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第18話 大勝負

第十八話 大勝負

 風が、戻ってきていた。

 さっきまで竜の呼吸に吸い寄せられていた峠の空気が、また普通の風に戻って、汗で湿った首筋を撫でていく。冷たい。その冷たさで、自分がずっと汗をかいていたことに初めて気づいた。握り締めていた指を開くと、掌に爪の痕が四つ、白く残っていた。

 峠の空は近かった。手を伸ばせば雲の腹に触れられそうな高さで、乾いた風が岩肌を渡っていく。竜の巨体の向こうでは、傾きかけた陽が稜線を金色に縁取っていた。世界の終わりから一枚めくれた途端、景色というのは、こんなにも普通の顔で戻ってくるものらしい。

 竜が、ゆっくりと、その巨体を崖に寄りかかるように横たえた。攻撃の構えではない。むしろ、腰を落ち着けるような動きだった。岩壁が軋み、鱗と岩の擦れる重い音が、腹の底に響いた。

 『座れ、羽虫』

 「え」

 『座れと言った。もっとも、貴様に椅子を用意してやる義理はないがな』

 オレは恐る恐る、地面に膝をついた。膝が地面に触れた途端、そこから力が抜けて、ほとんど尻餅に近い形で座り込む。立っていられたことの方が、そもそも不思議だったのだ。後ろでゴルドとセラとアルトが、息を潜めてこちらを見ている。誰も動かない。動けない、というのが正しいのかもしれない。

 『喋るのは、何百年ぶりか』

 竜の声から、先ほどまでの怒気が少しずつ薄れていく。代わりに滲んできたのは、途方もなく長い時間を持て余した者だけが出せる、乾いた疲労の色だった。

 「喋る相手、いなかったんですか」

 『いた。何十人、何百人と。だが、あれは喋る、とは言わん。喚く、と言う』

 竜は、遠くを見るような目をした。

 『皆、同じだ。名乗りを上げ、剣を抜き、世界のためだの、名を上げるためだのと吼える。私が一撃で沈めれば、命乞いをする者と、最後まで喚き続ける者に分かれる。どちらも、退屈という点では同じだ』

 オレは、小さく頷いた。頷きながら、目は勝手に竜の顔を観察していた。眉間――と呼んでいいのか分からない、両目の間の鱗が、話しながら微かに寄る。人間なら、苦い酒を飲んだ時の顔だ。

 『ある者は、家族の名を叫んだ。ある者は、故郷の名を叫んだ。だが、言葉の中身が違うだけで、型は、いつも同じだ。決め台詞を用意してくる者すらいた。何度も練習してきたのだろうな、と分かる、ぎこちない抑揚だった』

 「……練習してきちゃったんですね、それ」

 言ってから、相槌として軽すぎたかと肝が冷えた。だが竜の目がじろりとこちらを向いて、また戻った。怒気は、なかった。

 『名乗りの口上が、年々長くなる。あれを聞いている間、私は何をしていればいいのだ』

 『言い直す者もいる。決め台詞を嚙むのだ、私の前で。仕切り直されても、こちらは毎回同じ顔をせねばならん』

 まずい、と思った時には、口の端が緩みかけていた。慌てて唇を結ぶ。笑うところではない。笑うところではないのだが、想像してしまったのだ。この巨大な生き物が、嚙んだ決め台詞の仕切り直しを、律儀に待ってやっている姿を。

 『武器を忘れて登ってきた者すらいた。忘れ物を取りに戻ると言って、そのまま戻らなかった』

 「それは、お客さ……竜さんが、正しいです」

 竜はそこで、小さく鼻を鳴らした。呆れとも懐かしさともつかない音だった。その鼻息だけで、オレの前髪がふわりと浮いた。

 オレは、聞くことに徹すると決めた。相槌は打つ。ただし、打ちすぎない。早すぎれば急かしているように聞こえるし、遅すぎれば興味がないと思われる。この身体が長年培ってきた接客の技術の中で、一番地味で一番効くのが、この「聞く」という行為だ。喋りたい客に必要なのは、たいてい正しい答えではなく、聞いてくれる相手だ。竜の言葉の切れ目を慎重に見極めながら、時折、小さく頷く。ただそれだけで、相手はまた次の言葉を継いでくれる。何百年分の孤独を溜め込んだ相手には、なおさら効くはずだった。

 この間合い、覚えがある。装備だけは新品の勇者様の身の上話を、酒を注ぎ足しながら聞き流した、あの夜の間合いだ。あの夜と違うのは、注ぎ足す酒がないことと、客の体長くらいのものだった。……くらい、で済ませていい差ではない気もするが。

