第1話 目が覚めたら、仕事があった
第1話 目が覚めたら、仕事があった
寝返りを打とうとして、何かを挟んだ。
痛い。
肘の下から慌てて引き抜こうとした手が、途中で止まる。挟んだものが、身体につながっていたからだ。
胸だった。
オレは天井を見た。木の梁。節穴。隅に小さな蜘蛛の巣。もう一度、布団の中を見る。
ある。
左右に、ある。
両手を添えてみると、指が沈み、その分だけ重さが手のひらに移った。温かい。持ち上げれば少し楽になる。手を離すと、元に戻る。
どうも、持ち帰りのできない荷物らしい。
「……なんで」
出てきた声に、今度は喉を押さえた。
高い。寝起きでかすれているのに、それでも高い。試しに咳払いをすると、見知らぬ女が行儀よく咳をした。
部屋にはほかに誰もいない。
だったら、その女はオレということになる。
いや、だったら、ではない。そんな簡単な引き算で済ませていい話か。
寝台から足を下ろす。床が冷たかった。立った瞬間、上半身が前に引かれ、慌てて背筋を伸ばす。その拍子に膝を寝台の角へぶつけた。
「いった……」
涙まで出た。
夢なら、もう少し都合よくできていてほしい。
壁際に細長い鏡があった。銀の膜がところどころ曇り、下の隅にひびが入っている。その中から、薄い寝間着を着た女が、片膝をさすりながらこちらを睨んでいた。
黒い髪。白い首。目尻の形が柔らかいせいで、睨んでいるつもりでも困っているように見える。顔立ちは綺麗だった。整いすぎて、自分の表情だけが借り物の顔からはみ出している気がした。
この顔を、知らない。
では、知っている顔は。
鏡の前で、息が止まった。
浮かばなかった。自分の顔が。
違う、という感覚だけはある。肩幅も、視線の高さも、こうではなかった。もっと大きな手で何かを握っていた。その指先に硬いものが触れていた。
それが何かを追うと、途端に輪郭がなくなる。
オレは鏡の縁を握った。冷たくも熱くもない木の感触が、今はありがたかった。
まず着替えよう。
分からないことを全部まとめて考えるには、膝が痛いし、格好が心細い。
椅子に、服が掛けてあった。
黒い胴衣。白い襟。網目の細かいタイツ。かかとの高い靴。そして、長い耳が二本。
……まず着替えよう、は撤回できるだろうか。
ほかの服を探して引き出しを開ける。畳んだ布と、替えの襟と、針箱。隣には、修繕された黒い胴衣がもう一着あった。
予備まである。逃げ道のない品揃えだ。
耳をつまみ上げると、片方だけ根元が少し曲がっていた。指が勝手にそこを押し、まっすぐに戻す。
それから、着替えは驚くほど早く済んだ。
意識が「後ろの留め具に手が届くのか」と心配している間に、指は三つの留め具を順番に留めていた。タイツの縫い目を揃え、靴の細い帯を締める。首の襟には指一本ぶんの余裕を残した。
最後に耳をつける。
途中でやめる機会は、あったはずなのだ。
ただ、一つ終えると次にすることが分かった。考える前に手が動き、その動きが終わってから、なるほど、そこを留めるのか、とオレが追いつく。
鏡の中には、支度の整ったバニーガールがいた。
少し傾いていた襟を直す。直してから、腹が立った。
完成度を上げてどうする。
*
戸口のローブを羽織って外へ出ると、朝はとっくに始まっていた。
荷車の車輪が石畳を鳴らす。パンを入れた籠から白い湯気が上がっている。通りの向こうでは、鶏を追う子供が、鶏よりもひどく怒鳴られていた。
焼けた麦と、馬と、昨日の雨の匂い。
知らない匂いのはずなのに、鼻の奥だけが朝だと納得した。
通りを横切る男の腰には剣がある。別の女は、自分の背丈ほどもある杖を抱えていた。肉屋の軒先では、小さな青い火が宙に浮かび、干し肉に寄る虫を追っている。
