第6話 清算となし崩し
第六話 清算となし崩し
宿の共用部屋には、夕刻の光が斜めに差し込んでいた。窓枠の影が、机の上に置かれた帳簿の表紙をちょうど半分だけ塗り分けている。埃っぽい紙の匂いと、階下から漂ってくる誰かの夕餉の匂いが、部屋の空気に混ざっていた。
「では、清算するわね」
机の上に帳簿を広げたセラが、開幕の合図のようにそう言った。羽根ペンを構える姿は、まるで裁判官が判決文を読み上げる前の間だった。背筋は伸び、目だけが数字を追って忙しく動いている。指先でペン先を軽く整える仕草すら、どこか儀式めいていた。
「今回の二件の依頼で、パーティーの取り分は合計ピィ三十二枚。内訳、山羊の駆除依頼が二十枚、独創的解決への加算報酬が十二枚」
「はい」
「そこから、酒場の未払い、ピィ十二枚を引く」
「はい」
「宿代の滞納、三泊分。一泊ピィ六枚だから、十八枚」
オレは指を折って計算した。三十二引く十二引く十八。何度数え直しても、答えは変わらない。数字というのは、こういう時ばかり律儀だ。都合の悪い方には絶対に転んでくれない。
「二枚しか残らないじゃないですか」
「二枚しか、じゃない。二枚も、残ったのよ」
セラが訂正する。ペン先が、帳簿の余白にすっと線を引いた。「三日前は、宿代を払う当てすらなかった。今は、支払いを終えて、なお手元に二枚ある。立派な黒字よ」
「黒字の基準が厳しいんですか、緩いんですか、もう分からなくなってきました」
「現実に即してるだけ」
「その現実、いつも都合よく味方してくれますよね、セラさんの理屈には」
「都合がいいんじゃなくて、都合よく見えるように並べてるの。数字は、並べ方次第でどうとでも顔を変える」
……それは詐欺の理屈と紙一重ではないだろうか。オレはそう思ったが、口には出さなかった。出したところで、また正論で殴られるだけだ。
オレたちは連れ立って酒場へ向かった。夕暮れの通りは、屋台の火が一斉に灯り始める時間帯で、串焼きの脂の焼ける匂いと、遠くで誰かが弾く弦楽器の音が混じり合っていた。『陽気な冒険者』の扉を押すと、いつもの煮込みの匂いと、ドランの野太い笑い声が出迎える。
店主は、カウンターの奥で樽の栓を確かめていた。オレたちが札を差し出すと、指先で一枚ずつ数え、最後にもう一度数え直した。
「ちゃんと稼いでるんだな、ミア」
「はい、なんとか……」
「白ひげチーズも、明日から届くんだろう。楽しみにしてる」
「バートンさんも張り切ってました。乳の出、少しずつ戻ってきてるみたいです」
「そりゃいい話だ」店主は札を勘定箱に収めながら、口元だけで笑った。「シチューの詫びも、これでようやくちゃらだな」
「まだ根に持ってたんですか、それ」
「持ってた、なんて言ってない。ただ、覚えてはいた」
……根に持っていたということだ。オレは営業スマイルでそれを受け流した。「アタシ、あれから一度もシチューはひっくり返してませんから♪」
「その代わり、他のもんをひっくり返しそうな顔してるがな」
図星だった。反論できない。
カウンターの端で、常連のドランがエールの泡を髭にくっつけたまま、こちらを見て笑っている。「白ひげチーズか。いいねえ、そりゃ酒が進む」
「まだ味見もしてないのに、期待だけ先走ってません?」
「期待させるのも、酒場の仕事のうちだろう」
