第19話 生還
第十九話 生還
竜はしばらく笑い続けた後、ようやく落ち着きを取り戻した。
『――久方ぶりに、腹の底から笑った』
その声にはもう、先ほどまでの重苦しさはなかった。代わりに、どこかすっきりとした響きがあった。
『古い流儀がある。私を笑わせた者は、帰す。数百年、適用したことのない流儀だがな』
「え、それって……」
『貴様らは、帰していい。行け』
あっけないほど簡潔な言葉だった。オレはしばらく、その意味を飲み込めずにいた。
「本当に、いいんですか」
『二言はない。それに――』竜はわずかに目を細めた。『貴様のような羽虫を焼いても、後味が悪いだけだ。笑わせておいて、それを殺すほど、私も無粋ではない』
オレは震える足で立ち上がり、深く頭を下げた。他の三人もそれに続いた。ゴルドはまだ痺れの残る拳をさすりながら、深々と一礼していた。アルトは涙を堪えるような顔で、剣の柄を握りしめていた。セラは珍しく何も言わず、ただ頭を下げていた。
竜はゆっくりと身を起こし、山の奥へとその巨体を引き返らせていった。木々が揺れ、岩肌が軋む音が次第に遠ざかっていく。
誰も、しばらく動けなかった。
声が出なかった。喉は動いているのに、息だけが漏れていく。耳の奥ではまだ、あの笑い声の低い残響が鳴っていた。焦げた岩の匂いが鼻に残り、背中の汗が今ごろになって冷え始める。試しに指を握ってみると、感覚が半拍遅れてついてきた。生きている、という情報が身体の隅々まで行き渡るのに、それだけの時間が要った。
最初に膝をついたのはアルトだった。剣を杖にして、ずるずるとその場に座り込む。セラは立ってはいたが、胸に抱えた帳簿へ爪が食い込むほど力がこもっていた。ゴルドは感覚の戻らない拳を何度も開いては閉じ、「……長生きは、するもんだな」と誰にともなく笑った。
「帰れる、んですよね、これ」
オレが恐る恐る呟くと、ゴルドがようやく、いつもの調子に戻った声で答えた。
「帰れる。帰れるが、嬢ちゃん、腰が抜けてるぞ」
「え」
言われて初めて気づいた。膝が完全に笑っている。立っているのがやっとだった。情けない話だが、恐怖というやつは、去り際にまとめて請求書を寄越すものだった。
「無理もない」ゴルドが豪快に笑った。「竜と渡り合って、腰が抜けないほうがどうかしてる」
「渡り合ったっていうか、ただ、思ったこと叫んだだけです」
「それを、渡り合ったって言うんだ」
本当に効いたのか、それとも、ただ機嫌のいい気まぐれに救われただけなのか。オレ自身にも、その境界線は分からなかった。竜の言う「笑わせた者は帰す」という流儀がオレの読みへの正当な対価なのか、あの一瞬、たまたま虫の居所が良かっただけなのか。答え合わせのしようがない問いを抱えたまま、それでも、生きて帰れるという事実だけは動かなかった。
峠を下る足取りは、来た時よりずっと軽かった。とはいえ、軽いのは気持ちだけで、実際の足は鉛のように重い。膝は数歩ごとにまた笑い出し、そのたびにアルトの肩を借りた。全員、無言のまま峠の入り口を目指して歩き続けた。時折誰かが小さく笑い出し、それにつられてまた誰かが笑う。緊張の糸が切れた後の、締まりのない笑いだった。ゴルドは途中から鼻歌まで歌い出したが、その調子は何度も裏返った。強がりの声も、膝と同じで笑うのだ。
日は稜線に近づき、行きには灰色一色に見えた岩肌が、うっすらと赤みを帯びていた。同じ道のはずだった。行きは景色を見る余裕が、どこにもなかったというだけの話だ。途中の湧き水で顔を洗うと、冷たさが頬に刺さって、ようやく視界の輪郭が戻ってきた。セラは歩きながら何かを暗算しかけて、途中でやめた。「今日の分は、換算のしようがないわね」と小さく言ったきり、また黙って歩いた。
