第20話 宴と報せ
第二十話 宴と報せ
『陽気な冒険者』は、その夜、これまで見たことがないほどの盛況だった。
扉を開けた瞬間、噎せ返るほどの熱気と、麦酒と揚げ物の匂いが押し寄せてきた。いつもは隅の卓がぽつぽつと空いている店内は、隙間なく人で埋まり、天井から下がるランプの灯りが、汗ばんだ顔ぶれをことごとく橙色に染めていた。誰かが弾く弦楽器の調子外れの音、皿の触れ合う音、笑い声――そのすべてが渾然一体となって、店の壁にまで染み込んでいるようだった。
店主が開口一番に樽を割った。太鼓腹を揺らしながら木槌を振り下ろす様子は、まるで祭りの神輿でも担いでいるかのような気迫だった。
「ミア! 無事に帰ってきたお祝いだ! 今夜は、店のおごりだ!」
「そんな、太っ腹すぎませんか」
「白ひげチーズの評判のおかげで、うちの懐も、多少は温かいんだよ」
「それにしたって、樽ごと一つは、やり過ぎでは」
「今日ばかりは、細かいこと言うな!」
常連のドランをはじめ、隊商のドーマスまで顔を出し、店内は朝からの噂話――竜を笑わせて帰ってきた四人組――で持ちきりだった。誰も彼もが赤らんだ顔で杯を掲げては、こちらへ物珍しそうな視線を寄越してくる。
「本当に、竜と話しただけなのか」
「話しただけです。愚痴、聞かされました」
「竜にも愚痴ってあるのか」
「山のようにありました。多分、アタシたちより溜め込んでたと思います」
どっと笑いが起きた。
ドランが赤い顔のまま、笑いながら言った。
「『遊び人』ってのは、戦いじゃ役に立たねえが、竜を笑わせる才能まで天才的だな!」
笑い声が、さっきより大きく卓を揺らした。オレはその言葉を聞きながら、拍子抜けするくらい何も刺さらないことに気づいた。同じ形の言葉なのに、今夜はどこにも刺さらなかった。
オレは注がれるがままに答えながら、この賑わいの中心に自分がいることに、まだ少し戸惑っていた。
誰かに褒められることに慣れていないのか、それとも、こんな風に大勢から一斉に見られる状況そのものに慣れていないのか。杯を傾けながら、そのどちらなのかを考えてみる。前者だとしたら、今までの人生でよほど日陰を歩いてきたことになるし、後者だとしたら、接客業のくせにこの体たらくはさすがに向いてない気がする。……いや、接客と、こうして主役に祭り上げられるのとは、根本的に勝手が違う。舞台の上に立つのと、舞台そのものにされるのとでは、たぶん筋肉の使い方から違う。結論は出ない。出ないまま、杯だけがまた注がれていく。
宴もたけなわの頃、セラが羽根ペンと帳簿を手に、真面目な顔で向かいの席に座った。喧騒の一つも揺らがない、涼しい顔のままだった。ペン先ではまだ乾いていないインクが、灯りを弾いて光っている。
「ミア、そろそろ、正式な話をしましょう」
「え、こんな時に」
「こんな時だからこそ。あんたの雇用条件、いつまでも『臨時・一日限り』の書類のままってわけにもいかないでしょう」
オレは居住まいを正した。周りの喧騒が、一段遠くなった。ようやく、この長かった「臨時」に決着がつく。数えてみれば、あの宿屋の一室で無理やり署名させられた夜から、随分と日が経っている。何日目だったか、正確な数字はとうに忘れてしまったが、忘れるほど長く続いた「一日限り」という言葉の矛盾だけは、やけにはっきり覚えている。
「日当だけど」セラが帳簿を開きながら言った。「初期提示、ピィ二枚でどう?」
「は?」
オレの声が、勝手に裏返った。
「セラさん、それ、ギルドで最初に交渉した時と、全く同じ額じゃないですか!」
「あら、覚えてたのね」
「忘れるわけないでしょう! あの時、散々交渉した結果が、水の泡になるじゃないですか!」
「よく覚えてるじゃない。指の動かし方まで、あの日と同じだったわよ」
「指の動かし方って、何ですか」
「交渉の時、あんた、無意識に人差し指で卓を叩く癖があるの。今も、やってる」
オレは慌てて指を止めた。この人は、いったいどこまで見ているのだろう。
「冗談よ」セラは眉一つ動かさず、帳簿のページをめくった。「本題は、こっち」
示された羊皮紙には、几帳面な文字が隙間なく並んでいた。数字の一つ一つに、定規でも当てたのかと思うほどの正確さがある。四分の一均等割りに加え、装備消耗費・治療費の天引き条項が撤廃され、さらに功労加算として固定の追加報酬まで明記されていた。インクの匂いがやけに鼻についた。
「セラさん……」
「竜を笑わせて全員を生還させた実績を、二枚のスープ扱いするほど、私は無能じゃないわ」
「無能とか言い出したら、アタシの方こそ、いろいろ拾われてる立場ですけど」
「拾ったんじゃない。適正な評価をしただけ」
