◀ もくじ 第3話
表示
文字サイズ
背景

第3話 書類は人柄を問わない

第三話 書類は人柄を問わない

 朝、宿の食堂で出されたパンは石のように硬かった。齧るというより、削るという表現の方が正確だった。それでも空腹には勝てず、オレはスープに浸してふやかしながら食べた。噛むというより、溶かして流し込む。この宿のパンに関しては、それが正しい攻略法らしい。

 食堂の隅では、クルルが窓の外からじっとこちらを覗いていた。今朝の瞼は、七分目くらいの開き具合だ。景気の物差しとしては、平常、ということなのだろう。

 「今日はギルドに行く」セラが淡々と言う。「ミアも一緒に」

 「あの、ミアって、呼び捨てでいいんですか」

 「同僚に敬称はつけない主義よ」

 ……いつの間にか同僚になっている。

 朝の街を四人で歩く。ゴルドは相変わらず陽気で、アルトは相変わらず手拭いを畳んでいる。歩きながら、街の名前をようやく知った。看板の一つに『ハイベル自治区へようこそ』とあり、読めるのに字形は初見だった。

 ハイベル、か。オレの住む街の名前が、こうして事後的に判明していく。

 ギルドの建物は、街で一番大きな石造りだった。入り口の看板には『灰鷲ギルド ハイベル支部』とある。灰色の鷲が羽を広げた紋章が彫られていた。石段は多くの靴底に磨かれてつるりと光り、扉の取っ手は握られ続けた形にへこんでいる。何十年、何百人がこの扉をくぐってきたのか、考えるだけで気が遠くなりそうな年季だった。

 中に入ると、まず目に入ったのは壁一面の掲示板だった。無数の依頼書が、羊皮紙で貼り重ねられている。討伐、護衛、荷運び、迷子探し。羊皮紙の匂いとインクの匂い、それに大勢の人間が出入りする建物特有の、埃と汗の混じった匂いが、天井の高い空間に満ちていた。

 カウンターの向こうでは、数人の受付係が忙しく紙をめくり、奥では鎧姿の冒険者たちが列をなして順番を待っている。剣を担いだ者、大きな盾を背負った者、杖を携えた者。装備も年齢もばらばらな面々が、同じ建物の中で朝の依頼を物色していた。

 その雑多な紙の中に、二枚だけ、明らかに古びた色をした紙があった。

 『魔王討伐 常設 達成者なし』

 『古竜討伐 常設 高額報酬 達成者なし』

 ……常設。達成者なし。

 この二枚だけ、周りの依頼書とは違う年季の入り方をしていた。何年、いや何十年、貼られたままなのだろう。誰もそれを剥がそうとしない。誰も、それについて驚いた顔をしていない。

 ――魔王討伐、常設。

 その言葉の重みに反して、周囲の冒険者たちはまるで気にする様子もなく、朝の依頼を物色している。「魔王」という単語が、天気予報くらいの温度で扱われている。それが一番、オレには薄気味悪かった。倒されていないということは、まだいる、ということだ。まだいるのに、誰も慌てていない。