魔法。
その言葉は、すぐ出た。
ああ、そういうことか。
そう納得しかけてから、自分に呆れた。何が、そういうことなのだ。さっきまで自分の膝の位置さえ間違えていた人間に、世界を理解するのは早すぎる。
「ミア、おはよう!」
野菜の露店から声が飛んできた。
身体が先に振り向いた。
「おはようございます♪」
オレは口を閉じた。
今、語尾に何かついていなかったか。
「今日は髪、そのままかい?」
店番の女が、自分の耳の後ろを指さした。
オレの手が同じ場所へ伸びる。細い毛束が襟に挟まっていた。引き出して背中へ払うと、女は満足そうに頷いた。
「ほら、美人が台無しだよ」
「もう、朝からお上手なんだから」
誰だ。この、褒め言葉を一つも取り落とさない女は。
手を振って歩きだしてから、小さく唇を動かす。
ミア。
呼ばれたとき、嬉しくも不思議でもなかった。足だけが、当たり前のように止まった。
たぶん、名前なのだろう。オレが知らなくても、この通りは知っている。
露店の札には『玉ねぎ 三つで一束』とあった。
読める。
足を止め、札を見る。曲がった線の端に、釣り針のような点がついている。どれが「玉」で、どれが「ねぎ」なのかは分からない。そもそも、そんな分け方をする文字なのかも分からない。
それでも意味だけは、目を向けた瞬間に入ってくる。
「どうしたの。買ってくかい?」
「いえ、大丈夫です」
文字は読める。名前は知らない。
この順番には、かなり文句がある。
足に任せて角を二つ曲がると、木造の大きな店に着いた。看板には、杯を掲げた男の絵と『陽気な冒険者』の文字。
扉を押す直前、手が少しだけ上へずれた。取っ手の下側には、ささくれが立っていた。
それを、指は知っていた。
*
「遅かったな」
カウンターの奥で、恰幅のいい男が樽の栓を確かめていた。
怒っているような声だったが、肩は強張らなかった。それどころか、鼻に届いた煮込みの匂いで腹が鳴った。
「すみません、ちょっと……」
「寝坊か」
「起きてからが長くて」
「そりゃ寝坊より面倒だな」
男は小皿にパンを載せた。固い端を切り落とし、煮込みの汁を少しかける。オレが返事を探しているうちに、皿はカウンターのこちら側へ滑ってきた。
「先に食っとけ。昼は座れんぞ」
受け取った皿は温かかった。
この人が店主らしい。少なくとも、オレに朝飯をくれる人だ。
礼を言って食べると、腹の底が少し落ち着いた。玉ねぎは甘く、パンの端にはまだ歯応えがある。自分がどこから来たのか分からなくても、空腹はどうにかできるらしい。
皿を洗おうとして、迷わず流しの下へ手を伸ばした。そこに、柄の短い刷毛があった。
棚のどこに何があるか、手が知っている。布巾の湿らせ方も、椅子の脚を鳴らさない持ち上げ方も。
なのに、店主の名前は出てこない。
「……何見てる」
「いえ。今日も、お元気そうで」
「お前、皿を割ったのか」
「まだです」
「予定に入れるな」
ローブを脱ぎ、壁の鉤へ掛ける。店主は耳にも衣装にも何も言わなかった。この格好に異議を申し立てているのは、どうやらオレ一人だ。
昼前には、その異議も注文に押し流された。
「ミア、いつもの!」
「はあい、ドランさん♪」
返事と同時に、棚の右端のジョッキを取っていた。底に小さな欠けがある。濃いエールを注ぐと、客の男は上機嫌で口髭を撫でた。
なるほど、この人がドラン。いつものは、これ。
接客をしながら、自分の仕事を教わっている。
ほかの卓へ向かうときは、椅子を引く客の肩を見た。動きそうだと思うより先に足が半歩ずれ、盆の縁が背もたれをすり抜ける。
できてしまうのが怖い。
でも、できないよりは助かる。少なくとも、今この瞬間は。