……相変わらず、損得の言葉でしか語らない人だった。だが、その数字の中身は、確かな敬意に満ちていた。損得勘定でしか語らない人間が、なぜここまで律儀に数字を積み上げるのか。単に几帳面な性分だから、という説もある。あるいは、感情の言葉で伝えるのが苦手なだけで、数字こそが彼女なりの不器用な表現方法なのかもしれない。……いや、さすがに深読みしすぎか。断定はしない。しないが、悪い気は、しなかった。
オレは差し出された羊皮紙に、羽根ペンを走らせた。あの夜は、手が先に動いた。今夜は、意識が先に動いて、手が後からついてきた。署名をしながら、ふと手元を見る。自分の書くこの字も、意味だけ分かって、形は毎回初めて見る。読む方だけじゃない。書く方も、そうだったのか。それでも、これはもう、オレの名前だった。
千鳥足で酒瓶を逆さまに近い角度で持ちながら、ゴルドが割り込んできた。赤ら顔はもはや赤いというより、茹だった色に近い。
「嬢ちゃん、正式加入、おめでとう!」
「ありがとうございます」
「これで、正真正銘、俺たちの四人目だ!」
その言葉に合わせて、ゴルドの手が祝福のふりをして、肩からするりといつもの経路を辿り始めた。その軌道の予測精度だけは、竜と対峙した時よりも自信があった。
パシンッ。
「相変わらずですね!」
「祝いの席くらい、大目に見てくれてもいいだろう」
「駄目です」セラが素早く帳簿に書き足した。「累計、モンメリー二十八枚」
「祝いの日まで、記録するのか」
「祝いの日だからって、免除される理由がどこにあるの」
「なら、せめて、口だけにしとけばよかったものを」ゴルドが悔しそうに唸った。
「口だけなら、記録はしないわよ」セラがペン先を紙から離さぬまま答えた。「腰の動きがどうとか、そういう申告は、対象外」
「じゃあ、次からは口だけにする」
「次があるという前提が、そもそも問題なんですけど」
……このパーティーの運営は、今日も完璧だった。
宴の熱気がまだ引かない頃、店の扉が遠慮がちに開いた。顔を覗かせたのはザックだった。バルガとリトも、後ろで気まずそうに立っている。
店内の喧騒が、一瞬だけ途切れた。
「――生きて帰ったか」
ザックが短く言った。以前のような長い口上はなかった。
「はい」アルトが居住まいを正して答えた。「ザックさんたちも、ご無事で」
「無事とは言えん。無様に逃げただけだ」ザックは自嘲するように笑った。それから、アルトを見た。「お前、名乗ったんだってな。あれを前にして」
「はい。……震えてましたけど」
「知ってる。俺は、名乗った後に、逃げた」
短い沈黙が落ちた。それを破ったのは、アルトだった。
「――嫌いじゃないぞ、そういうの」
出発の朝、ザックがアルトに向けた言葉と、同じだった。ザックは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
リトが場を和ませるように口を挟んだ。「うちのリーダー、あれから口上が半分になってさ。店としては助かるだろ?」
「助かります」オレは思わず即答した。
夜が更けるにつれ、ゴルドの飲みっぷりはいよいよ加速していった。初めて出会った夜とそっくり同じ調子で、杯を重ねていく。卓の上には空になった酒瓶が、戦果を誇示するかのように並んでいった。店内の熱気は、揺らめく灯りとともに少しずつ緩やかな夜のとろみを帯びていく。隅の卓では誰かの鼾がすでに聞こえ始めていたし、ドランはいつの間にか卓に頬杖をついたまま半分白目を剥いていた。
そして、案の定。
ゴルドの首が、こくりと揺れた。次の瞬間、瓶が倒れる音と椅子が軋む音がほぼ同時に響き、巨体がカウンターに豪快に突っ伏した。一拍遅れて、盛大な鼾が上がる。
「ぐー、すぴー」
店主が苦笑しながら、こちらを見た。
「ミア、どうする、これ」
「任せてください」
オレはあの日と同じ台詞を、今度は迷いなく口にした。カウンターに屈み、ゴルドの耳元に囁く。あの夜と何もかもがそっくりだった。違うのは、あの日は初対面の酔っ払いに過ぎなかった相手が、今は罰金二十八枚分の腐れ縁を積み上げたパーティーの一員だということくらいだ。
「――後ろ、取られてますよ」
反応はなかった。爆睡していた。
「あ、駄目だ、これ」
店内が沸いた。誰かが指笛を鳴らし、誰かが卓を叩いて囃し立てる。ドーマスまでもが涙を浮かべんばかりに笑っていた。あの日と同じ手は、今夜は通用しなかった。
「まあ、いいか」オレはあの日聞いた台詞を、そのまま真似て呟いた。「今日くらいは、寝かせてあげましょう」
