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第1話 遊び人として目覚めた、かもしれない

第一話 遊び人として目覚めた、かもしれない

 重い。

 目が覚めて最初に届いた情報が、それだった。まぶたより先に、胸が判断を下している。ずっしり、たぷん、と質量が律儀に二つ、名乗りを上げていた。

 ……ん?

 恐る恐る、視線を下に落とす。ある。確かに、ある。薄い布の下に、明らかに存在してはいけない量の「ナニカ」が鎮座していた。

 オレは、自分の胸に手をやった。柔らかい。温かい。押すと沈む。指を離すと戻る。何度か確かめる。……確かめるほどに、状況は悪化した。悪化というか、確定した。

 声を出してみる。「うわ」

 うわ、じゃない。今の声、誰だ。高い。軽い。鈴を転がすような、と形容していいくらい高い。オレの声じゃない。だが、オレの口から出た。

 部屋を見回す。木の梁が剥き出しの天井、簡素な寝台、隅に姿見。窓の外からは、朝の賑わいらしき音が流れ込んでくる。荷車の軋み、誰かの怒鳴り声、鶏の声。機械の音が、ひとつもない。物語の挿絵で見たような朝の音ばかりが、律儀に揃っていた。

 オレは寝台から下りた。脚が二本ある。当たり前だ。当たり前なのに、いちいち確認したくなる朝だった。姿見の前に立つ。

 ……誰これ。

 映っていたのは、見知らぬ女だった。黒髪、色白、輪郭は綺麗に整い、体つきは薄布一枚でも隠しきれないほど主張が激しい。オレが知っている自分の顔ではない。だが、鏡の中の女は、オレが瞬きすれば瞬きし、口を開けば口を開けた。他人であって他人ではない。そういう、都合の悪い一致だった。

 オレは、誰だったか。

 働き詰めで身体を壊した誰か、だった気がする。それとも、部屋にこもって何かを見続けていた誰か、だったか。両方のようでもあり、どちらでもないようでもある。輪郭だけがあって、中身がない。思い出そうとするほど、記憶は逃げる魚みたいにするりと逃げていく。

 考えるのは、後回しだ。目の前には、もっと差し迫った問題があった。

 椅子の背にかかっている、黒くてテカテカした布面積の少ない服。バニーガール、としか呼びようのない衣装だった。着るのか、これを。オレが。

 脳が全力で拒否している。だが、身体はすでに椅子に向かって歩き出していた。

 待て。待ってくれ。オレの意志はどこに消えた。

 抗議も虚しく、手は衣装を取り上げ、迷いのない動きで袖を通し始めた。背中の留め具、腕を後ろに回さないと届かないはずの位置に、身体はぐにゃりと曲がって指をかけた。網タイツを爪先から引き上げ、ヒールに足を滑り込ませ、最後にウサ耳のカチューシャを頭に乗せる。

 鏡の中に、完璧な仕上がりのバニーガールが立っていた。

 ……似合っているのが、一番腹立たしい。

 オレの意識は、この服の着方をまるで知らない。なのに手は迷わず動いた。まるで、毎朝これをやってきたかのように。

 身体は覚えている。意識は、後から追いついてくる。

 それがこの状況の仕組みか、と当たりをつける。仕組みが分かったところで、納得はできない。納得できないまま、上からローブを羽織る。前のボタンを留めると、際どい格好はどうにか覆い隠された。ホッとした自分がいる。この身体、羞恥心くらいは意識と共有してくれているようだ。

 部屋を出ると、石畳の通りに朝の光が満ちていた。知らない匂いのはずなのに、鼻だけは「朝の匂いだ」と勝手に納得していた。焼きたてのパン、土埃、遠くの厩の匂い。知らないのに、知っている匂いだった。

 石畳の凹凸が、ヒールの底越しにこつこつと足の裏へ届く。視線の高さも、肩の幅も、歩幅も、覚えているものと全部違う。違うのに、身体は平然と歩いていく。すれ違うのは、剣を背負った男、ローブを纏った女、荷車を引く老人。行き交う人々の格好が、揃いも揃って「そういう世界」を主張してくる。

