本文へスキップ
◀ もくじ 第2話
表示
文字サイズ
背景

第2話 お代を取りに来ただけなんですが

第2話 お代を取りに来ただけなんですが

 返事は、ひときわ長い鼾だった。

 爺さんは顔の向きを変え、頬の下へ手を差し入れた。もう片方の手が腰のあたりをひと撫でしてから、カウンターへ戻る。

 払う気配はない。寝心地をよくする気はあるらしい。

「ミア、もっと大きな声で呼べ」

 店主に言われ、息を吸いかけたところで、オレは爺さんの腰へ目を戻した。

 今、何を確かめた?

 昼間、剣を下げた客が椅子へ座るときも、似たところへ手をやっていた。

 この人は酔っている。ずいぶん気持ちよく眠ってもいる。でも、眠ったあとまで忘れていないことが、一つくらいあるらしい。

 身体は、そういうことをする。

 今日一日、それに振り回されたオレが言うのだから、たぶん間違いない。

 椅子の真後ろを避けて、横から少し屈む。逃げる場所だけ先に確かめた。声を張る代わりに、耳へ届くくらいの小ささで言う。

「後ろ、取られてますよ」

 鼾が切れた。

 爺さんの足が床を踏む。椅子は動かなかった。動いたのは上半身だけで、さっきまで潰れていた目が、オレの肩越しを真っすぐに見た。

 一歩、下がっていた。

 下がってから、自分が息を止めていたことに気づく。

 爺さんは誰もいない通路と、オレと、店主を順番に見た。それから目尻をくしゃっと折った。

「……そっちか」

「お勘定です♪」

 声の明るさに、膝の震えが追いつかなかった。

「ぶわはは! 上手いこと起こすな、嬢ちゃん!」

「起きていただけて、何よりです」

 何がそんなに可笑しいのか、爺さんは腹を押さえて笑った。その手が上がり、ぽん、とオレの肩を叩く。

 そこまでは、まだよかった。

 手が背中を滑り、腰で止まらなかった。

「ちょっと!」

 叩き落とすと、爺さんは自分の手を不思議そうに眺めた。

「歳を取ると、手は意思を持つ。俺じゃない、手だ」

「じゃあ、その手だけお帰りいただけます?」

「本体が困る」

「つながってる自覚はあるんですね」

 爺さんが、まあまあ、と両手を上げる。

 その片方が下りる途中で、胸元へ向きを変えた。

「なんでやねん! どこ触っとるねん!」

 手首を払う音がして、爺さんの指が空を掴んだ。

 オレは、口を押さえた。

 今のは。

 喉のずっと底から、別の声が出た。

 高くも、軽くもなかった。乱暴で、妙に馴染んだ節回し。言い終わってから、胸の奥に響きだけが残っている。

 白い明かりの下で、薄い袋が指に食い込んでいた。

 冷えた弁当。鍵穴にうまく入らない鍵。部屋の中からは、何の音もしない。

 袋を机に置く。上着も脱がずに座る。

 あほくさ。

 誰もいない部屋で、誰かがそう言った。

 笑っていたのかもしれない。笑わないと、ほかに顔の作りようがなかったのかもしれない。

 机の手前の縁を、親指で何度も擦っている。塗装の剥げた同じ場所を。

「嬢ちゃん?」

 唇の上に、自分の指があった。

 爺さんが覗き込んでいた。後ろで店主も、瓶を持ったまま止まっている。

「今のは、どこの言葉だ」

「……分かりません」

「自分で言ったんだろう」

 そうだ。

 自分で言った。そこが、いちばん困る。

 咳払いをした。喉は痛くない。指を当てても、特別なものは触れない。

「失礼しました。少し、大きな声を」

 戻った。

 それで安心したことに、また戸惑った。今朝は、この女の声に驚いていたはずなのに。

「声の大きさは構わんぞ」

「手の置き場所は構ってください」

 店主が爺さんの前へ、勘定の札を置いた。

「十二ピィ。今夜はもう終わりだ」

「分かっとる」

 爺さんは胸を張って腰へ手をやった。

 空を握った。

 その姿勢で、しばらく止まった。

「……こっちだったか」

 反対側も空だった。

 今度は上着の内側を探る。袖を振る。椅子から下り、座面を確かめる。さっきまで見事に据わっていた目が、足元を忙しく往復した。

 オレもつられて床を見た。椅子の下には木屑と、片づけ損ねたパンの欠片しかない。

 爺さんは最後にもう一度、最初の場所へ手を戻した。

 財布が気を利かせて帰ってくることは、なかった。

