第57話 拍手が止んだあとで
第57話 拍手が止んだあとで
開演前の客席は、人が入るたびに音が変わった。
最初は足音だった。
次に椅子を引く音。上着を脱ぐ衣擦れ。子どもへ座る場所を教える声。誰かが菓子の袋を開け、別の誰かがその匂いに気づく。
幕の裏からは、顔より先に暮らしが聞こえた。
オレは木の卵を掌に乗せた。
転がさない。握りすぎない。
稽古ではできたことを、本番の直前にわざわざ忘れそうになるのは、何の親切なのだろう。
隣のアルトは、皿を持っていた。
「僕まで、怖くなってきました」
「まだ何もしてませんよ」
「何もしてないから、これから全部あるので」
もっともだった。
オレは自分の衣装の脇を軽く引いた。直した紐は息を吸っても食い込まない。尻尾も椅子に絡まない位置へ移してある。
準備したところは、準備した通りだった。
なのに、それで安心できる場所が小さい。
「合図、同じです」
アルトへ言う。
「知ってます」
「アタシに言いました」
「じゃあ、僕にも」
彼が少し笑った。
舞台係が、幕の縁を持ち上げた。
*
灯りの向こうに、人がいた。
もちろん、人がいるための場所だ。分かっていたはずなのに、一度にこちらへ向く目を受けると、最初の台詞が胸のあたりでつかえた。
後ろの壁を見る。
そこには壁まで届く目が、何列も並んでいた。
「本日お越しの皆様。王様は、まだ朝ご飯を召し上がっておりません」
少し笑いが起きる。
「夕方なのに?」
前のほうで子どもが言った。
「よくお気づきになりました。国の仕事が、それくらい遅いんです」
今度は大人も笑った。
息が通る。
王様役の舞台係が、冠を直しながら不満そうにこちらを見る。短い台詞と頷きだけの役だが、椅子へふんぞり返る形が上手い。昨日までの稽古では、こんなに偉そうではなかった。
「魔法使い。何か出せ」
「お任せください。アタシに出せない物は――」
子どもが「ご飯」と囁いた。
隣の母親が口へ指を当てる。
オレは聞こえなかったふりをして、木の卵を掲げた。
客席の奥でも見える高さ。
止める。
一息待つ。
まだ笑いは起きない。ここは笑わせる場所ではない。ただ見てもらう場所だ。
そう自分へ言う間に、指が汗ばむ。
布を掛け、卵を移し、開く。
ない。
ざわ、と、小さく空気が動いた。
それだけで、さっきより大きく息を吸いたくなった。
「朝食が消えたぞ」
「陛下。食後の状態を、先にお届けしました」
笑い声が広がった。
オレは危うく次の台詞を被せかけて、口を閉じる。
待つ場所に付けた印が、頭の中で一つだけ見えた。
*
途中で、前列の男の帽子が落ちた。
男が身を屈める。隣の男が、わざとらしくその頭の上を覗く。
「王様の卵、そっちに行ったぞ」
笑いが起きた。
帽子を落とした男は、細い肩をさらに狭くして拾おうとする。後ろの客が笑いながら足を引いた。
オレの口が先に動いた。
「そちらの臣下は、もう頭を下げてお待ちです。陛下、お食事を急ぎませんと♪」
客席が、さっきより大きく笑った。
男の隣にいた連れが、その肩を叩く。
「よかったな、テオ。お前、仕える先が増えたぞ」
男は帽子を握って顔を上げた。
赤い頬だった。
笑っている。
そう見えて、オレは続けた。
王様が空の皿へ手を伸ばす。アルトが反対から、本物の小さな焼き菓子を載せた皿を運ぶ。魔法使いは自分の手柄にしようとするが、料理番が膝に落ちた卵を拾い上げる。
最後のやり取りは、稽古より少し速かった。
それでも、拍手が起きた。
手を叩く音は、一人ずつの顔を区別しなかった。
オレは頭を下げる。
顔を上げると、あの男も手を叩いていた。
帽子を膝に置き、脇を閉めた、小さな拍手だった。
向こうからは、オレがその手を見ていると分かっただろうか。灯りはこちらの顔を照らし、客席の細かい表情は、前の人の肩に半分隠れていた。
