第9話 自称勇者、参上
第九話 自称勇者、参上
その日は朝から、妙に慌ただしい噂が街を駆け巡っていた。「新手の勇者一行が来たらしい」「今度のはやけに声が大きいらしい」。露店の呼び込みの合間、荷馬車の御者同士の立ち話、パン屋の店先に並ぶ女たちの世間話、そんな端々に、同じ話題が転がっていた。
面白いのは、昼を回る頃には、噂の中身がもう食い違い始めていたことだ。一行は三人だと言う者がいれば、五人だと言う者がいる。馬で来たと言う者がいれば、徒歩だったと言う者もいた。まだ誰も本人を見ていないうちから、勇者様は着々と増えたり減ったりしている。オレはその噂を、大して気にも留めずに聞き流していた。この街には、こういう噂が定期的に流れ込んでは、また同じくらいの速さで忘れ去られていく。
それでも、日が傾く頃には、浮ついたものが街の空気そのものに移っていた。広場では子供らが棒切れを振り回して勇者ごっこを始め、串焼き屋台の親父は「今夜あたり勇者様が食いに来る味だよ」と、まだ見ぬ客の名前で串を売っていた。期待、と呼ぶには軽すぎる。祭りの前日の、演し物が何であってもかまわない類いの浮つき方だった。この街にとって勇者とは、希望というより、季節の風物詩に近い位置にあるのかもしれない。
夕刻、『陽気な冒険者』の扉が、いつもより大きな音を立てて開いた。
「――ここが、噂の酒場か!」
声からして、大きい。あまりに大きくて、カウンターの上のグラスが、かすかに鳴った。
入ってきたのは三人組だった。先頭の若い男は、胸を張り、腰の剣は鞘までぴかぴかに磨かれている。明らかに、まだ一度も本気で振っていない剣だ。装備一式、どれも真新しい。革鎧の折り目すら、まだ角が立っている。マントの裾には、旅の埃どころか折り目の筋すら残っていて、まるで昨日、仕立て屋から受け取ったばかりのようだった。
「我こそは勇者、ザック! この街に巣食う古竜を討伐すべく参上した!」
店内が、一瞬、しん、とした。
それから、何事もなかったかのように、酔客たちの雑談が再開した。誰も驚いていない。誰も拍手もしない。
……あれ? この温度差。
オレはカウンターの内側で、その反応の薄さに逆に驚いていた。「勇者」を名乗る人間が現れて、この街の反応が、天気の話でもされたかのように平坦だ。
「おい、聞いてるのか! 我は勇者だぞ!」
「勇者さん、いらっしゃい」オレは慣れた愛想笑いで応じた。「お飲み物は何になさいますか♪」
「む。反応が薄いな」
「この街、勇者さん、月に何人か来られるので」
「な、なに?」
ザックの後ろに控えていた、大柄な男が低く言った。「ザック、この街も他所と同じだ。勇者はもう、珍しくない」
「バルガ、黙っていろ。俺は他の勇者とは違う」
小柄な男が、へらへらと笑いながら口を挟む。「まあまあ、リーダー。飲もうぜ、飲もう。旅の疲れを癒すのも勇者の務めってな」
……この二人が、取り巻きらしい。バルガとリト。ザックの言葉に、どこか呆れも滲ませながら付き合っている空気があった。
三人はカウンター近くの席に着き、ザックは早速、身の上を語り始めた。
「聞け。俺は隣国の生まれでな、幼き頃より剣の才を見出され――」
語りは長かった。長すぎた。生まれ故郷の話から始まり、師匠との出会い、修行時代の苦労、そして「天啓を受けて勇者を名乗る決意をした夜」の話まで、脈絡たっぷりに続いていく。話の途中、ザックは何度も酒杯を掲げ、そのたびに中身がこぼれそうになりながらも、語りを途切れさせなかった。
