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第4話 取り立てと山羊

第四話 取り立てと山羊

 街外れの牧草地は、思ったより荒れていた。

 柵は倒れ、地面のあちこちが掘り返され、草の生え際が不自然に禿げている。まるで、何かが暴れ回った後のようだった。

 街を出て小一時間。石畳が途切れて乾いた土の道に変わり、道端の家がまばらになって、しまいには風の音と鳥の声しか残らなくなった。丘の稜線に沿って延びる柵は、遠目には長閑なものだったのに、近づくほど倒れた箇所ばかりが目についた。乾いた草の匂いに、獣の体温がうっすら混ざった匂い。酒場の油と酒精に慣れた鼻には、それが妙に新しかった。

 歩き続けた足の裏には、都会の石畳とは違う疲れが溜まっていた。バニー衣装にローブという出で立ちで、こんな田舎道を延々と歩かされるとは、初めてこの身体に目覚めた朝には想像もしなかった。踵が土に沈むたび、膝から下が一段ずつ重くなる。

 道の途中、セラが依頼書を片手に、淡々と段取りを確認していた。「相手はバートンという名の山羊飼い。ギルドからの借入は資材費。滞納は三月分。取り立てとしては、極めて標準的な案件よ」

 「標準的、って言われると、逆に緊張しないんですけど」

 「緊張する必要はないわ。標準的な仕事は、標準的にこなせばいい」

 その口ぶりには、三歳で算盤を弾いていたという人間ならではの、迷いのなさがあった。

 「バートンさん、いらっしゃいますか」

 セラが小屋の戸を叩くと、しばらくして白髪の老人が姿を見せた。腰が曲がり、目の下には濃い隈がある。

 「……ああ、ギルドの人か。分かってる。金のことだろう」

 バートンは力なく笑った。

 「三月前、柵の材料費を借りた。返す当てはあった。あったんだが」

 老人が牧草地を指差す。

 「あれのせいで、全部駄目になった」

 その視線の先、遠くの草むらが、ガサガサと不自然に揺れていた。

 「何が、いるんですか」

 「ホーンラビット、ってやつだ。角の生えた兎でな。群れで来て、牧草を根こそぎ食い荒らす。山羊の餌がなくなって、乳も出なくなった。乳が出なきゃ、チーズも作れん。チーズが作れなきゃ、売る物がない」

 ……ホーンラビット。

 白い点の塊が、四角い枠の中でぴょこぴょこ跳ねている。額には灰色の一本角。粗い升目で刻まれた、玩具のような兎の像。

 像は、浮かんだ端から崩れた。今のは、何だ。知っているはずがない。この世界に来て初めて聞いた名前のはずだ。なのに単語が耳に届いた瞬間、頭のどこかが勝手に絵を差し出してきた。ドット絵、と呼びたくなる粗さだった。後に残ったのは「ああ、いつもの雑魚だ」という、妙に気の抜けた感触だけ。

 これも、あの「読める文字」と同じ種類の違和感なのか。知らないのに知っている。この世界には、そういう引っかかりがやたら多い。

 「金は返す。返すが、まず、あの兎をどうにかしないことには」

 バートンの声には、噓がなかった。困窮した人間特有の、乾いた諦めがある。

 セラが依頼書に目を落とす。「回収代行の依頼内容には、原因の除去も含まれてるわね。つまり――」

 「兎狩りも込みだ」ゴルドが拳を鳴らした。「望むところだ」

 「僕は、その、後ろで見てても……」アルトが小声で言いかける。

 「アルト」

 「はい、戦います」

 言い切る前にセラの声で撃墜された。手拭いが、また意味もなく畳み直される。

 牧草地の奥へ進むと、群れはすぐに見つかった。十数匹、額から一本ずつ角を生やした兎が、草を食い荒らしながらこちらを威嚇してくる。見た目は愛らしい。角がなければ、の話だが。白い毛並みに、額から真っ直ぐ伸びる灰色の角。遠目には愛玩動物のようにすら見えるのに、こちらを睨む赤い目だけが、明確な敵意を宿していた。

 兎に、バニー衣装で挑む遊び人。

 妙な取り合わせだと、オレは場違いにも思った。向こうも同じ兎顔をしているだけに、なおさら間抜けな構図に見える。喉の奥で、突っ込みの一言が勝手に節を刻もうとした。誰の節なのか。そこは、深追いしないでおく。