 倒しても、また出てくるものなのか。それとも、そもそも、誰も本気で倒す気がないのか。

 考えかけたところで、セラに肩を叩かれた。

 「見学は後。まず、あんたの登録」

 カウンターの向こうに、丸眼鏡をかけた受付嬢が座っていた。ドリス、と胸の名札にある。彼女は手慣れた様子で羊皮紙を差し出した。

 「はい、こちらに記入をお願いします。お名前、種族、職業――」

 オレはペンを取った。手は迷わず動く。名前の欄に「ミア」。種族の欄に「人間」。そして、職業の欄で、手が止まった。

 ……何て書くんだ、これ。

 止まったのは意識だけで、手はすでに書き終えていた。

 『遊び人』

 ドリスの表情筋が、ほんの一瞬だけ迷子になった。すぐに営業用の微笑みへ戻る。

 「……遊び人、ですね。承知しました」

 「あの、これ、他に書きようがなくて」

 「大丈夫ですよ。書類は、あなたが何をできるかを問いません。書いてある通りに処理するだけですので」

 ……書類は人柄を問わない。ドリスの声には、その一言が骨身に染みついた響きがあった。何百枚、何千枚と、この台詞を口にしてきた顔だ。

 「では次に、服装の確認です」

 「え、服装?」

 「ギルド登録時の姿が、そのまま職業証に記録されます。えー、そちらの装いは……正装、で間違いないですか」

 オレは自分のローブの前を、無意識に強く押さえた。中はもちろん、バニー衣装だ。

 「せ、正装というか、これは、職場の制服で」

 「職業が『遊び人』の場合、接客時の衣装がそのまま正装扱いになります。前例があります」

 「前例あるんですか!?」

 「三年前にも似たような登録がありました」

 ……知らない先人がいる。名も知らぬ誰かの遊び人が、この街にはいたらしい。オレはその人に、心の中で敬礼した。

 「では、ローブを外していただいて、証の絵姿を」

 「え、ここでですか!?」

 「奥に衝立がございますので」

 衝立の裏でローブを脱ぎ、証のための絵姿を描かれる間、オレはずっと羞恥心と戦っていた。身体の方は妙に堂々としていて、その落差がまた腹立たしい。

 証明書を受け取ると、そこには確かに『職業:遊び人』の文字と、バニー姿の簡素な似顔絵が刻まれていた。

 「これ、一生残るやつですか」

 「ギルドの記録は基本的に半永久です」

 「勘弁してください」

 ドリスは表情を変えずに次の書類を出した。「では、パーティー加入の書類にも署名を。ゴルドさん、セラさん、アルトさんの連署も必要です」

 三人がそれぞれの欄に署名していく。ゴルドの字は勢いだけで角が丸い。セラの字は定規で引いたように正確だ。アルトの字は震えながらも、最後まで書き切っている。

 オレの署名欄には、既に昨夜の書類からの写しと思われる小さな印がついていた。「本人同意済み」の一文と共に。

 「同意した覚え、ないんですけど」

 「今、書類上は同意していることになっています」セラが横から涼しい顔で言う。「今、聞いた、と同じ理屈よ」

 「その理屈、便利すぎません!?」

 ……セラの理論武装は、いつも一手先を行っている。

 登録が終わると、ドリスが次の話を切り出した。

 「では、報酬の分配方法について。臨時加入の方の日当ですが」

 「ピィ二枚で」セラが即答した。

 「安すぎません!?」

 「前例に倣ったのよ。前の臨時四人目もその額で」

 「その人と同じ働きをする保証、どこにあるんですか!」

 オレは自分でも驚くほど強い声を出していた。素の女声だ。怒りに近い、まっすぐな声。

 「働きの保証がないから、安いのよ」セラが眉一つ動かさず返す。「保証がある仕事に高い金は出ない。保証がないから、安く済ませられる。当然の理屈」

 「その理屈、ひどくないですか!?」

 「ひどいけど、正しい」

 ゴルドが感心したように頷いた。「セラの言うことは、たいてい、ひどくて正しい」

 「慰めになってません」

 オレは深呼吸をした。ここで退くわけにはいかない。前世(仮)の誰かも、たぶんこういう交渉の場数だけは踏んでいる。理由は分からないが、そういう手応えがあった。

 「じゃあ、こうしませんか」オレは指を一本立てた。「固定額じゃなくて、依頼報酬の四分の一。パーティーが四人なら、四人で均等に割る。それだけです」

 セラの眉が、わずかに動いた。

 「均等割りは、危険も均等に負う前提の話よ。あんたは前に出ないんでしょう」

 「前に出なくても、後ろで気配りするのも仕事のうちです。危ない時に囮になるくらいはできます」

 ……言ってから、自分の発言に自分でぎょっとした。囮。それは、つまり、危険な役目を自分から買って出るということだ。オレは戦えない。なのに、口が勝手に、なぜかそういう約束をしていた。

