第2話 お代を取りに来ただけなんですが
第2話 お代を取りに来ただけなんですが
返事は、ひときわ長い鼾だった。
爺さんは顔の向きを変え、頬の下へ手を差し入れた。もう片方の手が腰のあたりをひと撫でしてから、カウンターへ戻る。
払う気配はない。寝心地をよくする気はあるらしい。
「ミア、もっと大きな声で呼べ」
店主に言われ、息を吸いかけたところで、オレは爺さんの腰へ目を戻した。
今、何を確かめた?
昼間、剣を下げた客が椅子へ座るときも、似たところへ手をやっていた。
この人は酔っている。ずいぶん気持ちよく眠ってもいる。でも、眠ったあとまで忘れていないことが、一つくらいあるらしい。
身体は、そういうことをする。
今日一日、それに振り回されたオレが言うのだから、たぶん間違いない。
椅子の真後ろを避けて、横から少し屈む。逃げる場所だけ先に確かめた。声を張る代わりに、耳へ届くくらいの小ささで言う。
「後ろ、取られてますよ」
鼾が切れた。
爺さんの足が床を踏む。椅子は動かなかった。動いたのは上半身だけで、さっきまで潰れていた目が、オレの肩越しを真っすぐに見た。
一歩、下がっていた。
下がってから、自分が息を止めていたことに気づく。
爺さんは誰もいない通路と、オレと、店主を順番に見た。それから目尻をくしゃっと折った。
「……そっちか」
「お勘定です♪」
声の明るさに、膝の震えが追いつかなかった。
「ぶわはは! 上手いこと起こすな、嬢ちゃん!」
「起きていただけて、何よりです」
何がそんなに可笑しいのか、爺さんは腹を押さえて笑った。その手が上がり、ぽん、とオレの肩を叩く。
そこまでは、まだよかった。
手が背中を滑り、腰で止まらなかった。
「ちょっと!」
叩き落とすと、爺さんは自分の手を不思議そうに眺めた。
「歳を取ると、手は意思を持つ。俺じゃない、手だ」
「じゃあ、その手だけお帰りいただけます?」
「本体が困る」
「つながってる自覚はあるんですね」
爺さんが、まあまあ、と両手を上げる。
その片方が下りる途中で、胸元へ向きを変えた。
「なんでやねん! どこ触っとるねん!」
手首を払う音がして、爺さんの指が空を掴んだ。
オレは、口を押さえた。
今のは。
喉のずっと底から、別の声が出た。
高くも、軽くもなかった。乱暴で、妙に馴染んだ節回し。言い終わってから、胸の奥に響きだけが残っている。
白い明かりの下で、薄い袋が指に食い込んでいた。
冷えた弁当。鍵穴にうまく入らない鍵。部屋の中からは、何の音もしない。
袋を机に置く。上着も脱がずに座る。
あほくさ。
誰もいない部屋で、誰かがそう言った。
笑っていたのかもしれない。笑わないと、ほかに顔の作りようがなかったのかもしれない。
机の手前の縁を、親指で何度も擦っている。塗装の剥げた同じ場所を。
「嬢ちゃん?」
唇の上に、自分の指があった。
爺さんが覗き込んでいた。後ろで店主も、瓶を持ったまま止まっている。
「今のは、どこの言葉だ」
「……分かりません」
「自分で言ったんだろう」
そうだ。
自分で言った。そこが、いちばん困る。
咳払いをした。喉は痛くない。指を当てても、特別なものは触れない。
「失礼しました。少し、大きな声を」
戻った。
それで安心したことに、また戸惑った。今朝は、この女の声に驚いていたはずなのに。
「声の大きさは構わんぞ」
「手の置き場所は構ってください」
店主が爺さんの前へ、勘定の札を置いた。
「十二ピィ。今夜はもう終わりだ」
「分かっとる」
爺さんは胸を張って腰へ手をやった。
空を握った。
その姿勢で、しばらく止まった。
「……こっちだったか」
反対側も空だった。
今度は上着の内側を探る。袖を振る。椅子から下り、座面を確かめる。さっきまで見事に据わっていた目が、足元を忙しく往復した。
オレもつられて床を見た。椅子の下には木屑と、片づけ損ねたパンの欠片しかない。
爺さんは最後にもう一度、最初の場所へ手を戻した。
財布が気を利かせて帰ってくることは、なかった。
「ないな」
