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第35話 届け先は、そこじゃない

第35話 届け先は、そこじゃない

 肩紐が、また同じところへ食い込んだ。

 右へずらす。十歩ほどで戻る。左へずらす。今度は胸の前を横切る紐に別の問題が生じた。

「鞄って、こんなに人を選びましたっけ」

「詰め方じゃないか?」

 ゴルドが振り返った。背中の大きな包みが、本人より遅れて向きを変える。

「重い物を下へ入れたんです」

「歩く荷なら、背中寄りの方が楽だぞ」

「先に教えてくださいよ」

「聞かれんかった」

 助言の到着はいつも荷造りのあとだった。

 道端の石へ鞄を下ろした。薬の木箱は開けず、箱ごとの位置を直す。アルトが背に当たる側へ畳んだ布を挟んでくれた。

 背負い直すと、同じ重さなのに肩が軽い。

 レベルが二つ上がるより、布一枚の方が即効性はあった。比較するものが間違っている気もするが、今日の肩には今日の事情がある。

「耳も引っかかってます」

 アルトが言った。

 枝へ手を伸ばしたら、髪飾りの兎耳が一本残った。頭より高いところに自分の一部がある暮らしには、まだ慣れない。

 ゴルドが枝を下げた。

「収穫時だな」

「豊作でも困ります」

 耳を取り戻す間に、畑の向こうから鐘が聞こえた。

 コルム村だった。

     *

 前に来たとき、井戸端には包帯を巻いた手が並んでいた。

 今日は、その手が桶を引いていた。

 袖口に縫い目の目立つ女が、オレたちを見つけて桶を置く。セラを呼ぶ声は、前のように小さくなかった。

「来たよ。先生たちだよ!」

 ゴルドが顎を上げた。

「おう」

「あなたは呼ばれてません」

「先生たち、の『たち』だ」

 そこに入る意思だけは強い。

 村長が集会所から出てきた。両手を胸の前で揉み合わせる癖は変わっていない。しかし今日は、挨拶より先に戸を大きく開けた。

「机を拭いておきました。荷はそちらへ」

 片側には村の女が待っていた。髪を布で包み、袖を肘まで上げている。薬の受け取りを任されているそうだ。名を尋ねると、ハナ、と短く答えた。

 セラが木箱の封を示す。

「途中では開けていません。まず、依頼書と数を合わせましょう」

 村長が紙を広げた。

 薬の小包が六つ。替えの布が二巻。どちらも村がハイベルの薬種店へ代金を払って注文した品で、オレたちの財布から出たものではない。

 今回の仕事は運搬と受け渡し、それにセラが使い方と保管場所を確かめること。報酬は三十二ピィ、今夜の寝場所と夕朝の食事は村持ち。四人で了承して出てきた条件だ。

 前に同じ戸をくぐったときは、赤字になると知りながら来た。

 今日は村が品物を選び、金を集め、受け取る人を決めて待っていた。

 セラはそれを褒めなかった。相手も、褒められるために机を拭いた顔をしていない。

 オレは鞄から布を出した。

「一巻、二巻。こちらで全部――」

「赤い方が、ないね」

 ハナが言った。

 手の中の布は、二巻とも白かった。

 セラの羽根ペンが止まった。

     *

 紙には『晒し布 二巻』とある。

 ハナの控えには『晒し布 一巻、赤布 一巻』とあった。

 両方の文字が立派に読めるのが、かえって腹立たしかった。どちらかが読めなければ、もう少し簡単な困り方ができたかもしれない。

「赤い方は、目印にするんです」

 ハナは壁の棚を指した。

 上の段に、薬を入れる蓋つきの箱がある。下の段には、畑で使う粉の袋があった。混ぜたくない物を、箱に結ぶ布の色で見分けるつもりだったという。

「隣の家のお婆さんが文字を読めないから。それで注文の時に、赤いのも、と」

 村長が口を開き、閉じた。

 ハナの方を見たあと、自分の紙を見下ろした。

「わしが、口で伝えたつもりになっとったのか」

 薬種店へ送った注文書の写しを、持ってきてもらう。そこにも白い布二巻とあった。

 オレは余計なことを言いそうになって、止めた。

 染めればいい。自分の赤い何かを切ればいい。代わりに札を描けばいい。

 どれも、今すぐ助けた人の顔ができる案だった。その先で誰が洗い、取り替え、見間違えるのかまでは、まだ何も見ていない。

 セラがハナに尋ねた。

「布の色だけにする予定?」