 『準備運動もせずに登ってくる若造も増えた。装備だけは立派でな。中身が伴っておらん。今日の三人も、そうだった』

 「ザックさんたちですね」

 『名は知らん。知る価値もない』

 竜は、鼻から小さく息を吐いた。それだけで地面の砂利がぱらぱらと舞い上がった。

 それきり、竜はしばらく黙った。急かさない。沈黙も、話のうちだ。長話の客は、途中で必ず一度、言葉を探して黙る。そこで口を挟むと、続きは永遠に出てこない。オレは膝の上で手を重ねて、風の音を数えながら待った。七つ数えたところで、竜がまた口を開く気配がした。だからオレは、その気配より半拍だけ先に、そっと言葉を置いた。

 「大変だったんですね……何百年も」

 竜の目が、わずかに細まった。

 『貴様、私に説教でも垂れる気か』

 「垂れてないです。ただ、しんどそうだなって思って」

 『しんどい、か』

 竜は、その言葉を、まるで珍しい響きを味わうように口の中で転がした。

 『魔王という化け物がいる。私は、あれの手先ではない。だが、あれが何度討たれようと、世界は同じ形に戻る。誰かが討ち、誰かが平和を謳い、しばらくして、また現れる。均衡とは、そういうものだ』

 その声には、諦観よりも深い、底の見えない疲労があった。

 『何十回、何百回と見た。同じ茶番だ。私が何をしようと、しまいと、世界は同じ形に戻り続ける。だから、飽きた』

 オレはその言葉を、静かに受け止めた。ゴルドが以前、酒場で語った言葉と同じ響きがあった。「倒しても戻る。あれは、そういうもんだ」。ゴルドの諦観と、この竜の疲労は、たぶん同じ場所を見ている。人間の寿命で一周だけ見るのと、竜の寿命で何百周も見せられるのとでは、同じ景色でも、しみ込む深さが違うというだけで。

 『貴様らのような羽虫にとっては、一世一代の大事件なのだろうな。私にとっては、何百回目かの、代わり映えのしない一幕だ』

 陽が、また少し傾いた。竜の影が峠道に長く伸びて、オレたちも荷馬車の轍も、まとめてその中に入っていた。影の中は、少しだけ暖かかった。竜の体温なのか、単に風が遮られているだけなのか。分からないまま、オレはそのことを覚えていた。

 竜は、ふと、遠い目をした。

 『――昔、似た女がいた』

 オレは、思わず身を乗り出しそうになった。

 『名乗りもせず、命乞いもせず、私の前で、勝手なことを言った女だ。強いか弱いかなど、どうでもいいと言っていた。効くか効かないか、それだけを見ていると』

 頭の奥の、普段は手の届かない浅瀬で、古い疵に触れた時のような鈍い痛みが走った。熱くはない。ただ、確かにここに在る、と主張する種類の痛みだった。

 効かせる女。

 輪郭だけの記憶が、また浮かび上がってくる。今度は、これまでのどの時よりもはっきりと。誰の声で、いつ、どこで聞いた言葉なのか。輪郭は結ばない。だが、この竜の言う「昔、似た女」と、頭の奥に眠るその言葉が、今、確かに同じ場所を指し示している気がした。

 「その人、今、どこに」

 『知らん。何も語らずに去った女だ。名前すら、聞いていない。匂いだけは、覚えている』

 『あの女は、私を笑わせて、礼も言わずに帰っていった。……いや、一言だけ、残していったか』

 竜はそこで、ふっと言葉を切った。その先は語られなかった。

 オレはそれ以上、深追いしなかった。今この場で、それを掘り下げる状況ではない。掘り下げたい気持ちは、腹の底で膨らみ続けていたけれど。

 竜の話は、再び愚痴めいた調子に戻っていった。

 『考えてもみろ。私は、何もしていない。この山から、一度も動いていない。それなのに、羽虫どもは、勝手に私を悪者と決めつけ、勝手に名乗りを上げ、勝手に死んでいく。私が悪であるという前提そのものが、そもそも、誰が決めたのだ』

 その言葉が、オレの胸の奥の、ある場所に触れた。

 お前がいると迷惑。役立たず。

 夜中の、青白い光。びっしりと並んだ小さな文字。顔のない大勢が、こちらの言い分をひとことも聞かないまま、寄ってたかって決めつけていく。映像とも呼べない断片が、竜の言葉に引きずり出されて、次々と裏返っていった。あの頃の誰かの記憶。誰か、と他人行儀に置いておくには、あまりにも生々しい痛みを連れてくる記憶。何もしていないのに決めつけられる理不尽の味を、オレは――オレの中の誰かは、よく知っていた。