「ないな」

 なぜか、他人の失敗を見届けたような声だった。

「その落ち着き、少し早くないですか」

「マルヴァに、留めるベルトを変えろと言われてたんだがな。聞き流した俺の負けだ」

 マルヴァ。

 名前に、何かが引っかかった。

 ――効かせる女。

 言葉だけだった。顔も、場所もない。今、誰かが言ったのかと思って店主を見たが、店主は勘定の札を睨んでいる。

「誰ですか、その人」

「嫁だ」

「今夜、一緒に来てないから嫌な予感はしたんだ」

 店主が大きく息を吐く。

「前に手を出したとき、灰皿を投げられたろう」

「あれは避けた」

「自慢するところじゃないですよ」

「嫁にもそう言われた」

 会ったことのない奥さんと、初めて意見が一致した。

     *

 結局、宿まで金を取りに行くことになった。

 爺さん一人では、途中でまた別の店に入る。本人がそう認めたので、話が早かった。

 オレが嫌な顔をすると、店主は道順を紙の裏に書き、勘定札と一緒に渡した。

「大通りを真っすぐだ。路地には入るな。宿の女将に声をかけてから上がれ。面倒になったら、回収は明日でいい」

「最初から明日でもいいのでは」

「今夜のうちなら、まだこいつが覚えてる」

 隣で爺さんが頷いている。

 頷いていないで、覚えていてくれ。

 ローブの前をきっちり閉じる。店主は爺さんへ、布巾を絞る手を止めずに言った。

「この子に手を出したら、次から水しか出さんぞ」

 爺さんの顔が、その晩初めて真剣になった。

 夜風は、思ったより冷たかった。

 爺さんはゴルドと名乗った。こちらの名を尋ねられ、ミアです、と答える。朝、野菜売りの女に教えてもらった名前を、自分の口から人に渡す。不思議な感じだった。

「で、ゴルドさんは、戦士か何かなんですか」

「魔法使いだ」

 オレは腕を見た。

「ちゃんと学院も出とる」

「魔法の?」

「ほかに何の学院がある」

 殴る方の、とは言わずにおいた。

「ただ、近くなら殴った方が早い。長い呪文を唱えとる間に、相手が来るからな」

「勉強した意味は」

「遠くの奴も殴れるようになった」

 魔法を覚えたというより、腕が伸びたつもりらしい。

 話していても、ゴルドの歩幅は変わらない。道の凹みに差しかかると、こちらの靴を一度見て、ほんの少し遅くなる。

 気遣いなのか、酒が回っただけなのか。

 礼を言うほどの確信がなくて、オレは同じ速さで歩いた。

 屋根の間に星が見えた。明るい三つを無意識に結び、その横にあるはずの一つを探す。

 なかった。

 どんな形を探していたのかさえ、次の瞬間には分からなくなった。

「あそこだ」

 ゴルドが指さした軒先に、山羊の絵の看板が下がっていた。

 『居眠り山羊亭』。

 その下で、本物の山羊が寝ていた。

「クルルだ。客が増えると、安心して瞼が下がる。景気を見るには、こいつが一番でな」

 宿の窓は半分以上、暗かった。

「今、目を閉じてますけど」

「景気がいいんだろう」

 入口の机にいた女将が、針仕事から顔を上げた。

「いいんなら、あんたら明日の分も先に払っとくれ」

 ゴルドは聞こえなかったふりで階段を指した。

 山羊の信用が、さっそく失われた。

     *

 部屋には、起きて待っている二人がいた。

 一人は机に向かう若い女。帳簿の角を机の角に揃え、羽根ペンを持っている。耳の上にも、もう一本。指の側面に乾いたインクがついていた。

 もう一人は寝台の端に座った青年で、膝に置いた手拭いを折り直していた。綺麗に畳めているのに、端を開き、また合わせる。

「ゴルドさん、遅……」

 青年の言葉が、オレを見て止まる。

 女の視線も上がった。

「女連れ?」

「違う」

「では、ご用件を」

 こちらには丁寧だった。その切り替えの早さに、つい背筋を伸ばす。

「『陽気な冒険者』のミアです。お代をいただきに来ました」

 勘定札を差し出す。

 女は札を読み、ゴルドを見た。

「財布は」

「ない」

 ペンが机に置かれた。

 軽い音だった。なのにゴルドの肩が上がった。

「十二ピィ。モンメリー一枚と二ピィね。今月の食費に取っておいた二十四ピィの、ちょうど半分」

 女は勘定札を帳簿の横へ揃えた。

