第2話 どうやら四人目だ
第二話 どうやら四人目だ
寝た。
カウンターに突っ伏した爺さんの背中から、豪快ないびきが立ち上っている。長く吸って、短く吐く。ある種の音楽性すら感じる寝息だった。客たちはとっくに興味を失い、三人ほどは、いびきの拍子に合わせて杯を傾け始めている。人は驚くほど早く飽き、飽きた先からそれを娯楽にする。人類、たくましい。
店主が小声で言った。「ミア、どうする」
どうするって言われても。
オレは選択肢を並べた。一、揺り起こす。この体格に反射で殴られたら、遊び人はそこで終わる。二、水をかける。店が水浸しになり、店主の視線が一生痛い。三、放置する。隣の客がもう、あからさまに顔をしかめている。四、うまく起こす。
四番だな。消去法である。消去法で物事を決める癖には、なぜか覚えがあった。前世(仮)の誰かも、たぶんそうやって生きてきた。
オレには戦う力がない。魔法も使えない。だが口はある。この身体は接客のプロだ。人を動かす言葉くらい、身体のどこかが覚えているはずだった。
カウンターに屈み、爺さんの耳元に囁く。
「――後ろ、取られてますよ」
一瞬の静止。
次の瞬間、爺さんの目がかっと開いた。鋭い、と思ったのは半秒だけで、すぐにいつもの陽気な皺顔に戻る。
「……ほう。やるじゃないか、嬢ちゃん」
起き上がった爺さんを、オレは初めてまともに見た。白髪交じりの短髪、眉の上の古い傷、節くれだった指、黒ずんだ爪。何十年も武器を握り、人を殴ってきた手だとひと目で分かる。物を大事に持ち歩くのに向いた手かどうかは、また別の話だが。
「お勘定、お願いできますか♪」
愛想笑いは、今度は意識して作った。シチュー事件で勝手に出た「アタシ」とは違う。今、口を動かしているのは、自分の意思のはずだ。
爺さんは腹を抱えて笑い出した。
「ぶわはは! やられた。起こすために『後ろ取られた』とほのめかすとはな。遊び人にしちゃ、いい機転だ」
頷きながら、爺さんの手がオレの肩に乗る。ぽん、ぽんと励ますように叩き、それから自然な流れで肩から背中へ、背中から腰へ、腰からさらに下方へ――。
パシンッ。
手は、叩き落とされていた。
「ちょっと、何さわってるんですか!」
女の声で出た。声量も怒気もそれなりに乗っている。素の反射、といったところだろう。
「いやなに、嬢ちゃん。手が勝手に動いてな。歳を取ると、手は意思を持つ。俺じゃない、手だ」
「責任を手に押しつけないでください!」
言いながら視線で追った右手が、また説明する身振りでゆっくりと持ち上がり、下が駄目なら上、と軌道を修正していく。指先が、どさくさに紛れて胸のふくらみのほうへ、あと指一本分――。
考えるより先に、口が動いていた。
「――なんでやねん! どこ触っとるねん!」
パシン、と頭を叩く。叩く、というより、しばく、と書くべき勢いだった。指先は、届く寸前で止まっている。触れられる前に、声と手が出ていた。低い声。男の声だ。聞き覚えのある節回しだが、自分の口から出る予定の音では、断じてなかった。
脳の奥で、何かが、ちらりと開いた。
蛍光灯の白い光。コンビニの袋を片手に、誰もいない部屋に帰る誰かの背中。小さく吐き捨てる声。「あほくさ」「やってられんわ」「ほな、寝るか」。冴えない部屋、冴えないテンション。それでも声だけは、妙に威勢がいい。
あれは、誰の声だったか。オレ、だったのか。
「嬢ちゃん、今の訛りは何だ。聞いたことのない喋りだったぞ」
爺さんの呑気な声に、現実に引き戻される。
「……知らない。覚えがない」
開きかけた脳の奥の窓を、急いで閉める。中を覗くのは、まだ怖い。
咳払いをひとつ。足りなくてもうひとつ。声を女の高さに戻す。
「……失礼しました。お客様の前で、はしたない口調を」
「変わり身が早いな」
「変わり身も接客のうちですので♪」
店主がカウンターの内側から低く言った。「先に言っとくべきだった。爺さん、酒が入ると手が出るんだ。普段は嫁さんが見張ってるが、今夜は不在でな」
「先に教えてください!」
爺さんがニヤリと笑う。「嫁には『次は手首を折る』と言われてる。これでも頻度は控えめな方だ」
「控えめって、基準の回数があるってことじゃないですか!」
「そうだ」
「正直すぎませんかこのジジイ!」
……また「ジジイ」が出た。女の声のまま、語気だけがじりじり荒れていく。
「で、勘定だったな」爺さんが懐に手を入れた。話を逸らす技術だけは年季が入っている。
……探っている。まだ、探っている。
笑みが、ゆっくり消えていく。
「あれ? ない」
「えっ」
「ないな。今朝、嫁が『そっちのベルトじゃない』と言っていた気がする。聞き流したのはこっちだ。聞き流した俺の負けだ」
家庭内の責任の所在まで、自分で片付けてしまう男だった。
爺さんは別の懐、腰の革袋、袖口、靴の中まで確認し、最後には自分の髭をかき分けて中を覗いた。確信、動揺、再確認、絶望、最後になぜか他人事の顔。財布を失くすたびの、慣れた五段階だった。
「ない。完全に。マルヴァの言うことを聞いておくべきだった」
マルヴァ。
その名前を耳にした瞬間、頭の奥で、何かがちりっと疼いた。
――効かせる女。
輪郭だけの記憶が、一瞬だけ浮かんで、すぐにまた霧の中へ消えていく。誰の言葉だったのか、いつ聞いたのかも、分からない。
「法則化しないでください」
「すまん」
店主が青くなる。「今日いくら飲んだか分かってんのか、あんた」
「完全に俺の落ち度だ」
軽く頭を下げる爺さん。慣れた、薄い下げ方だった。
店主が指の間から呻きを漏らし、やがてオレを見た。
「ミア。爺さんと宿まで行って、金を取ってこい」
……アタシが?