 「行くぞ」

 ゴルドが先陣を切った。拳が唸り、兎の一匹が吹き飛ぶ。魔法使いという肩書きが、殴打の音にかき消されていく。アルトは剣を抜いたものの、腰が引けたまま、迫ってくる兎から後退を続けていた。剣先は震え、切っ先がまったく定まらない。

 「あの……本当に、これで大丈夫なんでしょうか、この戦い方で……」

 「アルト、下がってないで前に出て」

 「は、はい、その、前に、出ます……」

 出ない。足だけが正直に後ろへ滑っている。

 オレは、その光景を見ながら、自分の胸の内で小さな決意を固めていた。ギルドで啖呵を切った手前、後ろで震えているだけというのも格好がつかない。それに、囮くらいはできると自分で言った。有言実行。四文字が浮かんだだけで、背筋が勝手に伸びた。誰に教わった言葉なのか、出どころより先に、姿勢のほうが覚えている。

 「――アタシも、行きます!」

 「待ちなさい」セラの声が飛んだが、身体はすでに前に出ていた。この身体、こういう時だけ判断が早い。判断が早いことと、判断が正しいことは、まったく別の話なのだが。

 結果から言うと、二秒だった。

 オレが前に出た瞬間、視界の端で三匹の兎が同時にこちらへ跳んだ。角が、思った以上に硬い。思った以上に速い。避けようとした足がもつれ、受け身も取れないまま、オレは地面に転がった。角が二の腕をかすめ、脛に一発、まともに角が刺さる。痛みが、遅れて追いついてくる。

 「痛だだだだだ!」

 悲鳴が上がる。素の女声だ。取り繕う余裕もない、正直な悲鳴だった。

 「だから待てと言ったのよ」

 セラが呆れた声で駆け寄ってくる。ゴルドが残りの兎を一匹ずつ確実に片付け、アルトが「す、すみません、僕がもっと早く前に……」と的外れな謝罪をしながら剣を鞘に収めた。

 戦闘そのものは、あっさり終わった。ゴルドの拳が優秀すぎて、群れは十数匹があっという間に数匹に減り、残りは尻尾を巻いて逃げていった。土埃と、踏み荒らされた草の匂いが、風に流されていく。牧草地には、静けさが戻った。

 小屋の陰から、バートンが顔を出した。真っ先に向かったのは、オレたちのところではなく、囲いの中の山羊たちだった。一頭ずつ首筋を撫で、耳の裏を掻いてやり、若い一頭の前脚を持ち上げて蹄まで検分する。腰の曲がった老人とは思えないほど、その手つきだけは迷いがなかった。

 「怪我は、ないな。……よかった」

 山羊に向けた声が、オレたちに向けた声より、ひとまわり柔らかい。飼っている、というより、暮らしを分け合っている。そういう距離の近さだった。

 問題は、オレの脛と二の腕だった。

 「見せて」

 セラがしゃがみ込み、傷を検分する。手つきは意外なほど丁寧だった。口調は、まったく丁寧ではなかったが。

 「馬鹿ね。前に出た意味、何かあった?」

 「い、いや、その、みんなの役に立とうと」

 「役に立ってない。むしろ手数が増えた」

 ……ぐうの音も出ない正論だった。

 セラが手をかざすと、傷口が淡く光を放ち、ゆっくりと塞がっていく。回復魔法だ。効果は確かだった。手を抜いた気配は、まるでない。

 「治療完了。じゃ、清算するわね」

 「せ、清算?」

 「今回の依頼報酬は、ギルドから固定でモンメリー二枚。四人で均等割りだから、あんたの取り分はピィ五枚」

 「は、はい」

 「そこから、治療費、ピィ八枚を引く」

 「――え?」

 「五から八は引けないわ。三枚、足が出る」セラが指を三本立てる。「あんた、今日、働いた結果、ピィ三枚の赤字よ」

 「赤字!?」

 「初仕事で赤字を出す遊び人、なかなかいないわ。ある意味、才能ね」

 「褒めてないですよね、それ!」

 「褒めてない」

 オレは頭を抱えた。せっかく交渉して勝ち取った四分の一の取り分が、初日で消え、なお足が出た。うなだれた首の角度に、覚えがある。数字の並んだ紙を前に、同じ角度で固まっていた誰かの肩。その像が浮かびかけて、輪郭を結ぶ前に途切れた。初日から赤字。書き出しとしては、なかなかの負けっぷりだ。