オレは酒を運びながら、話の合間合間に相槌を打った。「へえ」「すごいですね」「それで?」。接客の技術というのは、こういう時に真価を発揮する。相手を気持ちよく喋らせ続ける相槌だけで、三十分は乗り切れる。三十分どころか、この調子ならもう一時間は保つだろう。相槌にも緩急がいる。「へえ」を連発しすぎると白々しくなるから、時々「それで?」を挟んで、続きを促す体を装う。手が空けば酒を注ぎ足し、話の腰を折らずに次のグラスへ移る。これも一種の職人芸だと、オレは密かに自負していた。
夕餉時の店内は、いつも通りの熱気だった。竈の火照りと人いきれ、こぼれたエールの匂い。ザックの声はその中でも一際大きく、隣の卓の客が二度ばかり迷惑げに振り返り、三度目には諦めて自分の話に戻っていった。オレは盆の上で杯を三つ捌きながら、耳だけはザックの語りに残しておく。話の山場で注ぎ足しに行くのが、こういう客への礼儀というものだ。
その途中、カウンターの隅で飲んでいたアルトに、ザックの目が留まった。
「――お前も、勇者か」
アルトは、びくりと肩を震わせた。「あ、はい、その、一応……」
「一応、とは何だ。勇者とは、名乗った瞬間から絶対的な自負を持つべきものだぞ」
「す、すみません……」
「なぜ謝る」
「つい……」
ザックは、値踏みするような目でアルトを眺めた。手拭いを意味もなく畳み直す動作、震えたままの声、装備の使い込まれた形跡のない剣。
「その剣、まさか、抜いたことがないのか?」
「あ、いえ、その、抜いたことは、あります、たぶん、数回は……」
「勇者の剣が、鏡面だと?」
ザックの声に、明らかな軽蔑の色が滲んだ。
オレは、その空気に、思わずカウンター越しに口を挟んでいた。
「お客様、うちの連れに、絡むのはやめてもらえます?」
声が、少し尖った。素の女声だ。
ザックの視線が、今度はオレに向いた。
「ほう。お前、なかなか気が強いな。名は」
「ミアです。ここの店員で、あと臨時のパーティーメンバーです」
「臨時? パーティーの一員が臨時とは、いかにも締まらん話だ」
「大きなお世話です」
ザックが、ニヤリと笑って腰を上げた。「まあいい。俺の連れになれば、そんな半端な立場からは卒業できるぞ。勇者のパーティーの一員、というのは名誉なことだ」
その手が、オレの手を取ろうとして伸びてくる。
パシンッ。
「触らないでください」
「……む、これは失敬」
ザックは、意外にもあっさり引いた。取り巻きのリトが、笑いを堪えるように肩を震わせている。
「ザック、フラれてやんの」
「フラれてはいない。丁重に断られただけだ」
「同じことだろ」
「違う」
このやり取りだけは、妙に人間味があった。
しばらくして、話題は本題――古竜討伐に移った。
「この街の奥、峠の向こうに、古竜が棲むと聞いた。ギルドの常設依頼、達成者なし。まさに、俺の勇者としての名を刻むにふさわしい相手だ」
「あの竜、詳しいこと知ってるんですか」
オレは、何の気なしに尋ねた。
「無論だ。全長は家四軒分はあろうかという巨躯、鱗は漆黒、業火を吐くという」
カウンターの奥から、酒を飲んでいた常連客のドランが、ぼそりと口を挟んだ。
「いや、俺が聞いた話じゃ、せいぜい荷馬車二台分ってところで、鱗は青みがかった灰色だったぞ。吐くのは冷気だとも聞いた」
「……何?」
「俺の親父が昔、峠の麓まで行ったことがあってな。遠目に見ただけらしいが、そう言ってた」
これで火がついた。窓際の卓から、煤で顔を黒くした鍛冶場帰りの男が身を乗り出す。「いやいや、俺が聞いたのは、翼がないって話だぜ。地を這う竜だとか」
「ある。翼はある。俺は絵で見た」
「絵なんぞ、当てにならん」