厨房からシチューの匂いが漂ってきた。両手に三皿乗せて運ぶ店主の足元は危なげない。今夜は、その揺れに意識を持っていかれることはもうなかった。信用というのは、積み上げるのに二十日、失うのは一皿の間だけで済むものらしい。
その様子を見て、アルトが笑っていた。以前より、その笑い方に力みがなくなっている。鞘に添えた指先も、今夜は確かめるようにではなく、ただ自然に置かれているだけだった。卓の端に置かれた手拭いは、いつの間にか誰かがこぼした酒を拭うのに使われていた。不安を畳んでいた布が、今夜は他人のために使われている。
宿の方では、クルルの瞼が完全に下がっていた、と後で聞いた。今度ばかりは、指標は正しかったことになる。
セラが帳簿を閉じながら、独り言のように呟いた。
「今月の送金額、確定ね。モンメリー二十八枚。マルヴァ姐さんへ」
「ピィにして、二百八十枚」オレの頭は勝手に換算を始めていた。「スープに換算したら、百四十杯分ですね」
「うちの月の食費が、モンメリー二枚と四ピィだったわよね」セラが事もなげに頷いた。
「会ったこともない人に、食費一年分近く、送ってるんですね、うち」オレの口から、換算の続きがこぼれた。
「毎月のことだから、今更よ」
パタン、と乾いた音を立てて、帳簿の表紙が閉じた。その音がやけに大きく店内に響いた。
その名前が出た瞬間だった。
店の扉が静かに開き、一人の旅装の男が入ってきた。街の外から来た、行商の連絡役らしい男だった。外の夜気が、扉の隙間から一筋、店内の熱気を割って入り込んでくる。土埃と長旅の匂いをまとった男は、店の喧騒に気圧されたように一瞬、戸口で立ち止まった。
「ここに、ゴルドさんという方は」
「そこで潰れてますけど、何か」
男は苦笑しつつ、懐から一枚の手紙を取り出した。封蝋も何もない、旅慣れた手つきで折られただけの簡素な手紙だった。
「マルヴァさんから、言伝を預かってきました。――『そろそろ、そっちに戻る』とのことです」
場の空気が一瞬で変わった。さっきまでの喧騒が、潮が引くように静まっていく。誰も彼も、聞いてはいけない話をうっかり聞いてしまったような顔をしていた。ドランでさえ、半分閉じかけていた瞼を大きく見開いている。
セラの手が止まった。アルトが居住まいを正した。眠っていたはずのゴルドの肩が、ぴくりと動いた。寝ているのか聞こえているのか、判然としない反応だった。
「戻ってくる、んですか」
オレが尋ねると、セラは珍しく、少し緊張の滲む顔で頷いた。
「そうみたいね。時期は未定だけど」
「その人が戻ったら、何か変わるんですか」
「変わるでしょうね。良くも悪くも」
「良くも悪くもって、セラさんでも読めないんですか、その先」
「読めないわよ。あの人だけは、いつも変数の外にいるもの」
セラらしくない言い草だった。損得の計算からはみ出す存在がいる、という事実そのものが、彼女にとってはひどく座りの悪いものらしい。
セラの声に、いつもの淡々とした調子とは違う、微かな熱が混じっていた。
オレの胸の奥で、あの輪郭だけの記憶がまた疼いた。効かせる女。
同一人物だという説は、悪くない。だが、似た女、という言い方は、そもそも別人を指している可能性だって捨てきれない。この世界は、記憶がやけに不確かだ。ゴルドの武勇伝一つとっても、語るたびに細部が変わる。だとしたら、「まるでマルヴァだ」という言葉自体、オーレンの記憶違いという線もある。……いや、それにしては、店中がこれだけ静まり返るほどの名前だ。ただの記憶違いで、これほどの空気は作れない気がする。堂々巡りだった。考えれば考えるほど、輪郭は近づくくせに、像は結ばれない。
誰なんだろう、その人は。
オレはその人を、金額でしか知らない。モンメリー二十八枚分の、抑止力。……どんな顔で、この送金を受け取ってるんだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、オレは賑やかな店内を見渡した。突っ伏したまま鼾をかくゴルド、帳簿を閉じたセラ、穏やかに微笑むアルト、そしてこの店に集う見慣れた顔ぶれ。ランプの灯りは相変わらず橙色に揺れ、麦酒と揚げ物の匂いはまだ店の隅々に居座っていた。
書類の上では、まだ更新されたばかりの新しい登録に過ぎない。だが、この賑わいの中に座る自分の位置がもう仮のものではないことを、オレははっきりと感じていた。
四人目という言葉が、今夜、ようやく書類の外側に出た。
そして、まだ見ぬ誰かが、もうこちらへ歩き出している。封蝋もない手紙が一枚、それだけを先に告げに来た。
目覚めた朝、最初に届いた情報は「重い」だった。今夜、この店で感じているものは、それとよく似て、まるで違う。重いのに、軽い。帳簿のどの欄にも書けない重さだった。