第19話 生還
第19話 生還
竜が目の縁を爪で拭った。岩を裂けそうな先端が、そこだけはひどく慎重に動く。
『――久方ぶりに、腹の底から笑った』
その声にはもう、先ほどまでの重苦しさはなかった。代わりに、どこかすっきりとした響きがあった。
『古い流儀がある。私を笑わせた者は、帰す。近ごろは忘れていた流儀だがな』
「え、それって……」
『貴様らは、帰していい。行け』
あっけないほど簡潔な言葉だった。オレはしばらく、その意味を飲み込めずにいた。
「本当に、いいんですか」
『二言はない。それに――』竜はわずかに目を細めた。『貴様のような羽虫を焼いても、後味が悪いだけだ。笑わせておいて、それを殺すほど、私も無粋ではない』
オレは震える足で立ち上がり、深く頭を下げた。他の三人もそれに続いた。ゴルドはまだ痺れの残る拳をさすりながら、深々と一礼していた。アルトは涙を堪えるような顔で、剣の柄を握りしめていた。セラは珍しく何も言わず、ただ頭を下げていた。
「待ってください。あと、一つだけ」
ゴルドが、背後で息を呑んだ。
オレも呑んだ。今のは、助かった者がする追加注文としては、ずいぶん図々しい。
「アタシたち、あの荷馬車の護衛なんです。峠を越えて、荷物を届けないといけなくて。通っても、いいですか」
『帰せと言った次には、先へ行かせろと言うか』
「帰る前に、納品があるんです」
自分で言って、嫌になった。命の次に納期が来る人生って何だ。
けれど竜は、もう火を見せなかった。太い尾の先が道を塞いでいた岩を一つ脇へ転がす。道が、荷馬車一台ぶん広くなった。
『今日ここにいる者は通れ。荷もだ。私の寝床へ寄るな。それから、次の羽虫どもに勝手な約束をするなよ』
「はい。今日の、この隊商だけですね」
『帰りまで面倒を見るつもりはない』
「承知しました」
セラが屈み、落ちた帳簿を拾った。挟まっていた砂を払う手は震えていたが、うなずき方だけは、いつもの契約を確かめるときと同じだった。
竜はゆっくりと身を起こし、山の奥へとその巨体を引き返らせていった。木々が揺れ、岩肌が軋む音が次第に遠ざかっていく。
誰も、しばらく動けなかった。
声が出なかった。喉は動いているのに、息だけが漏れていく。耳の奥ではまだ、あの笑い声の低い残響が鳴っていた。焦げた岩の匂いが鼻に残り、背中の汗が今ごろになって冷え始める。試しに指を握ってみると、感覚が半拍遅れてついてきた。生きている、という情報が身体の隅々まで行き渡るのに、それだけの時間が要った。
最初に膝をついたのはアルトだった。鞘に収めた剣を杖にして、ずるずるとその場に座り込む。セラは立ってはいたが、胸に抱えた帳簿へ爪が食い込むほど力がこもっていた。ゴルドは感覚の戻らない拳を何度も開いては閉じ、「……長生きは、するもんだな」と誰にともなく笑った。
「帰れる、んですよね、これ」
オレが恐る恐る呟くと、ゴルドがようやく、いつもの調子に戻った声で答えた。
「帰れる。帰れるが、嬢ちゃん、腰が抜けてるぞ」
「え」
言われて初めて気づいた。膝が完全に笑っている。立っているのがやっとだった。情けない話だが、恐怖というやつは、去り際にまとめて請求書を寄越すものだった。
「無理もない」ゴルドが豪快に笑った。「竜と渡り合って、腰が抜けないほうがどうかしてる」
「渡り合ったっていうか、ただ、思ったこと叫んだだけです」
「それを、渡り合ったって言うんだ」
本当に効いたのか、それとも、ただ機嫌のいい気まぐれに救われただけなのか。オレ自身にも、その境界線は分からなかった。竜の言う「笑わせた者は帰す」という流儀がオレの読みへの正当な対価なのか、あの一瞬、たまたま虫の居所が良かっただけなのか。答え合わせのしようがない問いを抱えたまま、それでも、生きて帰れるという事実だけは動かなかった。