店内のあちこちで、竜についての「情報」が飛び交い始めた。奥の卓では、行商帰りらしい女が「鱗は虹色に光る。峠の向こうじゃ有名な話さ」と言い出し、壁際で一人静かに飲んでいた古株の爺さんまでが「いや、あれはただの伝承で、実物はもっと地味な色をしとる」と首を振った。卓と卓の間で言い分が交差し、誰かが手のひらで卓を叩き、誰かが空になった杯を突き上げる。注文の声が倍になり、竈の熱と人いきれの上に、噂の熱がもう一枚かぶさっていく。声は熱く、頬は赤く、竜の話をしている間だけ、誰もが峠の主と旧知の仲であるかのような顔をしていた。
全長も、色も、能力も、語る人間の数だけ違う話になっていく。誰も、実物を近くで見たことがない。それなのに、みんな一家言持っている。話が進むほど、竜の姿は輪郭を失い、代わりに語る人間の数だけ増殖していった。
オレは杯を運びながら、その膨らみ方を横目で観察していた。
仮説その一、語り手が盛っている。酒場の話は、注ぎ足すたびに一割ずつ育つものだ。あの身振り手振りの大きさを見る限り、まず有力と言っていい。仮説その二、聞き手が盛っている。怖い話は、怖いほうの形で覚え直される。家四軒分と荷馬車二台分の両方を聞いた客は、寝る頃には家四軒分のほうだけを覚えているだろう。仮説その三、竜のほうが、見るたびに姿を変えている。……いや、さすがにそれはない。ないと思う。自分の思いつきに自分で呆れて、オレは空いた皿を下げに戻った。
ただ、どの説を採るにしても、動かない一点がある。誰も、確かめていない。嘘をついているつもりの者は、この店に一人もいないのだろう。それでいて、峠の麓より先へ行って帰ってきた者の話だけが、どの卓からも聞こえてこなかった。
ゴルドが、カウンターの隅で黙って酒を飲んでいた。話に加わらず、ただ聞いている。その横顔には、いつもの陽気さの下に、何か別の色が薄く滲んでいた気がした。だが、オレが気づいた時には、もう普段の顔に戻っていた。
ザックは、周囲の情報の食い違いなど気にも留めず、意気揚々と宣言した。
「明日、峠へ向かう。俺が、この街の常設依頼を終わらせてやる」
その言葉に、店内の誰も、拍手も、心配もしなかった。ただ、誰かが小さく呟いた。
「――また一人、行っちまうな」
その呟きの温度に、オレは少しだけ、背筋が冷える思いがした。
閉店の作業をしながら、オレはバルガとリトの様子もそれとなく観察していた。バルガは黙々と自分の武具の手入れをし、リトは店の隅で常連客と賭け事の話に興じている。ザックの熱量とは対照的に、二人はどこか達観した空気を纏っていた。何度もこういう旅を繰り返してきた者だけが持つ、力の抜き方だった。
夜、店を閉めながら、オレはゴルドに尋ねた。
「ゴルドさん。あの竜のこと、何か知ってます?」
「さあな」ゴルドは笑って答えた。「俺も、又聞きの又聞きしか知らん」
「本当ですか? さっきの話、聞いてる間、ずっと静かでしたけど」
「静かに聞くのも、接客のうちだろう。嬢ちゃんに教わった」
うまく躱された。その笑顔は、いつもと同じに見えて、ほんの少しだけ、目の奥が動かなかった気がした。
表に出て、店の看板を仕舞う。夜更けの通りには、昼間からの浮ついた熱が、まだ道の端々に燻っていた。どこかの窓から「勇者」「竜」という言葉の切れ端が漏れては、夜風に混ざって消えていく。通りの突き当たり、峠のある方角だけが、月明かりの下でも塗り潰したように黒い。今日一日で、あれだけの話を聞いたはずなのに、オレの中の竜は、聞く前よりかえって形を失っていた。
確かなことだけを数えてみる。明日、あの三人が峠へ向かうこと。この街の誰も、それを本気で止めないこと。そして、竜の正体は語る口の数だけあって、その全部を足し合わせても、一頭の竜にはならないこと。
どうやら、この街には、勇者がまた一人増えたらしい。