*
幕の裏へ入った途端、膝が軽く震えた。
アルトが皿を棚へ置き、こちらを振り返る。
「できましたね」
「できました」
二人とも、同じことしか言えない。
オレは木の卵を卓へ置いた。転がるので、下に布を敷いた。今はもう舞台にいないのに、落とすのが妙に怖かった。
リッカが横を通った。
「声、後ろまで来てたわ。途中から速かったけど」
「はい」
「水、少しずつね」
彼女は自分の出番へ向かう。
ベリルも片手を上げただけで、人形の仕掛けを確かめに行った。
みんな、仕事の続きがあった。
オレだけが、終わったばかりの場所に立っていた。
嬉しかった。
もう一度、あの拍手を聞きたいと思った。
その欲しさは、恥ずかしいほどはっきりしていた。
*
本編は、川を渡りたがる王子の話だった。
橋を架けた職人へ礼を言う役を、ニノが担当している。王子の顎を上げすぎる癖はまだあったが、客席から見ると、それが若い王子の妙な気高さに見えた。
オレは最後列の端で立って見た。
橋は布を張っただけの細い板だ。それでも、人形が渡る前に足を止めると、急に下の川が深くなった。
客が黙る。
ニノの台詞は、静かだった。
笑い声がないのに、客が離れていない。
オレの指は、知らないうちに幕の端を握っていた。
前列の帽子の男が、途中で外へ出た。
連れが何か囁く。彼は小さく頷き、椅子の間を抜ける。
便所かもしれない。用事かもしれない。
オレは舞台へ目を戻した。
戻したのに、その男の肩だけが、しばらく人形の川の上に残った。
*
終演後、入口で見送りを手伝った。
「卵、どこへ行ったの?」
子どもに聞かれて、両手を見せる。
「今ごろ、王様が税金をかけています」
子どもより父親が笑った。
老夫婦は、椅子の間が広くてよかったと言った。若い女はリッカの歌を口ずさみながら出ていく。
皆が同じ芝居を見て、違うものを持ち帰っていた。
帽子の男の連れがやってきた。
「いやあ、うちのテオを使ってくれて、助かったよ。いつもあんな調子なんだ。今日くらい目立たせてやらないとな」
「同じお店の方ですか」
「縫い物の仕上げをやる工房でね。あいつ、いつまで経っても客の前で口が利けなくてさ」
明るい声だった。
悪口を言っている顔ではない。そのことが、かえってオレの返事を遅らせた。
「ご本人は」
「先に帰るって。明日も朝からだから」
男は笑って帽子を被り直した。
「また頼むよ。ああいうの、面白い」
オレはいつもの声で礼を言った。
戸が閉まると、口元だけが少し遅れて元へ戻った。
*
見送りの途中で、若い女に呼び止められた。
「それ、触ってもいい?」
指されたのは、頭の耳だった。
いつもの調子で身を屈めかけて、少し止まる。女の隣には小さな子がいて、手を伸ばしかけていた。自分で触りたいのではなく、子どものために聞いたのかもしれない。
「付けていると引っ張られるので、外しますね」
オレは髪留めを外し、耳飾りを掌に載せた。
子どもは片方の先を指で押して、柔らかさに驚いた顔をした。女が引っ張らないよう言い、子どもはすぐに手を引っ込める。
「ありがとう。あの子、ずっと本物かどうか気にしてたの」
「本物なら、こんなに静かに外れません♪」
女が笑う。
オレも笑った。
それは、さっきと同じ口だった。相手が何を欲しがっているかを察し、先に差し出す。酒場で何度もやったことだ。
ただ、外して渡すまでの一瞬を、オレは自分で待った。
子どもが舞台のほうを覗く。
「明日も、王様いる?」
「います。明日は別の人が、お腹を空かせます」
「王様、いっぱいだね」
「交替で空かせないと、大変ですから」
母子が出ていった後、耳飾りを付け直そうとして、髪が指に絡んだ。
アルトが通りかかり、手鏡を探して持ってきてくれた。
鏡の中には、頬の赤い女がいた。