なぜか、他人の失敗を見届けたような声だった。
「その落ち着き、少し早くないですか」
「マルヴァに、留めるベルトを変えろと言われてたんだがな。聞き流した俺の負けだ」
マルヴァ。
名前に、何かが引っかかった。
――効かせる女。
言葉だけだった。顔も、場所もない。今、誰かが言ったのかと思って店主を見たが、店主は勘定の札を睨んでいる。
「誰ですか、その人」
「嫁だ」
「今夜、一緒に来てないから嫌な予感はしたんだ」
店主が大きく息を吐く。
「前に手を出したとき、灰皿を投げられたろう」
「あれは避けた」
「自慢するところじゃないですよ」
「嫁にもそう言われた」
会ったことのない奥さんと、初めて意見が一致した。
*
結局、宿まで金を取りに行くことになった。
爺さん一人では、途中でまた別の店に入る。本人がそう認めたので、話が早かった。
オレが嫌な顔をすると、店主は道順を紙の裏に書き、勘定札と一緒に渡した。
「大通りを真っすぐだ。路地には入るな。宿の女将に声をかけてから上がれ。面倒になったら、回収は明日でいい」
「最初から明日でもいいのでは」
「今夜のうちなら、まだこいつが覚えてる」
隣で爺さんが頷いている。
頷いていないで、覚えていてくれ。
ローブの前をきっちり閉じる。店主は爺さんへ、布巾を絞る手を止めずに言った。
「この子に手を出したら、次から水しか出さんぞ」
爺さんの顔が、その晩初めて真剣になった。
夜風は、思ったより冷たかった。
爺さんはゴルドと名乗った。こちらの名を尋ねられ、ミアです、と答える。朝、野菜売りの女に教えてもらった名前を、自分の口から人に渡す。不思議な感じだった。
「で、ゴルドさんは、戦士か何かなんですか」
「魔法使いだ」
オレは腕を見た。
「ちゃんと学院も出とる」
「魔法の?」
「ほかに何の学院がある」
殴る方の、とは言わずにおいた。
「ただ、近くなら殴った方が早い。長い呪文を唱えとる間に、相手が来るからな」
「勉強した意味は」
「遠くの奴も殴れるようになった」
魔法を覚えたというより、腕が伸びたつもりらしい。
話していても、ゴルドの歩幅は変わらない。道の凹みに差しかかると、こちらの靴を一度見て、ほんの少し遅くなる。
気遣いなのか、酒が回っただけなのか。
礼を言うほどの確信がなくて、オレは同じ速さで歩いた。
屋根の間に星が見えた。明るい三つを無意識に結び、その横にあるはずの一つを探す。
なかった。
どんな形を探していたのかさえ、次の瞬間には分からなくなった。
「あそこだ」
ゴルドが指さした軒先に、山羊の絵の看板が下がっていた。
『居眠り山羊亭』。
その下で、本物の山羊が寝ていた。
「クルルだ。客が増えると、安心して瞼が下がる。景気を見るには、こいつが一番でな」
宿の窓は半分以上、暗かった。
「今、目を閉じてますけど」
「景気がいいんだろう」
入口の机にいた女将が、針仕事から顔を上げた。
「いいんなら、あんたら明日の分も先に払っとくれ」
ゴルドは聞こえなかったふりで階段を指した。
山羊の信用が、さっそく失われた。
*
部屋には、起きて待っている二人がいた。
一人は机に向かう若い女。帳簿の角を机の角に揃え、羽根ペンを持っている。耳の上にも、もう一本。指の側面に乾いたインクがついていた。
もう一人は寝台の端に座った青年で、膝に置いた手拭いを折り直していた。綺麗に畳めているのに、端を開き、また合わせる。
「ゴルドさん、遅……」
青年の言葉が、オレを見て止まる。
女の視線も上がった。
「女連れ?」
「違う」
「では、ご用件を」
こちらには丁寧だった。その切り替えの早さに、つい背筋を伸ばす。
「『陽気な冒険者』のミアです。お代をいただきに来ました」
勘定札を差し出す。
女は札を読み、ゴルドを見た。
「財布は」
「ない」
ペンが机に置かれた。
軽い音だった。なのにゴルドの肩が上がった。
「十二ピィ。モンメリー一枚と二ピィね。今月の食費に取っておいた二十四ピィの、ちょうど半分」
女は勘定札を帳簿の横へ揃えた。
「半月分の食事を、一晩で飲んだの」