隊商は、少し下の折り返しまで退いていた。最後尾の荷馬車を曲がり角の内側に寄せ、御者たちは馬の目を布で覆っている。逃げる途中で外れたらしい箱が、道の端に斜めに落ちていた。
荷台の陰からドーマスの顔が出た。
「ぶ、無事だったのか!」
「はい。たぶん、四人とも」
オレが振り返って数えると、ゴルドまで同じことをしていた。目が合い、意味もなく二人でうなずいた。
「竜は。あれは、どこに」
「奥へ帰りました。峠は、通っていいそうです。ただし、今ここにいる隊商だけ。帰りの約束はしてません」
セラが震える声を押さえ、条件を一つずつ繰り返した。聞き終えたドーマスは、すぐには喜ばなかった。御者たちを見て、それから道の上手を見た。
「行けるか」
問いかけは、護衛だけでなく全員に向けられていた。
一人の御者が、手綱を持ったまま顔を覆った。もう一人がその肩に手を置く。ゴルドは拳を握りかけ、痛みに顔をしかめた。
「俺は行ける。だが、こっちは治してもらってからだ」
「治療するわ。全員、まず水を飲んで。返事はそれから」
オレは革袋を受け取った。口に近づけると、縁が歯にかちかち当たった。笑おうとして、上手くいかなかった。
アルトが袋の底に手を添えてくれた。
「ゆっくりで、大丈夫です」
水はぬるかった。喉を通って胃に落ちて、ようやく、自分がさっきから息を吸ってばかりだったことに気づいた。
全員が動けると確認できるまで、誰も出発を急がせなかった。
御者の一人が、落ちた箱の蓋を開けた。中の陶器が二つ割れていた。破片を拾い、布で包み直し、伝票の端に何かを書きつける。その地味な作業を、オレはしばらく見ていた。
世界が終わりそうだった場所で、割れた皿の枚数を数えている。
そのことが、急にありがたくなった。
手当てを終えたゴルドは包帯をひらひらさせた。
「明日には飲めるな」
「今日も飲むつもりだったんですか」
「無事を祝うのは、大事だろう」
「だったら、両手が無事なうちに祝っておいてください」
返した途端、御者が一人吹き出した。それにつられて、今度はオレも笑えた。
暮れる前に隊商は動き出した。竜がどけた岩の横を、馬が一頭ずつ慎重に通る。誰も寝床の方を見ようとはしなかった。アルトだけが一度振り返り、すぐ前へ向き直った。
「僕、名乗れました」
馬の足音に紛れるような、小さな声だった。
「……役には、立ちませんでしたけど」
「アタシ、アルトさんが声を出せたから、続けられたんだと思います」
怖いのは、オレだけではなかった。そのことを、震えた名乗りが教えてくれた。上手く言えずにいると、アルトはうつむいて、剣の鞘についた土を親指で落とした。
「じゃあ、次も。声くらいは」
「はい。アタシが黙っちゃったら、お願いします」
次、という言葉が、二人の間に自然に出た。
その夜は、竜のいる岩場から十分離れた窪地で休んだ。翌朝、峠の頂上を越えたところで、一羽の鳥が鳴いた。少し遅れて二羽目が応えた。誰が最初に立ち止まったのか分からない。隊商は揃って、しばらくその声を聞いていた。
胸の奥に、遅れて何かが満ちてきた。バートンの顔がほどけたときに感じたものと似ている。息を吸うたび、身体の内側に少しずつ空きができる。
強くなったのだろうか。それとも、まだ腰が抜けているだけか。
試しに石を蹴りかけて、やめた。レベルを確かめる方法としては、あまりに情けない。
さらに一日かけて山道を下り、バルコ商業圏の門へ入った。荷車の列、焼いた麦の匂い、威勢のいい値切り声。人間の声が多すぎて、かえって落ち着かなかった。
取引先の倉庫では、戸口に立った男が、ドーマスを見るなり伝票を巻いた。
「来たか。昨日から、門に人をやってたんだぞ」
「すまん。いろいろあった」
「顔を見りゃ分かる。先に下ろそう」