あの男も、こんな色の頬をしていた。
嬉しい時と、困っている時。灯りと汗だけで同じ色になるものを、オレは舞台から見分けたつもりになっていたのかもしれない。
留め具を一つずつ閉じる。
「曲がってます?」
「少し右が」
直すと、アルトが頷く。
そうやって聞けば済むことと、終わった後では聞きにくくなることがある。
手鏡を返す時、オレは帽子の男の名前を口の中で繰り返した。
テオ。
王の臣下ではなく、そう呼ばれていた人だった。
*
片づけで舞台を掃いていると、リッカが椅子を運んできた。
「その男のこと、気にしてる?」
箒を止めた。
「見えてたんですか」
「あなたが、同じ所ばかり見てるから」
彼女は椅子を壁際へ重ねる。
「笑ってましたよね」
「笑ってた」
「じゃあ」
その先を、言ってほしくなった。
大丈夫だった。気にするほどではない。お客だって分かっている。
リッカは、次の椅子を取りに行った。
オレは後を追う。
「嫌だったら、笑わないと思って」
「嫌でも笑うでしょう。あなた、店で一度もない?」
箒の柄が、手の中で止まった。
ある。
そう答えるのは簡単だった。簡単すぎて、今まで忘れていたことまで見える。
「アタシは、仕事だから」
「その人も、連れと明日また働くんじゃない?」
リッカは椅子の脚を揃えた。
責める調子ではない。
だが、慰めてもくれなかった。
オレは箒を動かした。
床の継ぎ目に、菓子の屑が入り込んでいる。一度では取れず、向きを変えて二度掃いた。
*
宿へ戻ると、ゴルドが結果を聞いた。
「受けたか」
「受けました」
「なら、飯だ」
用意されていた汁は、まだ温かかった。
セラは帳簿を閉じ、アルトは箸代わりの細い串を二本並べる。
オレは座って、今日の芝居を話した。
最初の子どもの声。途中で速くなったこと。卵が見えたこと。拍手の大きさ。
帽子のことも話すつもりだった。
ところが、ゴルドが笑うと、次の面白かったところを探したくなる。
アルトが「そこ、本当によかったです」と言えば、その先へ暗い物を置きたくなくなる。
汁を一口飲んで、オレは椀を下ろした。
「一人、客を笑いものにしたかもしれません」
卓が、少し静かになった。
何があったか、最初から話した。
セラは途中で口を挟まなかった。最後まで聞いて、ひとつだけ尋ねる。
「本人に、何か言われた?」
「言われてません」
「なら、嫌だったとも、平気だったとも、まだ決められないわね」
それは、助かったという答えではなかった。
アルトが椀の縁を指で撫でる。
「僕、あそこで出番を待ってたから、顔は見てないんです。でも、勇者だって言われて笑われた時、僕も笑うことはあります」
「……はい」
「本当に面白い時も、あるんです。全部嫌というわけじゃなくて」
その曖昧さが、余計に難しかった。
誰も笑わせなければ間違えない。
だが、オレは明日も舞台に立ちたかった。
あの音を、もう一度聞きたかった。
そこを綺麗に隠す言い方は、見つからなかった。
*
翌朝、台詞の紙を開いた。
昨日の帽子のやり取りは、もともと書かれていない。
だから消す場所がない。
オレは欄外へ、客を指す、と書いた。
線を引きかけて、止める。
子どもの声へ返したところは、あの子も笑っていた。あれまで全部なかったことにすれば、安心な紙にはなるだろう。紙だけなら。
昨日の自分は、相手の顔より、大きくなった笑いのほうを聞いていた。
その場所へ、小さく印を付けた。
店の仕込みへ下りると、店主が包丁を研いでいた。
「どうだった」
「拍手を、もらいました」
「そうか」
「失敗もしました」
「そうか」
同じ返事だった。
オレは隣で玉葱の皮を剥いた。
店主は詳しく聞かなかった。オレも、すぐには続けなかった。
玉葱を二つ剥き終えたところで、ようやく話せる声になった。
夕方までには、まだ時間があった。