言い返せなかった。全員、期待だけで生きている店だ。
その足で宿にも戻り、女将らしき人物に滞納分を手渡す。宿の帳面に、赤字で書かれていた数字が黒く塗りつぶされた。看板山羊のクルルが、玄関先で片目だけ開けて、こちらをちらりと見た。何かを評価しているようにも、単に眠いだけにも見える、いつもの曖昧な視線だった。長らく背負っていた重石が、二つ、同時に外れた感覚があった。
夜、宿の部屋で、セラが帳簿の別のページを開いた。ランプの灯りが、紙面に落ちる影を揺らしている。表情が、心なしか楽しそうだった。
「――さて。もう一つ、片付いていない案件があるわね」
「え?」
「酒場での未報告分。ゴルドさんの手癖、二件」
……忘れていたわけではない。忘れたふりをしていただけだ。部屋の隅で薄目を開けていたゴルドが、露骨に視線を天井へ逃がした。
「あの、あれ、報告しないと駄目ですか」
「駄目とは言わないけど、報告した方が、あんたの気は済むんじゃない?」
セラの目が、静かに笑っていた。悪魔的な提案の仕方だった。ペン先が、答えを待つように紙面の上で止まっている。
肩から腰への一連。ふに、と触れた感触が、指の形まで生々しく蘇る。喉の奥がざらついた。何か、尖った節回しの言葉が、喉元までせり上がってくる気配がした。ここで出したら、また余計にややこしくなる。オレはそれを、どうにか飲み込んだ。
「……報告します。ゴルドさん、あの夜、二回、やらかしてます」
「詳細を」
オレは詳細を語った。「一回目は肩から腰にかけて、するっと。二回目は――正面から」
「正面から、何を」セラは眉一つ動かさず、ペンを走らせる。「記録として必要なの、具体的に」
「――胸です! 胸! もういいでしょう!」
オレの声は、途中から素の女声に近くなっていた。恥ずかしさと苛立ちが、まざって出口を探している。
「未報告分、二件。累計に加算。今月これで十一件、モンメリー二十二枚」
部屋の隅で、ゴルドが「ぐぬ」と小さく唸った。
「嬢ちゃん、それは、時効ってものがあるんじゃないか」
「時効なんてないですよ、こういうのに」
「マルヴァへの送金額が、月初の見込みから随分ずれてきてるんだが」
「自業自得です」
「その通りだ」ゴルドはあっさり認めた。潔さだけは一貫している。「反省はする。反省はするが、直せるかどうかは、また別の話だ」
「反省してる人の台詞じゃないですそれ」
「罰金なんて、抑止力として効いてるかどうかが問題なのよ」セラが横から、事務的な口調で言った。「効いてないなら、金額を見直すだけ」
「やめてくれ、それだけは」ゴルドが初めて、心底焦った声を出した。
「その慌てよう、抑止力、多少は効いてるみたいですね」
「効いてない。ただ、財布の心配が増えるだけだ」
……財布はもとから失くしているのに、心配だけ増えるという理屈が、オレにはよく分からなかった。
セラが送金の書類を整えながら、ふと話題を変えた。
「そういえば、ゴルドさん。前の臨時四人目の話、詳しく聞いたことなかったわね」
「ああ、あれか」ゴルドは懐かしそうに目を細めた。腕を組み、椅子の背にもたれる姿勢が、これから長話をする合図だった。「半年ほど前だ。荷馬車護衛の依頼で、たった一日雇った男でな。何もしないうちに、盗賊どもが向こうから逃げ出した」
……男?