「腹は減っとる」
「結果も残らなかったわけね」
モンメリー。
金額より、その音が耳に残った。
もんめ。
違う。そう聞こえただけだ。けれど、頭の中では勝手に別の単位へ直そうとしている。一枚でいくら。何をいくつ買える。
丸い硬貨の真ん中に、穴が開いていた気がする。紙に書かれた「円」という字も浮かぶ。でも、ここにある金とつなぐ数字が、どこにもない。
女が小さな引き出しを開けた。
硬貨が六枚。彼女は数えずに閉めた。
「残りは明日の宿代。それを払ったら終わり」
「……お代は?」
「今夜は出せない。ごめんなさい」
そこは、言い逃れをしなかった。
だからといって、納得できる話ではない。
「オレ……じゃなくて、アタシ、取りに来たんですけど」
「分かってる。私はセラ。支払いの話は私にして。そっちにしても、財布が増えることはないから」
「ある場所を思い出すかもしれんぞ」
「では、思い出すまで黙ってて」
青年が椅子を一つ持ってきた。ゴルドから離れた、机の反対側へ置いてくれる。
「すみません。とりあえず、座ってください。僕はアルトです」
立ち上がった拍子に、腰の剣が寝台の角へ当たった。
「あ、ごめん」
寝台に謝った。
本人も気づいたらしく、困った顔で手拭いを握り直す。
衝撃で剣が少し抜けかけたらしく、彼は慌てて鍔を押さえ、鞘へ収めた。一瞬見えた刃は灯りを細く返していたのに、柄の革だけは黒く擦れている。
「アルトさんは、剣士ですか」
「勇者を、その、やっています」
すごい人が出てきた。
そう思って見直した青年は、オレの椅子が傾いていないか、脚の下を気にしていた。
「勇者って、やるものなんですか」
「名乗るものよ」
セラが代わりに答えた。
「そう、名乗る、です。すみません」
ますます、何がすごいのか分からなくなった。
ローブの裾を押さえて腰を下ろそうとしたとき、後ろから手が伸びた。
腰に届く前に、叩いた。
同じ場所へ、セラの羽根ペンの柄が当たっていた。
ぱちん、と一つの音がした。
「……今、同時でした?」
「そうね」
セラは帳簿をめくった。
「今月七件目。累計、モンメリー十四枚」
「何の金額ですか」
「この人の罰金。一件につき二枚。奥さんに送るの」
オレはゴルドの手と、机の引き出しを見比べた。
「お金、ないのに?」
「だから借りも増えるの」
「俺の稼ぎが、俺を通らず嫁に届く」
「途中で失くさなくていいですね」
セラが少しだけ口元を緩めた。
仲良くなれそうな気もしたが、未払いの勘定札はまだ机にあった。
*
「明日、仕事を取るわ」
セラは別の紙を引き寄せた。
「その報酬から、酒場へ払う。店主さんには、私の名前で書いた支払約束を持って帰って」
「仕事はあるんですか」
「ある。ただ、三人では受けられないものが多い」
紙の上には、名前を書く枠が四つあった。
嫌な形をしていた。
「ギルドの規約で、まともな依頼は四人以上。三人だと、丸一日働いても宿代に足りない仕事が回ってくる」
「もう一人、雇えば……」
セラがこちらを見た。
アルトも見た。
ゴルドは、ようやく良いことを思いついたという顔をした。
「帰ります」
「まだ何も言ってないわ」
「言われる前に帰ろうと思ったんです」
セラは、立ち上がりかけたオレの前へ勘定札を動かした。
「臨時で一日。人数を揃えるのを手伝って。酒場の払いを片づけるには、それが早い」
「アタシ、遊び人ですよ。戦えません」
口に出してから、その言葉がずしりと重くなった。
昼間、爺さんにもそう言われた。冗談だと思いたかった部分まで、自分で認めたようだった。
「魔法も?」
「……使い方を、知りません」
「なら使える前提では数えない。荷物持ちも、無理に頼むつもりはないわ」
「じゃあ、何をすれば」
「そこにいること」
あまりにも簡単に言うので、オレは少し黙った。
セラは紙の空欄を指した。
「書類は人柄を問わないの。まず人数。何ができるかは、依頼を選ぶときに考える」
便利な頭数だと言われている。