峠を半分も下りた頃、最初の一羽が鳴いた。少し遅れて二羽目が応え、気づけば、行きに消えていた音がそっくりそのまま戻ってきていた。世界は竜の縄張りの一歩外側から、何事もなく続いていたらしい。
胸の奥に、遅れて何かが満ちてくるのを感じた。バートンの顔がほどけた時の、あの満ちる感じ。あれの、桁が違うやつが今になってどっと来た。竜一頭分。……経験と呼ぶには、あまりに雑な質量だった。
隣を歩くアルトが、ぽつりと言った。「僕、名乗れました。……役には、立ちませんでしたけど」
「立ちましたよ」オレはまだ震えの残る声で答えた。「アルトさんが名乗ったから、あの竜、本音が出たんです。……本音って言うのも、変ですけど」
アルトは何か言いかけて、結局、小さく頷くだけだった。
峠を戻る道すがら、逃げていたはずの隊商とも合流できた。ドーマスと御者たちは、遠目に竜の動きが止まったのを見て、恐る恐る引き返してきたのだという。
「ぶ、無事だったのか!」
ドーマスが涙目で駆け寄ってきた。
「はい、なんとか」
「一体、何があったんだ。あの竜が大人しく引き下がっていくのを見た時は、腰を抜かしたぞ」
「アタシたちも、腰、抜けてますから」
オレたちはその日のうちに峠を抜けた。隊商の目的地までの道のりは、拍子抜けするほど何事もなく終わった。バルコ商業圏に到着すると、ドーマスは取引先の男と固く握手を交わした。この取引が駄目になったら終わり、と出発の朝に言っていた男の背中が、今日は一回り大きく見えた。取引を終えたドーマスは、約束の五十枚を一枚も違えず数え、その上に心付けまで包んでくれた。五十枚は書類上の対価だ。だが、本当に効いたものは、たぶん、あの背中の方だった。
ハイベルへ戻る道中、ザック隊のその後についても聞いた。三人は竜から逃げ延びた後、峠の入り口付近で力尽きるように座り込んでいたところを別の商隊に拾われ、一足先にハイベルへ帰り着いていた。街では「竜に襲われて命からがら逃げ帰った勇者一行」の話が、尾ひれをつけて広まっているという。
戻ってきたハイベルは、拍子抜けするほどいつも通りだった。門の衛兵は欠伸を噛み殺し、パン屋の煙突は同じ煙を吐き、市場の呼び込みは同じ節で客を呼んでいる。あれだけのことがあったのに、世界のこちら側では何一つ起きていなかった。その当たり前が、妙に染みた。
変わったのは街ではなく、視線の方だった。噂を聞きつけた人々が、ちらほらとこちらに目を向けてくる。ザック隊の話とは違う、無傷で、しかも笑顔で戻ってきた一行に、多くの人が首を傾げていた。露店の商人が手を止め、通りすがりの子供が指を差し、誰かが「本当に、あの峠から帰ってきたのか」と小声で囁くのが聞こえた。
店主が遠目にこちらを見つけるなり、樽を片手に駆け寄ってきた。「ミア! 無事だったか!」その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
ギルドの前まで来ると、掲示板の隅にあの二枚が、相変わらず貼られたままなのが目に入った。「魔王討伐 常設 達成者なし」「古竜討伐 常設 高額報酬 達成者なし」。……会ってはきたんですけどね、とオレは心の中だけで申告した。貼り紙は今日も、剥がされる気配がなかった。
ギルドに帰還の報告に向かうと、案の定、大騒ぎになった。
「は? 竜と、遭遇した?」ドリスが目を丸くした。「それで、その、無傷で?」
「はい」
「討伐、したんですか」
「してないです。話をしただけで」
「話を、しただけ……?」