オレは首を傾げた。「セラさん、前に『あの人』って言ってましたよね。この前は性別、言ってなかった気がします」
「言ってないわね」セラも小首を傾げる。「私が聞いた話だと、女だった気がするんだけど」
「女だ。いや、男だったか」ゴルドが顎を掻く。「すまん、はっきりしない。酒の席で聞いた話でな。誰から聞いたかも、実はあやふやだ」
「時期も、半年前でしたっけ。前は一年前って言ってませんでした?」
「言ったか? 言ったかもしれん」
「装備は? 武器くらいは覚えてます?」オレは食い下がった。この際、輪郭だけでも掴みたかった。
「剣だったような、杖だったような」ゴルドは腕組みしたまま、天井を睨んだ。「いや待て、そもそも武器を構えた記憶がない気もする。突っ立ってただけだったかもしれん」
「突っ立ってただけで盗賊が逃げるって、それ、もう武器の話じゃなくないですか」
「だから、たぶんすごい人だったんだよ」
「その『たぶん』が、聞くたびに違う形になるんですけど」
「セラさんの記憶とも、食い違ってますしね」オレは追い打ちをかけた。
「私の記憶が正しいとは限らない」セラが意外にもあっさり認めた。「私も、又聞きの又聞きだから」
「名前は? さすがに名前くらいは」
「名前……」ゴルドは口の中で何かを転がすように唸った。「なんとか、って名前だった気がする。呼ばれてたのを、聞いたような、聞いてないような」
「それ、覚えてないのと同じですよ」
「覚えてないとは言ってない。あやふやだと言ってるんだ」
「同じことです」
……何かが、微妙に食い違っている。大きな矛盾ではない。だが、パズルのピースの角が、少しだけ削れて合わない、そんな種類の違和感だった。前の四人目の話は、聞くたびに輪郭が変わる。性別も、時期も、得物も、語る人によって少しずつずれていく。まるで、誰か一人の話ではなく、複数の話が重なって、一つの伝説みたいに固まっていくような。
「まあ、酒の席の話に、正確さを求めるだけ無駄よ」セラがあっさり話を切り上げた。「重要なのは、今のうちのパーティーの収支」
オレは、その話題転換の速さに、少し引っかかりを覚えながらも、頷くしかなかった。もう少し詳しく聞きたい気もしたが、これ以上は霧が深くなるだけだろう。
「――ところで」オレは思い出したように言った。「アタシの四人目、『一日だけ』の約束でしたよね」
部屋の空気が、一瞬止まった。ランプの灯りだけが、変わらず静かに揺れている。
「そうだったわね」セラが帳簿から目を上げずに答える。
「もう、六日目です」
「あら」
「あらって」
「気づかなかったわ」
……気づいてないはずがない。この人は帳簿の端数まで正確に把握する人間だ。
「あの、契約、どうなってるんですか。延長の書類とか」
「特に何も」
「何も!?」
「一日だけの契約が、なし崩しに続いているだけよ。書類上は、まだ更新されてない」
「更新されてないのに続いてるって、それ、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫かどうかは、誰も確認していない。だから、大丈夫」
……理屈になっていないようで、なぜか反論できない理屈だった。
アルトが遠慮がちに口を挟んだ。手拭いを膝の上で、四角く畳み直している。「あの、ミアさんがいなくなると、その、困るので……このまま、いてくれると、嬉しいです」
「アルトさん、優しい」
「い、いえ、そんな……」
アルトはまた手拭いを畳み直した。同じところを何度も畳み直す動作が、照れ隠しの一種であることに、オレは最近気づき始めていた。
ゴルドがしみじみと言う。「縁ってのは、こうやって続いていくもんだ。一日のつもりが、気づいたら六日。六日が、気づいたら――」
「気づいたら何なんですか」
「さあな。俺にも分からん」
……分からないまま、続いていく。
目覚めた朝。シチューをぶちまけた夜。財布を失くした爺さんとの道行き。赤字の初仕事。そして、今日の商談成立。指を折る間もなく、六日分の景色が流れていく。書類の上では、まだ「臨時・一日限り」のミアが、その紙切れ一枚には収まらない日々を積み上げていた。
馴染んだ、とまでは言えない。セラとは損得勘定で息が合うだけだし、ゴルドの手癖には毎日苛立たされているし、アルトの謝罪癖には未だに調子を狂わされる。
それでも。
手元には、ピィ二枚と、二十二枚分の罰金の記録と、更新されない一枚の書類が残った。差し引きすれば、たぶんまだ赤字寄りだ。それでも今朝より、何かがわずかに積み上がっている感触がある。数字には表れない、帳簿には載らない類の残高だった。
階下から、女将が鍋を洗う音と、クルルの寝ぼけた鳴き声がひとつ、床板越しに昇ってくる。窓の外には、相変わらず知らない並びの星。その遠さが、昨日より少しだけ気にならなくなっている。
なし崩し、という言葉を、オレは舌の上で転がしてみる。崩れたのは約束の期日で、積もったのは日々のほうだ。明日の朝も、たぶんオレはこの宿で目を覚ます。書類は、まだ誰も書き換えていないけれど。