それは分かる。分かるのに、何もできないと伝えたあとも、椅子を引かれなかったことが妙に引っかかった。
「危険なことは、僕らがします」
アルトが、手拭いを膝へ置いた。
「僕も、できれば得意な人がやればいいと思うんですけど」
「アルト」
「はい。いないから、僕が行くんだよね」
「分かってるなら結構」
繰り返し練習している会話らしかった。
「あの、本当に、戦わなくて大丈夫だと思います。たぶん」
「その最後の一言だけ、どうにかなりませんか」
アルトは口を開き、閉じた。
謝罪を一つ、飲み込んだ顔だった。
「……約束できないことは、言わない方がいいと思って」
オレはこの青年を、もう一度見た。
頼りない。しかし、頼もしそうなふりはしないらしい。
ゴルドが傍らへ来た。
「嬢ちゃん。さっきの起こし方、あれはよかったぞ。ああいう機転が利く奴は助かる」
「自分の勘定で寝た人に言われても」
「縁ってのは突然来る。来たら掴むしかない」
言葉と一緒に、手が伸びる。
励ますために肩へ来るかと思ったら、肘の位置が低かった。
オレとセラは、同時にその手を打ち落とした。
「十六枚」
「掴むものを間違えてますよ!」
この人の話だけは、良い話になりかけたところで一度疑った方がよさそうだった。
「前に雇った四人目も、ほとんど動かないうちに終わったわ」
セラは何事もなかったように話を戻した。
「たぶん、すごい人だったんでしょうね」
「今からでも、その人に頼めませんか」
「もう街にいない」
「ちなみに、おいくらで」
「一日二ピィ」
酒場の客が、昼に勘定を置いていく光景が浮かんだ。小さな硬貨を二枚。通りの屋台でも、その数で湯気の立つ椀を渡していた。
「それ、スープ一杯では」
「ええ」
「すごい人が、ずいぶん安いですね」
「値段を決めるときは、まだすごいか分からなかったもの」
聞いてからでよかった。
少なくとも、明日の朝は、そこから聞こう。
オレは机の空欄を見た。帰っても、店主には回収できなかったと言うしかない。明日もう一度来ても、引き出しの中身が増えるとは思えない。
この三人と一日働く。
どう考えても面倒だ。けれど、話を終わらせるために座っていた椅子に、いつの間にか深く腰を下ろしている。
「一日だけ、ですよ」
セラが頷く。
「店には、朝、話をします。駄目だと言われたら無理です。それから、日当は別に相談させてください」
「いいわ。今夜は仮の名簿だけ。正式な登録は明日、ギルドで」
ペンを受け取る。
名前の書き方は分からなかった。
なのに、先端を紙に置くと線がつながった。曲がって、跳ねて、最後に短い払いをつける。ミア、と読める字がそこにある。
朝は人に呼ばれて知った名前を、夜には自分で書いている。
紙を押さえる左手が、少し汗ばんでいた。
「ほう。いい字だ」
ゴルドが背後から覗き込んだ。その手が、ローブの隙間へ寄ってくる。
右手にペンを持っていたので、今度は左手で払った。
セラも逆側から柄を当てていた。
「十八枚」
彼女は罰金の帳簿へ一本、線を足した。
「三回とも合ったわね」
「合わせようとはしてないんですけど」
「うちに向いてるかもしれない」
「もっと別のことで判断してください」
アルトが差し出した布で、指のインクを拭いた。膝に置いていた手拭いとは別の、清潔な小さな布だった。
セラは支払約束を書き、日付の下に署名した。紙を乾かしてから二つに折り、勘定札と一緒にオレへ渡す。
オレの名前がある方の紙は、机に残った。
今朝から、声が四種類ある。
笑って注文を取る声。腹が立つと出る声。慌てて取り繕う声。それから、誰もいない部屋を連れてくる低い声。
どれで返事をしても、この三人にはミアという一人の女が答えたことになる。
自分でもまだ分からない人間を、ずいぶん簡単に仲間の欄へ書くものだ。
「では、明日の朝。四人目、よろしく」
セラが帳簿を閉じた。
オレは立ち上がり、空っぽの手を一度見てから、折った紙をローブの内側へしまった。
「お代を取りに来ただけなんですが」
「回収の見込みは立ったわ」
「代わりにアタシが回収されてません?」