 ここは、剣と魔法の世界、ということでいいのか。

 いいも悪いも、目の前の光景がそう言っている。オレは歩き出した。足が、迷いなく角を折れる。次の角も折れる。意識は道を知らないのに、足はとうに知っている。

 通りの途中、露店の看板が目に入った。木の板に、見たことのない文字が並んでいる。

 読める。

 妙な感覚だった。文字の一画一画は、見た記憶がまるでない曲線と払いでできている。なのに、意味だけがすとんと頭に入ってくる。「本日の玉ねぎ、格安」。読めているのに、初めて見る形。分からないのに、分かる。この気持ち悪さを、うまく言い表す言葉が見つからない。

 考えるより先に、声が飛んできた。

 「ミア、おはよう!」

 振り返る。露店で野菜を並べる中年の女性が、こちらに大きく手を振っていた。知らない顔だった。少なくとも、オレの側に覚えはない。だが、身体はすでに笑顔を作り、手を振り返していた。

 「おはよーっ!」

 また、あの高い声。しかも語尾が跳ねた。「おはよーっ」の「っ」まで、練習してきたみたいに決まっている。

 「今日も早いわねえ、相変わらず」

 言葉の意味が、すっと入ってくる。何語かは分からないのに、理解だけが先に届く。

 「うん、まあねっ♪」

 ノリノリである。オレの意志とは無関係に、口が勝手に営業スマイルを量産している。

 その場を離れながら、オレは今しがた得た情報を反芻した。「ミア」。呼ばれた名前。ということは、それがオレの名前らしい。らしい、というのが正確なところだ。断定するには材料が少なすぎる。だが、他に手がかりもない。

 オレは、ミア、ということにしておこう。事後承諾というやつだ。

 しばらく歩くと、大きな木造の建物の前に着いた。看板の文字は、やはり読める。読めるが形は初見だ。

 『陽気な冒険者』

 酒場らしい。ここが、ミアの職場らしい。「らしい」という言葉ばかりが増えていく朝だった。

 オレは自然にドアを開け、中に入った。カウンターの奥で、恰幅のいい中年男が酒瓶を並べている。

 「よう、おはよう」

 「おはよ♪」

 また勝手に反応した。もう驚かない。この声も、この愛想も、全部この身体の持ちものだ。

 「今日も頼むぜ、ミア。お前のおかげで客の入りがいい」

 この人が店主、ということになる。危険な相手ではないという感覚だけがあった。根拠はないのに、確信の側だけが先に居座っている。

 オレはカウンターの内側に回り込み、棚から布巾を取ってテーブルを拭き始めた。身体が淡々と作業を進める。テーブルを拭き、椅子を整え、グラスを磨く。布巾を絞る力の加減、グラスを光にかざす角度、椅子を持ち上げて床を鳴らさない持ち方。何年もこの仕事をしてきたような手つきだった。だがオレの意識には、その記憶が一片もない。店の中は、こぼれた酒と古い木と、かすかな煮込みの匂いがした。この匂いにも、鼻はもう驚かない。

 昼になり、客が増えた。冒険者らしき男たちが、昼食と酒を求めてやってくる。オレは間を縫って動き回った。注文を取り、酒を運び、笑顔を振りまく。盆の上でジョッキが跳ねないぎりぎりの速さを、腰から下が知っている。ヒールでの立ち仕事なのに、ふくらはぎは音ひとつ上げない。鍛えられているのは身体の側で、悲鳴を上げているのは意識の側だった。動くたびに、知識が後から追いついてくる。この客はドラン。いつもの、とは濃いめのエールのことだ。全部、行動した後に分かる。

 「おう、ミア! 今日も別嬪だな!」

 「あら、ありがとうございます♪」

 褒められた瞬間、完璧な角度で微笑んでいた。この反射神経に、オレ自身が一番驚いている。

 近くの卓で、誰かの軽口にどっと笑いが起きた。引き金になったのは、オレの相槌だ。客が笑うと、胸の奥が妙に軽くなる。この身体の癖なのか、オレの性分なのか、区別はつかなかった。

