなら、そのままがいい。固くなれば火にかける」
バートンが嬉しそうに答える。
ゴルドも手を伸ばした。
「俺も品質を見る」
セラは試食用の皿を動かした。
「今、三つ見たでしょう」
「ばらつきも確かめんとな」
「食欲にばらつきがないことは分かったわ」
老人の口元が緩んだ。その顔へ、納品量の話を持ちかける。
笑みが消えるかと思ったが、バートンは首を傾げ、棚を数えた。
「乳が戻るまでは、こっちの熟れた分を混ぜることになる」
「毎週、同じ味でないと困りますか」
「店がどう使うかだな」
分からないことが一つずつ、質問できる形になっていく。
オレは紙に書き留めた。指は字を書けるが、書く内容までは知っていない。そこは、人に聞くしかなかった。
*
午後、酒場のカウンターに、三種類のチーズが並んだ。
店主はまず、若いものをそのまま食べた。
次に固いものを薄く切った。
何も言わない。
オレは、顔を覗き込みたいのを我慢した。料理をする人の口が動いている間に返事を急かしてはいけない気がした。
店主はパンを切り、チーズを載せ、小さな鉄板へ置いた。
縁が焼ける匂いがした。白い表面がゆるみ、パンの穴へ少しずつ沈む。火から下ろして粗挽きの胡椒を振ると、オレの腹が鳴った。
「食ってみろ」
先に差し出されたのは、オレだった。
かじる。表面は熱く、下のパンはかりっとしていた。強いと思った匂いが、噛むと甘いものに変わる。飲み込んでも、まだ口の端に残っている。
「……もう一口ほしくなります」
「客には、その前に飲んでもらう」
店主はゴルドへ皿を渡した。
爺さんは一口で食べ、当たり前のように言った。
「酒」
「今日は水だ」
店主の答えは早かった。
セラは笑わず、皿の重さを確かめるように持ち上げた。
「一皿に使う量は、これくらい?」
「薄くしすぎると客が気づく。これよりは減らさん」
話が値段に移った。
店主は、前払いの三十ピィをすぐには認めなかった。
途中で病気になったら。山羊の乳が戻らなかったら。約束した味と違っていたら。
どれも、オレ一人では答えられない質問だった。
できる、大丈夫、たぶん、と言いそうになるたびに、アルトの「約束できないことは言わない方がいい」が頭に残った。
「明日、本人に来てもらっていいですか」
そう頼んだ。
「今、アタシが大丈夫だと言っても、作るのはバートンさんなので」
店主は一度だけ頷いた。
「そうしろ。味は買える。あとは、続けられるかだ」
その言葉を、オレは持ち帰る紙のいちばん上に書いた。
*
翌日の昼前、バートンは一番よい上着で店へ来た。
袖口は擦れていたが、きちんと繕われている。抱えた包みをカウンターへ置くと、そこに布の跡が四角く残った。
セラは、ギルドへ事前に相談した返済案を広げた。店が農家へ払う三十ピィを、その場でギルドへの返済に充てる。納品は、まず翌朝の分を一回目として六週間。
相場より三割安い単価で、毎週五ピィ分。値引きは前払いと継続購入の対価だ。
「量は、ここに書いた通り。乳の戻り具合に応じて、若いものと熟成したものを混ぜる。ただし傷んだ品は数えない」
セラの説明に、二人が頷く。
「天気で持ってこられん日は」
「前の日に知らせてくれ。黙って来ないのだけは困る」
店主が答えた。
バートンは帽子の縁を両手で握った。
「体を悪くしたら、隣の農家に運びを頼める。作る方は、寝込まんようにするしかないが」
「その場合は、こちらへ知らせてください。残っている品と乳量を確認して、納品日を調整します」
セラが書き添えた。
「その調整は、誰の仕事になる」
店主が聞く。
オレは手を挙げかけた。
セラがペンの軸で、そっと紙を叩いた。
「今回の契約成立までは私たち。それ以降の追加の仕事は、その都度、別に依頼を出してください」
オレは手を下ろした。
善意で頷けば、今日決めた金額の外へ、仕事だけが増えていくのか。
そこまで考えていなかった。