窓際の卓では、革鎧の男が自分の腕を叩いていた。
「まあ、俺もレベル三十だからな」
「昨日は二十八だったろ。診断所にでも行ってきたのか?」
向かいの男が、骨つき肉をくわえたまま言う。
「一晩あれば、人は変わる」
「お前、昨日ここで飲んでただけじゃねえか」
「若いのに人生を教えてやった」
「俺は経験を積んだと思う。お前の話を二時間聞いた」
ジョッキを置く手が止まった。
レベル。
言葉の後ろに、青い四角が浮かびかけた。小さな白い字。上下に動く印。乾いた音が、耳ではないところで一度鳴る。
「嬢ちゃんも、そう思うだろ?」
「え?」
「俺は三十に見えるかって」
年齢ではなさそうだった。男は誇らしげに胸を張っている。その脇で、仲間が指を二本立て、ひそかに振った。
「……お強そうには見えますけど」
「ほらな!」
「診断を受けても、同じなんですか?」
男の胸が少し戻った。
「ああいうのは金がかかるんだ。自分のことは自分が一番分かる」
「飲んだ杯の数も分からなくなるくせに」
仲間がすかさず言った。
男は聞こえなかった顔をして、空のジョッキを差し出した。
「細かいことはいい。もう一杯だ」
「はい。ただ、お代はこちらで数えますね♪」
向かいの男が、肉を皿へ落として笑った。
オレは一拍遅れて、笑顔のまま息を吐いた。さっきまで頭に引っかかっていた青い色は、もう出てこなかった。
代わりに、胸の奥がほんの少し軽くなった。
上手く切り抜けたからだろうか。それとも、誰かが笑ったから。
「ミア、三番卓!」
どちらかを確かめる前に、次の仕事が来た。
*
夕方になると、窓の明かりが薄まり、梁から下がったランプに火が入った。
椅子を引く音。皿を重ねる音。濡れた外套の匂い。酒場の空気は、人が増えるほど温かく、少しずつ重くなる。
カウンターの端に、いつの間にか爺さんが座っていた。
白髪交じりの短髪に、眉を横切る古傷。袖から出た腕は太く、杯をつまむ指の節が妙に大きい。酔って赤い顔をしているのに、椅子の上では背中がぶれなかった。
「嬢ちゃん、こっちにも頼む」
「順番ですよ」
「年寄りは先が短いんだぞ」
「飲む時間は長そうですね」
「よく分かっとる!」
褒められてしまった。
厨房からシチューの皿を二枚受け取る。縁にかけた指が熱い。厚切りの根菜が、白い湯気の下でとろりと沈んだ。
これを運んだら、少し水を飲もう。
そう決めて卓の間へ入ったとき、胸元の小さなリボンが裏返っているのに気づいた。
直したい。でも両手が塞がっている。
顎でどうにかならないかと下を向く。
ならない。そんなところに顎は届かない。
視線を戻したとき、靴の先が床の継ぎ目に引っかかった。
身体は立て直そうとした。膝が曲がり、腰が引ける。しかしオレは、皿を落とすまいと腕を突っ張ってしまった。
その判断が、たぶん、いちばん余計だった。
一枚が盆もない空中で傾いた。白い筋が弧を描く。もう一枚で受けようとした。
なぜ受けられると思ったのか。
音は二回した。
足元にシチューの池ができ、根菜が一つ、爺さんの靴の手前まで転がって止まった。
店中の顔がこちらを向いていた。
「……床には、お出ししない予定だったんですけど」
誰かが噴き出した。それで堰が切れたように笑いが広がる。
「贅沢な床だな!」
「俺の席にも頼む!」
頬が熱かった。口は笑っているのに、皿を持っていた指がまだ曲がったままだった。
カウンターの爺さんも、肩を揺らした。
「遊び人は戦いじゃ役に立たねえが、ずいぶん派手な技を持っとるな!」
役に立たねえ。
笑い声が、遠くなった。
青白い画面。
閉めたカーテンの下に、細い光がある。机の隅には、空の容器が重なっている。指を置いた板は黒く、四角いキーの隙間に白い埃が溜まっていた。