 夕方、店はさらに賑わった。ランプに火が入り、油の匂いと人いきれで、空気が一段濃くなる。カウンターの隅に、いつの間にか一人の老人が座っていた。いつから、と考えても答えは出ない。気づいたら、そこにいた。強そうな爺さんだった。日に焼けた顔、眉の上に古い傷、節くれだった指。だが目の光だけは、やけに陽気だった。

 オレは料理を運びながら、その老人の前を通りかかった。厨房から受け取ったシチューの皿を、両手に一つずつ。

 その時、意識がふと、揺れる胸に向いた。

 揺れすぎだろう。慣性の法則、真面目に仕事しすぎだ。

 その一瞬の逸れが、足元の段差への反応を遅らせた。躓く。皿が宙に浮く。

 「あっ」

 ガシャーン。

 シチューが、盛大に床でダンスを踊った。

 店内が、一瞬静まり返る。次の瞬間、爆笑が弾けた。

 「おいおいミア、派手にやったな!」

 「シチューが逃げてくぞ、追いかけろ!」

 悪意のない、明るい笑いだった。オレは慌てて謝る。

 「ご、ごめんなさいっ、アタシったら、ほんとドジで……!」

 ……今、「アタシ」って言った。自分で。この一人称、いつ採用されたんだ。

 床を拭こうとしゃがみ込んだオレの背後で、カウンターの老人がニヤリと笑った。

 「嬢ちゃん、そんなに落ち込むなよ。『遊び人』ってのは戦いじゃ役に立たねえが、シチューぶちまける才能だけは天才的だな!」

 どっと笑いが起きる。

 ――役に立たねえ。

 その一言が、思いのほか深く刺さった。刺さった瞬間、視界の端が歪んだ。

 ――狭い部屋。青白い画面の光。文字だけが流れていく掲示板。「無能」「役立たず」「お前がいると迷惑」。オレは、それをただ黙って眺めている。何も言い返さずに。

 ――人混みの向こう。誰かが、笑っている。好きだった、はずの誰かが、見知らぬ男と腕を組んで、笑い合っている。場面が飛ぶ。ホテルらしき建物から二人が出てくる、気の抜けた空気。オレは、遠くからそれを見ている。ただ、立ち尽くして。

 ……何だ、今の。

 記憶は、そこで唐突に途切れた。誰の記憶なのか、いつのことなのか、輪郭さえ結ばない。ただ、「役に立たない」という言葉だけが、古い傷口みたいにひりついていた。

 視界が戻る。オレは酒場に立っていた。床のシチューは、店主が片付けている。客たちはまだ笑っていた。

 老人がカウンターを叩いた。

 「嬢ちゃん、酒だ酒! 一番強いやつ!」

 「は、はーい!」

 オレは慌てて瓶を取った。身体が勝手に、棚の奥から蒸留酒を選び出す。グラスに注ぎ、老人の前に置いた。

 老人は一気に飲み干し、ぷはーと息を吐いた。

 「うめえ! 嬢ちゃんのおかげで酒が美味い!」

 それから、何杯もおかわりを重ねた。もう一杯。もう一杯。数えるのをやめたくなる頻度で、グラスが空になっていく。

 やがて老人は満足げに息をつくと、ゆっくりとカウンターに突っ伏した。

 「……すぅ」

 え?

 「……ぐー、すぴー」

 ……ちょっと待て。

 この人、勘定を払う前に寝た。

 オレは店主を見た。店主も、額を押さえて固まっている。

 「おい、ミア。どうすんだ、これ」

 「ええええ……」

 オレは絶句した。

 この世界での暮らし――再スタート、と言いかけて、やめた。「再」かどうかは、まだ誰も保証してくれていない。はっきりしているのは、前途が多難だということだけだ。多難、という言葉すら、誰に教わった覚えもないのに、するりと出てくる。この身体、便利なんだか怖いんだか、まだ判断がつかない。

 どうやら話は、そう単純でもないらしい。

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