「気をつけろよ。さっきの『手』、夜道だと加速するらしいからな」
「先に断ってもいいですよね、これ!?」
「断ったら、店の払いはどうする」
……正論で殴られた。
「すまんな」爺さんが申し訳なさそうに笑う。「一人で行かせると信用ならんと思うんだろう。当然だ。俺が雇い主でも、自分を信用しない」
自己評価だけは、恐ろしく正確だった。
オレはローブを羽織り、夜道へと出た。
夜の街は静かだった。石畳の上を、爺さんと半歩開けて並んで歩く。半歩でも違う。
夜空には星が散っていた。並びが、知らない並びだった。当然か。……いや、また「別の世界」だと決めつけかけている。脳みそは油断すると、すぐに結論に飛びつきたがる。
「本職は、実は魔法使いってことになっててな」爺さんが言った。
「えっ、見えない」
「だろう。魔法を唱えるより殴った方が早いと気づいた頃には、学院を卒業していた」
「気づくの遅すぎません?」
「殴られると、敵はこっちが何の職業だか考えなくなる。便利だ」
魔法使いの売り文句として、何かが根本から間違っている。
この爺さん――ゴルド、と名乗った――と歩きながら、もう一つ確信した。安酒の匂い、上機嫌な声の張り、間合いを詰めてくる肩の角度。この取り合わせに、鼻と耳が先に構えている。前世(仮)の誰かは、こういう手合いを、別の街の別の灯りの下でさんざん見てきたのだろう。
やがて、一軒の宿に着いた。看板の文字は、今夜も読めるのに形は初見だった。『居眠り山羊亭』。看板の下、玄関脇の囲いの中で、白と茶のまだら模様の山羊が一頭、瞼を半分閉じてまどろんでいる。
「看板山羊のクルルだ。客が増えると瞼が下がる。景気の物差しには、これが一番でな」
クルルの瞼は今、完全に下がっていた。だが宿の周りは閑散としている。物差しというものは、時々嘘をつく。
奥の部屋の扉をゴルドが開けると、声が飛んできた。
「ゴルドさん、遅すぎます」
部屋には二人いた。机には帳簿が三冊、高さきっちり揃って積まれている。羽根ペンは長さの順。ベッドの足元には、柄だけ黒光りして刀身は鏡のように磨かれた剣が立てかけてあった。
一人は気弱そうな青年だった。膝の上に、意味もなく畳み直された手拭いが乗っている。もう一人は帳簿を睨む若い女で、耳の上にもう一本、羽根ペンを挟んでいた。
「あら、女連れ? マルヴァ姐さんに言いつけましょうか」
「セラ、待ってくれ。せめて一晩、心の準備を」
「猶予はモンメリーで買うものよ。払えるの?」
「払えん」
「じゃ、即時実行ね」
支払い能力で猶予が決まる世界だった。
「それより勘定の話が先だ」ゴルドが目を逸らす。「その、今日はちょっと、財布が」
「は?」
「ない」
羽根ペンが机に置かれる。コトン、という一音でゴルドの背筋が伸びた。
セラが帳簿の右ページを指で叩く。「酒場の払い、ピィで?」
「十二枚くらい……」
「モンメリー換算で一枚と二ピィ。今月の食費が二枚と四枚だから、きっちり半月分を、一晩で液体に変えたわけね」
モンメリー。妙に喉に引っかかる響きだった。「もんめ」と、聞こえなくもない。誰の耳が、その音を覚えているのか。換算先があったはずだ。何かに換算するための単位が。「円」と書く何か、だった気がする。だが、掛けても割っても答えが出てこない。
「セラ、まあ落ち着いて」青年が慌てて立ち上がる。「お茶でも」
「アルト、黙ってて」
「うん……。あの、じゃあお水でも……」
「黙るの意味、もう一度教える?」
「す、すみません……」
オレは三人を順に見比べた。気弱の権化と、損益計算の権化と、その真ん中で家庭内処分を受ける陽気な爺さん。
セラの視線がオレに移った。一秒で頭から爪先まで見積もりされた。
「で、嬢ちゃんは?」
「あ、あの。酒場の店員で、ゴルドさんのお代を取りに」