男は事情を聞くより先に、倉庫の扉を開けた。荷を運び込む若者たちが走ってくる。ドーマスは一つずつ荷札を読み上げ、返る声を聞くたびに、肩の位置を下げていった。
陶器の破損についても、隠さずに伝えた。取引先の男は割れた分を確かめ、別紙に記した。
「それでも、よく持ってきてくれた。間に合ったよ」
その一言で、ドーマスの手が止まった。
伝票を握る指が白くなり、それから、ゆっくり緩んだ。オレは、あの人もずっと怖かったのだと、やっと分かった。
精算は、倉庫脇の小部屋で行われた。ドーマスは約束の五十モンメリーを十枚ずつ五列に並べた。セラが二度数え、受領の署名をする。
それとは別に、二枚の銀貨がオレの前に置かれた。
「これは私から、ミアさんに」
「そんな、もう、十分いただいてますから」
「依頼料は四人に払った。これは、あそこで追加のお願いをしてくれた分だ」
竜に、納品があると言ったことらしい。
「命だけ助かったところで、荷を捨てていたら、帰ってからどうにもならなかった。ありがとう」
礼を言われて、初めて、本当に帰せてよかったと思えた。自分たちだけでなく、この人も、ここへ。
セラを見た。彼女はうなずき、共通の袋とは別に、小さな紙を出した。二モンメリー。ミア個人への心付け。用途まで書かれると、かえって照れた。
帰りは南の街道を使うことにした。三日余計にかかるが、竜の寝床を通らずに済む。ドーマスも御者たちも、追加の道中の宿代を惜しまなかった。セラは新しい行程を書き込み、「帰りまで面倒を見ない、だものね」と一度だけ、峠を振り返った。
ハイベルへ戻る道中、ザック隊のその後についても聞いた。三人は竜から逃げ延びた後、峠の入り口付近で力尽きるように座り込んでいたところを別の商隊に拾われ、一足先にハイベルへ帰り着いていた。街では「竜に襲われて命からがら逃げ帰った勇者一行」の話が、尾ひれをつけて広まっているという。
戻ってきたハイベルは、拍子抜けするほどいつも通りだった。門の衛兵は欠伸を噛み殺し、パン屋の煙突は同じ煙を吐き、市場の呼び込みは同じ節で客を呼んでいる。あれだけのことがあったのに、世界のこちら側では何一つ起きていなかった。その当たり前が、妙に染みた。
変わったのは街ではなく、視線の方だった。噂を聞きつけた人々が、ちらほらとこちらに目を向けてくる。ザック隊の話とは違う、包帯はあっても四人揃って戻ってきた一行に、多くの人が首を傾げていた。露店の商人が手を止め、通りすがりの子供が指を差し、誰かが「本当に、あの峠から帰ってきたのか」と小声で囁くのが聞こえた。
店主が遠目にこちらを見つけるなり、樽を片手に駆け寄ってきた。「ミア! 無事だったか!」その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
ギルドの前では、古竜討伐の常設依頼が風に揺れていた。角が少しめくれている。
あれを剥がすようなことは、していない。オレは紙の角だけ押さえ、入口へ向かった。
ギルドに帰還の報告に向かうと、案の定、大騒ぎになった。
「は? 竜と、遭遇した?」ドリスが目を丸くした。「それで、その、四人とも帰ってきたんですか?」
「はい」
「討伐、したんですか」
「してないです。話をしただけで」
「話を、しただけ……?」
ドリスは報告書の用紙を手に、明らかに困惑していた。羽根ペンの先は書き出しの位置で止まったまま、インクの滴だけが落ちて小さな染みを作った。書式には「討伐完了」「討伐失敗」「撤退」の欄はあっても、「雑談の末に笑わせて帰された」という項目は存在していなかった。
「あの、これ、どう書けばいいんでしょう」
「アタシたちにも、分かりません」
セラが横から冷静に補足した。「事実として、竜との遭遇があり、交戦は一度、討伐はしていない。ゴルドの手は治療済み。通行を認められて隊商は目的地に到着、四人とも生還。それ以上の説明は、私たちにも難しいわね」