「半月分の食事を、一晩で飲んだの」

「腹は減っとる」

「結果も残らなかったわけね」

 モンメリー。

 金額より、その音が耳に残った。

 もんめ。

 違う。そう聞こえただけだ。けれど、頭の中では勝手に別の単位へ直そうとしている。一枚でいくら。何をいくつ買える。

 丸い硬貨の真ん中に、穴が開いていた気がする。紙に書かれた「円」という字も浮かぶ。でも、ここにある金とつなぐ数字が、どこにもない。

 女が小さな引き出しを開けた。

 硬貨が六枚。彼女は数えずに閉めた。

「残りは明日の宿代。それを払ったら終わり」

「……お代は?」

「今夜は出せない。ごめんなさい」

 そこは、言い逃れをしなかった。

 だからといって、納得できる話ではない。

「オレ……じゃなくて、アタシ、取りに来たんですけど」

「分かってる。私はセラ。支払いの話は私にして。そっちにしても、財布が増えることはないから」

「ある場所を思い出すかもしれんぞ」

「では、思い出すまで黙ってて」

 青年が椅子を一つ持ってきた。ゴルドから離れた、机の反対側へ置いてくれる。

「すみません。とりあえず、座ってください。僕はアルトです」

 立ち上がった拍子に、腰の剣が寝台の角へ当たった。

「あ、ごめん」

 寝台に謝った。

 本人も気づいたらしく、困った顔で手拭いを握り直す。

 衝撃で剣が少し抜けかけたらしく、彼は慌てて鍔を押さえ、鞘へ収めた。一瞬見えた刃は灯りを細く返していたのに、柄の革だけは黒く擦れている。

「アルトさんは、剣士ですか」

「勇者を、その、やっています」

 すごい人が出てきた。

 そう思って見直した青年は、オレの椅子が傾いていないか、脚の下を気にしていた。

「勇者って、やるものなんですか」

「名乗るものよ」

 セラが代わりに答えた。

「そう、名乗る、です。すみません」

 ますます、何がすごいのか分からなくなった。

 ローブの裾を押さえて腰を下ろそうとしたとき、後ろから手が伸びた。

 腰に届く前に、叩いた。

 同じ場所へ、セラの羽根ペンの柄が当たっていた。

 ぱちん、と一つの音がした。

「……今、同時でした?」

「そうね」

 セラは帳簿をめくった。

「今月七件目。累計、モンメリー十四枚」

「何の金額ですか」

「この人の罰金。一件につき二枚。奥さんに送るの」

 オレはゴルドの手と、机の引き出しを見比べた。

「お金、ないのに?」

「だから借りも増えるの」

「俺の稼ぎが、俺を通らず嫁に届く」

「途中で失くさなくていいですね」

 セラが少しだけ口元を緩めた。

 仲良くなれそうな気もしたが、未払いの勘定札はまだ机にあった。

     *

「明日、仕事を取るわ」

 セラは別の紙を引き寄せた。

「その報酬から、酒場へ払う。店主さんには、私の名前で書いた支払約束を持って帰って」

「仕事はあるんですか」

「ある。ただ、三人では受けられないものが多い」

 紙の上には、名前を書く枠が四つあった。

 嫌な形をしていた。

「ギルドの規約で、まともな依頼は四人以上。三人だと、丸一日働いても宿代に足りない仕事が回ってくる」

「もう一人、雇えば……」

 セラがこちらを見た。

 アルトも見た。

 ゴルドは、ようやく良いことを思いついたという顔をした。

「帰ります」

「まだ何も言ってないわ」

「言われる前に帰ろうと思ったんです」

 セラは、立ち上がりかけたオレの前へ勘定札を動かした。

「臨時で一日。人数を揃えるのを手伝って。酒場の払いを片づけるには、それが早い」

「アタシ、遊び人ですよ。戦えません」

 口に出してから、その言葉がずしりと重くなった。

 昼間、爺さんにもそう言われた。冗談だと思いたかった部分まで、自分で認めたようだった。

「魔法も?」

「……使い方を、知りません」

「なら使える前提では数えない。荷物持ちも、無理に頼むつもりはないわ」

「じゃあ、何をすれば」

「そこにいること」

 あまりにも簡単に言うので、オレは少し黙った。

 セラは紙の空欄を指した。

「書類は人柄を問わないの。まず人数。何ができるかは、依頼を選ぶときに考える」

 便利な頭数だと言われている。

 それは分かる。分かるのに、何もできないと伝えたあとも、椅子を引かれなかったことが妙に引っかかった。