ドリスは報告書の用紙を手に、明らかに困惑していた。羽根ペンの先は書き出しの位置で止まったまま、インクの滴だけが落ちて小さな染みを作った。書式には「討伐完了」「討伐失敗」「撤退」の欄はあっても、「雑談の末に笑わせて帰された」という項目は存在していなかった。
「あの、これ、どう書けばいいんでしょう」
「アタシたちにも、分かりません」
セラが横から冷静に補足した。「事実として、竜との遭遇があり、戦闘は不成立、隊商は無事に目的地に到着、パーティーは全員無傷で帰還。それ以上の説明は、私たちにも難しいわね」
報告の中身は、受付から奥へ、声の低さを変えながら伝わっていった。若い職員は身を乗り出し、「竜って、本当にいたんですか」と目を輝かせる。駆け出しの冒険者たちは、英雄譚でも聞くように囃し立てた。だが、奥の卓にいた古参たちは笑わなかった。一人、また一人と手を止めて、値踏みとも警戒ともつかない目でこちらを見る。竜という言葉の重さを知っている者ほど、口数が減っていった。同じ報告が、聞く者の年季によって、まるで別の話として届いているようだった。
その騒ぎを聞きつけて、奥の部屋から一人の老人が出てきた。ギルドの古株で、若い頃は前線で名を馳せたという相談役の男――オーレンという名だと、後で知った。
オーレンは報告の内容を聞くなり、みるみる顔色を失っていった。
「竜と対面して、無傷で、しかも、笑わせて帰ってきた、だと?」
「はい」
オーレンはしばらく、口をぱくぱくと動かしていた。何かを言おうとして、言葉にならない、そんな様子だった。
「まさか……いや、そんな……」
その目がオレを、まじまじと見つめた。値踏みではない。遠い記憶の中の誰かと、目の前の姿を重ねようとしているような視線だった。
「――まるで、マルヴァだ」
その一言が、静まり返ったギルドの受付にはっきりと響いた。
オレは思わず聞き返した。
「誰ですか、それ」
オーレンの顔がさらに青ざめた。周囲にいた古参の冒険者たちも、何人かがはっとした様子でこちらを見ている。
「知らないのか、その名を」
「はい、初めて聞きました」
オーレンは何かを言いかけて、それからゆっくりと首を振った。
「いや、いい。今は、いい」
言葉の途中で扉を閉めるような、そんな引き際だった。
ゴルドだけが何も言わなかった。酒場でのあの夜、「うちの嫁だ」とうっかり漏らした時と同じ目をしていた。
その名前が耳に届いた瞬間、疼いたのは頭の奥ではなく喉だった。何かの声が、出かかったのだ。誰の声が何を言おうとしたのか、それだけが分からないまま。効かせる女。今日、竜が語った「昔、似た女がいた」という言葉と、今オーレンが漏らした「マルヴァ」という名前が、頭の中でゆっくりと重なり始めていた。
だが、その答えにまだ辿り着けるはずもなかった。
結局、その日の報告書には「竜との接触あり、戦闘不成立、依頼完遂、パーティー全員生還」とだけ、素っ気なく記された。ドリスは何度も書き直しては消し、最後には諦めたようにその一文で筆を置いた。
オーレンはその様子をしばらく眺めていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「――書式に収まらん報告書を書かされるのは、儂の知る限り、二人目だ」
それだけ言うと、あとは何も語らないまま奥の部屋へと戻っていった。その背中が、やけに小さく見えた。
帳場の棚には、綴じられた報告書が何百と眠っている。今日の一枚も、明日にはあの中に紛れて見分けがつかなくなるのだろう。だが、書けなかったことの方は、綴じようがない。竜の笑い声も、五十枚より効いた背中も、喉の奥で出かかった誰かの声も――オレたちが峠から持ち帰ったものの大半は、書式の外側にしか、置き場がなかった。