 夕暮れの光が、荒れた牧草地を斜めに染めていた。倒れた柵の影が地面に長く伸び、掘り返された土の凹みの一つひとつに小さな翳りが溜まって、昼には気づかなかった荒れの深さを浮かび上がらせている。風が冷え始め、汗の引いた首筋がすっと冷えた。そのぶん、二の腕に残る治療の熱が、かえってはっきり感じられた。バートンが、申し訳なさそうにこちらを見ていた。

 「その……嬢ちゃんが怪我をしたのは、儂のせいでもある。すまなかった」

 「いえ、これは自業自得というか」

 「それにしても、借りた金は、まだ返せそうにない。すまん」

 バートンの肩が落ちる。牧草地は静かになったが、山羊の乳がすぐに戻るわけではない。借金は消えていない。ただ、その原因だけが取り除かれた。

 セラが牧草地を見渡しながら、顎に手を当てた。

 「強制執行なら、山羊を売り払えば済む話だけど」

 「それは駄目です!」オレは思わず声を上げた。「バートンさん、山羊を大事にしてるじゃないですか」

 バートンの目が、山羊たちに向く。数頭の山羊が、暢気に草を食んでいる。傷ついた牧草地の、わずかに残った緑を分け合うように。

 「儂には、あいつらしかいないんでな」

 その一言に、何かが引っかかった。誰も得しない解決策を、当たり前のように選ぼうとする世界の仕組み。強制執行すれば、ギルドは金を回収でき、セラの帳簿も帳尻が合う。だが、バートンは全てを失う。

 「セラさん、他に方法、ないですか」

 セラは、しばらく無言だった。帳簿をめくる指の動きが、いつもより少しだけ遅い。

 「――今日はもう遅い。考える時間はあげる」

 その言葉に、突き放したような響きはなかった。むしろ、何かを検討し始めている顔だった。オレはその横顔を、少しだけ意外な気持ちで見つめた。

 夕暮れの牧草地を、四人で引き上げる。オレの脛には、まだ治療の余韻でうっすらとした熱が残っていた。

 「今日、赤字だったの、根に持ってます?」

 「持ってない。持ってないけど、二度目はないようにね」

 「善処します」

 「善処、って言葉、信用してない顔してるわよ、私」

 ……バレていた。

 帰り道は、来た時より長く感じられた。農家の窓に一つ、また一つと灯りがともり、どこかの囲いで山羊だか羊だかの鳴く声が、夕闇に薄く溶けていく。街の灯りが遠くに見え始めた頃、あの四角い枠の中の白い点が、もう一度だけ頭の隅に浮かびかけて、輪郭を結ぶ前に散った。

 仮説その一。前世(仮)でよほど似た敵と戦ったか、戦う様を眺めた記憶がある。仮説その二。「角の生えた兎」という絵柄が、どの世界でもありふれているだけ。仮説その三。疲れた頭が、昼間の痛みと関係のない何かを勝手に貼り合わせている。三つ並べて、どれも決め手に欠けることだけが分かった。検証のしようがない。輪郭のない記憶を検証するには、輪郭そのものが要る。

 脛の傷は、もう塞がっていた。それでも、角が刺さった瞬間の硬い衝撃だけは、皮膚の下にまだ居座っている。今日一日で、オレは「前に出る」ということの意味を、身体の側から思い知らされた形になる。勇ましさと無謀は、紙一重どころか、たぶん同じ紙の裏表だ。

 赤字そのものより、堪えたのは順番だった。前に出ると決めた時、頭の中に損得は一度も浮かばなかった。浮かばないまま跳んで、転がって、治療費を引かれて、それから初めて数字が追いついてきた。セラなら、跳ぶ前に数える。オレは、跳んでから数えた。この差は、経験の差というより、生き方の癖の差だろう。癖なら直せるのか。直せるとして、直したいのか。……そこはまだ、自分でも決めかねている。

 初仕事の稼ぎは、差し引きでピィ三枚の足が出た。懐は軽く、脛は熱い。それが、遊び人ミアの初日の決算だった。

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