「飲み逃げ未遂ね。把握した」
言葉が短い。整理が早すぎる。
セラの目が、オレの背後に、すい、と滑った。
「爺さん、今、何しようとしました?」
振り向くと、ゴルドの右手が宙で固まっていた。次の瞬間、オレの手とセラの羽根ペンの柄が、ほぼ同時にその手の甲を打っている。乾いた音は、一つ分しか鳴らなかった。
「同時!」
「今月これで七件」セラが帳簿に書き込む。「累計、モンメリー十四枚」
「多いですね!」
「多いのよ、この男は」
「うちにも金はないわよ。明日の宿代でほぼ全部」セラが引き出しを開ける。中で小銭がチャリ、と頼りない音を立てた。「その宿代も、あと一泊分。明後日の当てはなし」
部屋の温度が一段下がる。
……これ、オレ、巻き込まれてないか?
「明日、ギルドで仕事を取る」セラがこちらを見ずに言う。「一日で稼いで、酒場と宿代をまとめて返す」
「アルトもそれでいいわね」
「うん、もちろん。誰か得意な人が……あ、すみません」
「アルトはね」セラがオレに向き直る。「大事な仕事の前に必ずこう言うの。誰か得意な人がやればって。得意な人を雇うには金が要る。金がないからアルトが行く。単純な話」
「わかってる」
「わかってないと困るから毎週言ってるの」
セラが帳簿に書き込みながら言った。「嬢ちゃん、明日の朝、ギルドに同行して」
「な、なんでですか」
「うちは三人。だけどギルドは、四人パーティーじゃないとまともな依頼を受けられない規約なの。人数不足だと最低ランクの仕事しか回ってこない」
「四人目を今から雇う時間も金もない。だから――」セラがオレを見た。「臨時で。一日だけ。四人目になりなさい」
「ええっ!?」
また、あの高い声が出た。
「アタシ、戦えませんよ!? 遊び人ですよ!?」
「知ってる。人数を埋めるだけでいい。あんたが何ができるかは、書類は問わない」
ゴルドが励ますような顔で近づいてくる。「嬢ちゃん、いい機転だ、と言ったのは本気だ。縁ってのは突然来る。来たら掴むしかない」
いい話の途中で、その右手が励まし以外の経路に入った。オレの手とセラの羽根ペンが、また同時に打ち落とす。
「累計、モンメリー十六枚」セラは、もう顔も上げなかった。
アルトがおずおずと言った。「あの、本当に、立ってるだけでいいので……戦う必要は、あんまり、ないと思います。たぶん」
「その『たぶん』が一番怖いんですけど」
「あ、すみません」
「謝らないでください、不安になるから!」
アルトは口を両手で覆い、深呼吸をしてから、言い直した。「……はい」
セラが帳簿から顔を上げずに続けた。「前回雇った四人目も、ほぼ動かないうちに依頼が終わったわ。あの人、たぶんすごい人だった」
「その人、いくらで雇ってたんですか」
「ピィ二枚。スープ一杯分ね」
「すごい人の日当がスープ一杯て、人としてどうなんですか!?」
「人として終わるかどうかと、利益が出るかどうかは、別問題よ」
オレは頭を抱えた。だが手は、勝手に動いていた。アルトが差し出した書類を受け取り、羽根ペンを握り、署名欄を見つけ、角度まで整え始めている。
署名の最中、「いい字だな」と覗き込んできたゴルドの手が滑りかけ、二発同時に打ち落とされた。一発はオレ、もう一発はセラの羽根ペン。
「累計、モンメリー十八枚」
オレは、まだ完全に乾いていないインクの署名を見下ろした。
「ねえ、嬢ちゃん」セラがオレを見る。「あんた、うちに向いてるかもしれない。同期と反応速度」
「採用基準がおかしいですって!」
……「アタシ」が、ぐずぐずになっている。怒った声、接客の声、取り繕いの敬語、その奥に漂う、知らない土地の節回し。声が四種類ある一日だった。
確かなことは、まだ一つしかない。今夜から、オレは四人目だ。