「触って分かるように、結び目も変えようかと。まだ、婆さんに試してもらってないけど」

「じゃ、先に本人に来てもらいましょう。品違いの報告は、その後で分けて書く」

 誰が悪いかを先に決める声ではなかった。

 村長の肩が、少し下がった。

 そのとき、窓の下から顔が出た。

「耳の人だ」

 五つか六つ、前に傷を洗うのを嫌がっていた男の子だった。

「耳以外も、お届けに来ましたよ」

「治った?」

 オレは腕を見せかけた。

 少年の目は頭の上にある。

「ああ、そっち。こっちは相変わらずです」

 片耳を折ってみせると、少年は声を立てて笑った。

 それから、日に焼けた腕を窓枠の上へ突き出した。傷は細い筋になっていた。

「ぼくは、治った」

 胸の奥へ、ふっと温かいものが入ってきた。

 オレは耳から手を離した。

「そっか。よかった」

 耳は中途半端な角度で戻った。

 少年はもう一度笑い、それから急に真面目な顔になった。

「お届け、ぼくもできる」

     *

 できる仕事はあった。

 空いた運搬袋を、洗い場へ持っていくことだった。

 薬は触らない。布はまだ検品中。だからオレは、何も入っていない袋を裏返して少年に見せてから渡した。

「これだけ。井戸の隣の、お母さんまでね」

「分かってる」

 子供の『分かってる』は、だいたい説明の終わりを要求する言葉らしい。

 少年は駆け出しかけ、ハナに呼ばれて歩き直した。

 名前はピト、と母親が教えてくれた。

 オレがその名を覚えた直後だった。

 袋が空を飛んだ。

 続いて白い尻が窓の外を横切った。

「豚!」

 アルトが叫んだ。

「見れば分かります!」

 分かったからどうなるものでもない。

 逃げ出した小豚が、少年の袋へ鼻を突っ込んでいた。餌の匂いでも残っていたのか、縫い目を鼻先へ引っかけたまま走る。ピトは手を離して尻餅をついていた。

 ハナが駆け寄る。セラは机を村長へ任せ、そのあとを追った。

 ゴルドは立ち上がり、出入口で大きく両手を開いた。

「来い!」

 豚は来なかった。

 賢い。

 横の薪の間を抜け、集会所の裏へ回った。ゴルドが追おうとして、戸口へ荷紐を引っかける。身体は前へ、荷は後ろへ。見事にその場へ留まった。

「待て、この――」

「荷物を下ろすんですよ、先生!」

 オレまで走り出しそうになり、足を止めた。

 追いかける人はもういる。追いつける人もいる。オレが同じ方向へ走れば、最後尾が一人増えるだけだ。

 裏口には、低い板塀と畑の間に細い通路があった。開いた門の向こうに、もう一匹の豚がこちらを見ている。

 あっちも出したら、話が二倍になる。

 オレは門を押さえた。

「アルトさん、袋の方、そっち!」

 彼は追うのをやめ、餌桶を持った女の横へしゃがんだ。何か短く尋ねてから、桶を受け取る。

 豚は一度、オレの足元まで来た。

 泥のついた鼻。小さいが、突進されれば十分痛そうな頭。

 オレは反射的に門の裏へ隠れた。板を隔てて、鼻息がふっと脚にかかる。

「アタシ、食べ物じゃないですからね」

 豚の返事はなかった。

 代わりに桶を叩く音がした。

 アルトが、豚飼いの女に教わった調子で鳴らしていた。二つ、間を空けて一つ。逃げた豚は耳を動かし、そちらへ向かった。

 ゴルドが背後へ回り、袋を外す。

 オレが門を開ける。

 豚は自分で中へ入り、まっすぐ餌桶へ鼻を突っ込んだ。

 終わった。

 誰も魔法を使わず、剣も抜かず、ゴルドだけが戸口と戦っていた。

「最初から、餌で呼べばよかったですね」

「最初から分かってれば、だいたいの戦は起こらん」

「今、戦に数えました?」

 爺さんは荷紐を解きながら、聞こえないふりをした。

     *

 ピトの膝は擦りむけていた。

 セラは洗い終えた傷を確かめていた。少年は泣いていない。唇を内側へ巻き込み、腕を身体の横へぴんと伸ばしている。

「痛いなら、言っていいのよ」

「痛くない」

「じゃ、その顔は?」

「顔」

 セラの手が一瞬止まった。

 オレは笑いを飲み込みきれなかった。ピトはこちらを睨んだが、オレが片耳を折ると目が少しだけ緩んだ。

「袋、汚れた」

「洗う袋だから、大丈夫」

「届けられなかった」

「途中までは届いたよ。続きは一緒にやろうか」

 返事はなかった。