「さて」
店主が前払いの硬貨を出した。
バートンが見つめる。
山羊の値段ではない。まだ搾っていない乳と、これから作るチーズの値段だった。
「よろしく頼む」
店主が言い、老人が頭を下げた。
そのまま下がり続けそうな頭の前へ、オレは焼いたパンを置いた。
「あの、名前なんですけど」
「名前?」
「毎回『山羊乳のチーズを焼いたパン』って注文してもらうと、口が疲れますよね」
「客の口は、そのくらいじゃ疲れんぞ」
ゴルドが言った。
「運ぶ人の口が疲れるんです」
オレはバートンの髭を見た。
「白ひげチーズ、なんてどうですか」
老人が自分の髭に触れた。
「わしのか」
「ほかに、この場で立派な白ひげがないので」
「俺も白いぞ」
「ゴルドさんは、まずお代を払ってください」
店主が笑った。
アルトも、声を抑えて笑った。
バートンは髭を撫でたまま、目元をくしゃくしゃにした。
「それなら、髭も洗ってから搾らんとな」
「今までも洗ってください!」
笑いが、今度は老人の胸の底から出た。
オレの中で、何かがほどけた。
息が深く入る。足の裏が、ほんの少し軽い。昨日まで遠かった相手の顔が、急に近くにある。
疲れが消えたわけではない。脚にはまだ、傷を庇って歩いた重さが残っている。
それでも、何かを受け取ったようだった。
何を、と考えると逃げる。だから、今は笑っている顔を見ていた。
*
最初の納品は、翌朝だった。
オレたちは荷車を押すのを手伝い、店で品と量を確かめた。バートンは契約の写しを布で包み、濡れないよう懐へ入れていた。
ギルドには、返済金と受領証を先に納めてある。納品の確認を出せば、回収業務が完了する。
ドリスは一連の書類を読み、別の用紙を出した。
「契約変更による担保処分の回避ですね。追加報酬の対象になります」
「おいくら」
セラの反応が、普段より半拍早かった。
「十二ピィ。明朝、基本報酬の二十ピィと一緒にお受け取りください」
オレは指を折った。
追加の十二を四人で分けて、三。治療の不足分が、三。
「ゼロ」
声に出ていた。
ドリスが顔を上げる。
「アタシ、赤字じゃなくなるんです」
「それは、おめでとうございます」
受付嬢は、笑わずに言ってくれた。
ギルドを出ると、セラがこちらを見た。
「そんなに嬉しい?」
「はい。昨日まで、働いたらお金が減る人だったので」
「今日は、働いても増えない人ね」
「言い方で戻さないでください」
セラは手帳の角を指で揃えた。
「山羊を売らずに済んだのも、よかったですね」
「全額回収できて、追加報酬も出た。手間に見合っただけよ」
彼女はそう言ったが、追加報酬が出ると知る前に、納品日の相談までしていた。
指摘しようかと思った。
やめた。
そういうことにしておいた方が、この人は気楽に次も手を貸せるのかもしれない。
夜の店で、白ひげチーズを最初に頼んだのはドランだった。
熱いから気をつけて、と言い終わる前にかじり、口を開けたまま酒を探した。
「お水、お持ちします?」
「いや、いつもの!」
店主が、厨房からこちらを見た。
隣の卓からも、同じものを、と声が掛かった。運んでいくと、客は皿より先にドランの方を見ていた。
「あいつがあんな勢いで食うなら、美味いんだろう」
その男は、まだ味を知らない。
それでも注文は一つ増える。人が食べている顔も、店の看板になるらしい。
少しして、入口に近い卓から「白ひげって、作ってる爺さんが百歳なのか」という声が聞こえた。
「年は伺ってませんけど」
「じゃあ、百年もののチーズ?」
「今朝、届いたものです」
何かが評判になると、まず年を取るようだった。オレは皿を置き、ひとまず温かいうちにどうぞと勧めた。
噂がどこへ行くにしても、目の前のチーズが冷える前に食べてほしい。
オレはジョッキを持ち上げて、少しだけ笑った。
棚に並んでいたチーズが、ちゃんとこの店の注文になっていた。