 セラはしばらくオレを見つめていた。値踏みする目だ。それから、ふっと息を吐いた。

 「――いいわ。四分の一。ただし、装備の消耗費と治療費は、あんたの取り分から天引きね」

 「治療費!?」

 「怪我するのが前提の交渉、あんたがしたんでしょう」

 ……自分で切った啖呵が、自分に刺さった。

 「セラさん、そういうところ、ちゃんと計算してくるの、逆にすごいです」

 「褒めてる?」

 「若干、恨みを込めて褒めてます」

 ゴルドが、カウンターに肘をついて、しみじみと口を挟んだ。

 「セラは昔から、こういう勘定になると容赦がないんだ。三歳で算盤、五歳で帳簿、七歳で取り立てをやってたって話、聞いたことあるか」

 「取り立て、七歳で!?」

 「泣くまでは利息を半分にしてあげてた、とか言ってたな。優しさの基準が独特でな」

 「泣いても半分取るところが、もう十分厳しくないですか」

 「利息は利息でしょう」セラが横から、眉一つ動かさずに言った。「情に流されて利息をゼロにする方が、長い目で見れば相手を甘やかすだけ。半分取るのは、私なりの慈悲よ」

 「慈悲の定義がおかしいです」

 「おかしくない。ちゃんと筋が通ってる」

 ……このやり取りだけで、セラという人間の輪郭が、また一枚、厚みを増した気がした。

 ドリスが微笑ましそうにその様子を眺めていた。「よろしければ、掲示板から初回の依頼を選びますか。四人パーティーになった今なら、これまでより選べる幅が広がります」

 掲示板の前で、セラが早速目を光らせる。討伐、護衛、荷運び。金額と難易度を、頭の中でものすごい速さで計算しているのが分かった。

 その途中、一枚の依頼書に、セラの指が止まった。

 「債権回収の代行、ね。悪くないわ」

 「債権回収?」

 「街外れの山羊飼いが、ギルドから借りた資材費を滞納してる。取り立てるだけの簡単な仕事よ」

 ……取り立て。ついさっき聞いたばかりの、セラの十八番だ。

 「決まりね。明日、行くわよ」

 オレたちは依頼書を手に、ギルドを後にした。

 その道すがら、すっと胃の底が冷えた。店主だ。金を取りに出たまま、まだ帰っていない。

 「あ、店主に報告しないと。おっかない顔されそうです」

 酒場に戻ると、案の定、店主は仁王立ちで待っていた。

 「ミア、遅い。心配したんだぞ」

 「す、すみません、いろいろあって」

 オレは事情を説明した。パーティーの四人目になったこと、昼間はギルドの仕事をすること。店主は腕を組んで、しばらく黙っていた。

 「……まあ、いいか」

 「いいんですか!?」

 「お前が有名なパーティーの一員になったって話が広まりゃ、うちの宣伝にもなる。昼はギルド、夜はこっち。両方やれ」

 「体力持ちますかね、これ」

 「若いんだから何とかなる」

 ……何とかなる、で片付けられる案件だろうか。だが、他に選択肢もない。オレは頷いた。

 夜、いつも通りの忙しさで店が回り始めた。ドランが「いつもの」を頼み、別の客がシチューを注文し、オレは今日も間を縫って動き回った。以前と違うのは、この忙しさの合間に、ローブの下の内ポケットへ意識が向く瞬間があることだった。そこには一枚の証が収まっている。バニー姿の似顔絵と『遊び人』の文字が、半永久的に記録として残る。勲章のようでもあり、末代までの恥さらしのようでもある。判断は保留にした。

 カウンターを磨く。布の下で、古い木目が鈍く光る。書類の職業欄には「遊び人」とだけ書かれている。そこには、機転も、交渉も、誰かを起こす一言も、何も書かれていない。書類は、オレの人柄を、まるで問わない。

 ――だったら、書類に書けないものは、どこで測られるんだろう。

 答えは出ない。出ないまま、オレはグラスを磨き続けた。

 明日から、忙しくなる。それだけは、書類のどこにも書いていないのに、確かだった。

SHARE THIS EPISODE

この話を共有する

Xで共有