 手を差し出すと、少し待ってから指が二本だけ握られた。

 少年の母親が、小さな薬代の札を受け取っていた。村の共同の薬とは分け、今回使った分を記している。セラが全部を自腹に戻すことはなかった。

 ハナが袋を受け取り、少年へ水桶を示した。

 ピトは自分で水を汲んだ。半分こぼしたが、半分は届いた。

 オレはその横で、濡れた袋の角を押さえた。

     *

 午後、棚の前には三人が並んだ。

 ハナと、腰の曲がった老女と、セラだった。

 赤い布は村の家から一切れ見つかった。ただし、老女はそれを見て眉を寄せた。

「暗くなると、どっちも同じ色じゃよ」

 ハナが天井を見上げる。

「そうか」

「そうか、じゃ。勝手に便利にされても困る」

 老女は、箱を開ける側の紐に結んだ大きな木の輪を触った。

「こっちなら、分かる」

 薬の箱には輪をつけ、畑の粉は集会所の裏の別の棚へ移すことになった。色は補助として残すが、それだけで見分けない。

 文字の札も付ける。読める人の役に立つ物まで、捨てる必要はなかった。

 オレは板へ箱の絵を描こうとした。

 四角を二つ。蓋の線。丸い輪。

 描いた瞬間、右側にもう一つ、同じ大きさの枠を作りたくなった。

 白い余白。薄い青の線。そこへ何かを順番に置く感触。

 指を止めた。

「これは、何?」

 ハナが余分な四角を指した。

「……予備です」

 便利な言葉だった。

 何の予備か、自分でも分からない。

 オレは余分な枠を布で拭った。薬の箱の絵だけを残す。描きたい形より、この棚で使う形の方が先だった。

 最後にハナが箱を開け、包みを出し、セラへ使う順を説明した。

 言い間違えたところは、その場で直した。

 村長が受領欄へ名を書く。

 セラは白い布二巻のうち一巻を示した。

「こちらも使うなら、注文通りの受領にできます。赤い布の追加購入は今回なし。それでよいですか」

 村長だけでなく、ハナにも確認した。

 二人がうなずいて、ようやく紙が閉じられた。

 荷は机に置いた時点で届くのだと思っていた。

 夕方には、箱が棚へ入り、布が切られ、誰が鍵を持つかが決まっていた。

 その頃になって、オレの肩からも、ようやく荷が下りた気がした。

     *

 検品のあと、セラは前に治療した人たちの仕事場を回った。

 オレも空箱を抱えてついていった。

 畑では、腕に傷跡のある男が鍬を止めた。セラに手を開いて見せ、握り直す。

「この指だけ、朝、少し固い」

 セラは動く範囲を見て、痛むときの扱いを確かめた。もう一度強い術をかければ全部済む、という話にはならなかった。

 男は話が終わると、次の畝へ戻った。

 オレは、背中を見送った。

「前より、元気ですね」

「薬が届くまでの間も、この人たちは暮らしてたから」

 ハナが横から言った。

「布を洗うのも、忘れた人を呼び戻すのも、うちの婆さんがうるさくてね」

 棚の輪を触っていた老女の顔が浮かんだ。

 治した日のことはよく覚えていた。その後の何十回もの洗濯や、畑へ出る朝までは見ていない。

 空箱の軽さを確かめながら、オレは集会所へ戻った。

     *

 夕飯には、豆と小さな芋の煮込みが出た。

 アルトが手伝おうと立ちかけると、ハナが匙を振った。

「今日は座って。豚まで戻してもらったんだから」

「戻ったのは、あの桶の音が――」

「知ってるよ。うちの豚だもの」

 アルトは困った顔で座った。

 ゴルドが大きく頷く。

「礼は受けるもんだ」

「戸口に引っかかってた方も、座っててください」

「見られとったか」

「戸口でしたから」

 全員から見える場所での奮闘だった。

 セラは湯気の立つ碗を少し遠ざけた。ピトがそれを見て、ふう、と一度だけ吹く。

「熱いの?」

「少しね」

「先生なのに」

「舌は、別の資格なの」

 そんな資格はないと思う。

 けれどピトは納得した顔で、自分の碗も冷ました。

 オレは芋を一つ、匙で割った。

 村の中を走ったせいで、脚が重い。肩も痛い。八という数字でなくなったのは、今のところ一つもなかった。

 向かいの席では、傷の治った腕がパンへ伸びていた。

 それを見ながら、オレも食べた。

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