――無能。
文字が下へ流れる。
――お前がいると迷惑。
何かを打ちかけた。消した。もう一度打って、また消した。送れなかった言葉だけが、指先に残っている。
甘い匂いがした。
雨上がりの歩道。明るすぎる入口。ホテル、と読めた気がする看板。その下から、女が男と出てくる。腕が触れるたびに女が笑う。好きだった。たぶん、それだけは間違えようがないくらいに。
名前を呼ぼうとして、声が出ない。
男の顔を見る前に、女の口元ばかり見ていた。
自分の前では、あんなふうに笑わなかった。
「ミア」
濡れた床に、手を伸ばしていた。
指のすぐ先に、皿の欠片がある。
「触るな。手を切る」
店主の靴が視界に入った。大きな手が、オレの手首ではなく、床の欠片を布で包んだ。
「火傷は」
首を振る。声がうまく出なかった。
「なら、箒を持ってこい」
やることを一つ言われて、ようやく足が動いた。
流しの横。箒。塵取り。
場所を知っていることに、今度は救われた。
店主が欠片を集める間、オレは細かい破片を掃いた。客は椅子を引いてくれた。ドランが床に落ちていた匙を拾い、卓の端に置いた。
誰も、出ていけとは言わなかった。
さっきの部屋は何だったのだろう。
見たことのある景色なのか。誰かの話に、自分を入れてしまったのか。足元のシチューの匂いはこんなに確かなのに、あの部屋の自分には顔がなかった。
なのに、恥ずかしさだけが残っている。
知らない出来事で、どうしてこんなに胸が痛む。
「嬢ちゃん」
爺さんが、さっきより少し低い声で呼んだ。
「悪かったな」
目を上げると、爺さんは靴を持ち上げていた。
「ここにも跳ねとる」
そっちか。
オレは濡れた布巾を、その靴の上に置いた。
「ご自分でお願いします」
「おう」
爺さんは素直に拭いた。片足を上げても、椅子は少しも軋まなかった。
謝ったのが何に対してだったのか、聞く機会はなくなった。
*
閉店が近づくころには、脚がようやく疲れを訴え始めた。
身体は慣れていても、疲れないわけではないらしい。空いた卓を拭きながら、ヒールの中でそっと指を曲げる。
「強いのをもう一杯」
爺さんの杯が、また空になっていた。
「お水にしませんか」
「水は昼にも飲んだ」
「お酒もさっき飲みましたよ」
「そうだったか。美味かったからな」
都合のいいことだけは、ちゃんと覚えている。
棚の奥の瓶を取ると、爺さんは嬉しそうに鼻を鳴らした。杯へ細く注ぐ。最後の一滴を切るために瓶をわずかに返すと、その手つきを目で追っていた爺さんが、ふっと笑った。
「いいな」
「何がですか」
「ここで飲む酒は、美味い」
爺さんは杯を持ち上げた。
オレは布巾の角を揃えた。そこだけ濡れて、少し黒ずんでいた。
「……瓶の中身は、どこでも同じでしょう」
「そう思うか?」
答える前に、爺さんは飲んでしまった。
少なくとも今、この人は機嫌がいい。それを確かめたくて、オレは空になった杯をいつもよりゆっくり受け取った。
いつも、って何だ。
また分からない言葉が増えた。
爺さんは満足そうに息を吐き、腕をカウンターに重ねた。大きな頭が、その上へゆっくり下りていく。
「お客様?」
返事の代わりに、低い鼾がした。
店主が厨房から顔を出した。
「払ったか」
オレは爺さんを見た。店主を見た。カウンターに刻まれた、杯の数を示す白墨の線を見る。
「……まだです」
「起こせ」
肩を揺する。動かない。少し強く揺すると、こちらの足が滑りそうになった。
朝、自分の胸の重さに驚いていたころが、もう懐かしい。
あれは、少なくとも自分で運べた。
「お客様。お勘定です」
爺さんの唇が動いた。
「……もう、飲めん」
「飲めなくていいです。払ってください」