報告の中身は、受付から奥へ、声の低さを変えながら伝わっていった。若い職員は身を乗り出し、「竜って、本当にいたんですか」と目を輝かせる。駆け出しの冒険者たちは、英雄譚でも聞くように囃し立てた。だが、奥の卓にいた古参たちは笑わなかった。一人、また一人と手を止めて、値踏みとも警戒ともつかない目でこちらを見る。竜という言葉の重さを知っている者ほど、口数が減っていった。同じ報告が、聞く者の年季によって、まるで別の話として届いているようだった。
その騒ぎを聞きつけて、奥の部屋から一人の老人が出てきた。ギルドの古株で、若い頃は前線で名を馳せたという相談役の男――オーレンという名だと、後で知った。
オーレンは報告の内容を聞くなり、みるみる顔色を失っていった。
「竜と対面して、誰も欠けず、しかも、笑わせて帰ってきた、だと?」
「はい」
オーレンはしばらく、口をぱくぱくと動かしていた。何かを言おうとして、言葉にならない、そんな様子だった。
「まさか……いや、そんな……」
その目がオレを、まじまじと見つめた。値踏みではない。遠い記憶の中の誰かと、目の前の姿を重ねようとしているような視線だった。
「――まるで、マルヴァだ」
その一言が、静まり返ったギルドの受付にはっきりと響いた。
オレは思わず聞き返した。
「マルヴァさんって、ゴルドさんの奥さんの?」
オーレンの顔がさらに青ざめた。周囲にいた古参の冒険者たちも、何人かがはっとした様子でこちらを見ている。
「奥さん、とな。……ゴルド、まだ話しておらんのか」
「竜とやり合ったとは、聞きました。でも、何をしたのかは教えてもらえなくて」
オーレンは何かを言いかけて、それからゆっくりと首を振った。
「いや、いい。今は、いい」
言葉の途中で扉を閉めるような、そんな引き際だった。
ゴルドだけが何も言わなかった。酒場でのあの夜、「うちの嫁だ」とうっかり漏らした時と同じ目をしていた。
その名前が耳に届いた瞬間、疼いたのは頭の奥ではなく喉だった。何かの声が、出かかったのだ。誰の声が何を言おうとしたのか、それだけが分からないまま。効かせる女。峠で、竜が語った「昔、似た女がいた」という言葉と、今オーレンが漏らした「マルヴァ」という名前が、頭の中でゆっくりと重なり始めていた。
だが、その答えにまだ辿り着けるはずもなかった。
結局、その日の報告書には「竜との交戦あり、討伐せず。通行許可を得て依頼完遂、パーティー全員生還」とだけ、素っ気なく記された。ドリスは何度も書き直しては消し、最後には諦めたようにその一文で筆を置いた。
オーレンはその様子をしばらく眺めていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「――書式に収まらん報告書を書かされるのは、儂の知る限り、二人目だ」
それだけ言うと、あとは何も語らないまま奥の部屋へと戻っていった。その背中が、やけに小さく見えた。
ドリスは報告書を乾かす間、オレの登録票を脇に並べていた。職業、遊び人。レベル、不明。あの朝、埋められなかった欄は、帰ってきても空いたままだった。
「ここ、変えた方がいいですか」
「自己申告なら、いつでも。でも、竜に会ったからいくつ、という基準はありませんよ」
「ですよね」
空欄を指でなぞりかけ、乾いていないインクを見て手を引いた。
強くなったのかどうか、まだ分からない。でも、戻ってきた。
外へ出ると、酒場の方角から揚げ物の匂いがした。店主は樽を抱え直して、オレたちより先を歩いている。
「今夜は席を空けてある。寄ってけよ、四人とも」
返事をする前に、腹が鳴った。
ゴルドが笑い、アルトもつられて笑った。セラだけが「まず手を洗って」と言った。