「危険なことは、僕らがします」

 アルトが、手拭いを膝へ置いた。

「僕も、できれば得意な人がやればいいと思うんですけど」

「アルト」

「はい。いないから、僕が行くんだよね」

「分かってるなら結構」

 繰り返し練習している会話らしかった。

「あの、本当に、戦わなくて大丈夫だと思います。たぶん」

「その最後の一言だけ、どうにかなりませんか」

 アルトは口を開き、閉じた。

 謝罪を一つ、飲み込んだ顔だった。

「……約束できないことは、言わない方がいいと思って」

 オレはこの青年を、もう一度見た。

 頼りない。しかし、頼もしそうなふりはしないらしい。

 ゴルドが傍らへ来た。

「嬢ちゃん。さっきの起こし方、あれはよかったぞ。ああいう機転が利く奴は助かる」

「自分の勘定で寝た人に言われても」

「縁ってのは突然来る。来たら掴むしかない」

 言葉と一緒に、手が伸びる。

 励ますために肩へ来るかと思ったら、肘の位置が低かった。

 オレとセラは、同時にその手を打ち落とした。

「十六枚」

「掴むものを間違えてますよ!」

 この人の話だけは、良い話になりかけたところで一度疑った方がよさそうだった。

「前に雇った四人目も、ほとんど動かないうちに終わったわ」

 セラは何事もなかったように話を戻した。

「たぶん、すごい人だったんでしょうね」

「今からでも、その人に頼めませんか」

「もう街にいない」

「ちなみに、おいくらで」

「一日二ピィ」

 酒場の客が、昼に勘定を置いていく光景が浮かんだ。小さな硬貨を二枚。通りの屋台でも、その数で湯気の立つ椀を渡していた。

「それ、スープ一杯では」

「ええ」

「すごい人が、ずいぶん安いですね」

「値段を決めるときは、まだすごいか分からなかったもの」

 聞いてからでよかった。

 少なくとも、明日の朝は、そこから聞こう。

 オレは机の空欄を見た。帰っても、店主には回収できなかったと言うしかない。明日もう一度来ても、引き出しの中身が増えるとは思えない。

 この三人と一日働く。

 どう考えても面倒だ。けれど、話を終わらせるために座っていた椅子に、いつの間にか深く腰を下ろしている。

「一日だけ、ですよ」

 セラが頷く。

「店には、朝、話をします。駄目だと言われたら無理です。それから、日当は別に相談させてください」

「いいわ。今夜は仮の名簿だけ。正式な登録は明日、ギルドで」

 ペンを受け取る。

 名前の書き方は分からなかった。

 なのに、先端を紙に置くと線がつながった。曲がって、跳ねて、最後に短い払いをつける。ミア、と読める字がそこにある。

 朝は人に呼ばれて知った名前を、夜には自分で書いている。

 紙を押さえる左手が、少し汗ばんでいた。

「ほう。いい字だ」

 ゴルドが背後から覗き込んだ。その手が、ローブの隙間へ寄ってくる。

 右手にペンを持っていたので、今度は左手で払った。

 セラも逆側から柄を当てていた。

「十八枚」

 彼女は罰金の帳簿へ一本、線を足した。

「三回とも合ったわね」

「合わせようとはしてないんですけど」

「うちに向いてるかもしれない」

「もっと別のことで判断してください」

 アルトが差し出した布で、指のインクを拭いた。膝に置いていた手拭いとは別の、清潔な小さな布だった。

 セラは支払約束を書き、日付の下に署名した。紙を乾かしてから二つに折り、勘定札と一緒にオレへ渡す。

 オレの名前がある方の紙は、机に残った。

 今朝から、声が四種類ある。

 笑って注文を取る声。腹が立つと出る声。慌てて取り繕う声。それから、誰もいない部屋を連れてくる低い声。

 どれで返事をしても、この三人にはミアという一人の女が答えたことになる。

 自分でもまだ分からない人間を、ずいぶん簡単に仲間の欄へ書くものだ。

「では、明日の朝。四人目、よろしく」

 セラが帳簿を閉じた。

 オレは立ち上がり、空っぽの手を一度見てから、折った紙をローブの内側へしまった。

「お代を取りに来ただけなんですが」

「回収の見込みは立ったわ」

「代わりにアタシが回収されてません?」

SHARE THIS EPISODE

この話を共有する

Xで共有