 『何百年、この理不尽に付き合わされている。誰も、それを理解しようとせぬ。誰も、私の言い分になど、耳を貸さぬ』

 相槌が、追いつかなくなった。

 腹の底が、かっと熱くなった。恐怖でも緊張でもない。もっと単純な、剥き出しの感情だった。堪える、堪えないの段階が、音もなく消えていた。理不尽に貼られたレッテルをただ黙って受け入れるしかなかったあの頃の記憶が、竜の愚痴に重なって一気に噴き上がってくる。誰にも聞いてもらえないまま溜め込んだ言葉というのは、こんなにも重いものなのか。他人事のはずなのに、身体の奥が煮えた。

 喉の奥から、あの節回しが、堰を切ったようにせり上がってきた。今までのように押し留める余裕は、もう残っていなかった。

 「――そんなん、しゃあないやろ!」

 声が峠に響き渡った。低く、荒く、これまでの高い声とはまるで違う声だった。

 「なんでそんな、うじうじ何百年も溜め込んどんねん! 言いたいことあるんやったら、その場で吠えたらええやろ! 黙って睨んで、勝手に絶望して、勝手に飽きて――それ、こっちに伝わらへんやん!」

 オレは、自分の口から出ている言葉に自分でも驚いていた。だが、止まらなかった。

 「あんたが何百年しんどかったんは、分かった! せやけど、その理不尽、こっちにぶつけたって、何にも変わらへんで! 文句あるなら、ちゃんと文句言えるだけの相手、探さなあかんやろ! たまたま通りかかった旅の連中、竈すみたいに焼いて、それで気ぃ晴れるんか、あんた!」

 言い終えた瞬間、峠に完全な静寂が落ちた。

 膝から下の感覚が消えた。心臓だけが、他人の拳みたいに胸の内側を殴り続けている。……今の、誰や。いや、違う、「誰だ」。頭の中の口調まで、まだ節回しが抜けていなかった。

 オレは、自分の荒い息だけを聞いていた。しまった、という後悔が遅れて押し寄せてくる。だが、もう言葉は戻らない。

 風の音がした。誰も、何も言わない。ゴルドの唾を飲む音まで聞こえそうな静けさの中で、オレは竜の目だけを見ていた。金色の瞳は、細まりも、燃えもしなかった。ただ、まん丸に見開かれていた。

 竜は、しばらく微動だにしなかった。

 それから。

 その巨大な喉の奥から、震えるような音が漏れ始めた。

 最初は、地鳴りかと思った。違った。

 笑い声だった。

 『ふ。ふはは。ふはははは!』

 竜が、天を仰いで笑い出した。その声は峠全体を揺らし、遠くの山肌から雪崩のような音が連鎖して聞こえてくるほどだった。

 『しゃあない、か! ――しゃあない、な!』

 竜は笑いながら、何度もその言葉を繰り返した。異国の飴玉を口の中で転がすような、不器用な節回しだった。

 『何百年ぶりだ、この感覚は。羽虫如きに、笑わされる日が来るとはな!』

 オレはその光景を、呆然と見つめていた。仲間たちも同じように言葉を失っている。ゴルドは口を半開きにしたまま固まり、アルトは剣の柄を握ったまま、放心したように竜を見上げていた。セラですら、帳簿を拾い上げる気力もなく、ただその場に立ち尽くしている。

 竜の笑い声は、しばらく峠に響き続けた。振動で、周囲の木々から枯れ葉がぱらぱらと舞い落ちてくる。傾いた陽が、笑いに揺れる鱗の上で細かく踊っていた。灰色がかった黒だとばかり思っていたその色が、揺れるたび、金にも緑にも見えた。まるで何百年分もの重石が一気に取り払われたかのような、そんな笑い方だった。

 膝から下に、じわじわと感覚が戻ってくる。まず膝、それから脛、最後に爪先。地面の砂利の硬さを、足の裏がゆっくりと思い出していく。オレはまだ座り込んだまま、笑い続ける竜を見上げていた。冷えていた指先に、血が通い直していく。峠の風は相変わらず冷たいのに、さっきまでとは別の冷たさだった。生きている者の肌に当たる、ただの風の冷たさだった。

 何かが、確かに変わった。それが良い方向への変化なのかは、まだ判断がつかない。だが少なくとも、あの渦を巻いていた業火とも冷気ともつかないものは、もう竜の喉の奥に静かに引っ込んだままだった。

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