第56話 笑う場所が違う
第56話 笑う場所が違う
王様の椅子が、客席に背を向けていた。
「このほうが、腰にいい」
ゴルドは背もたれへ右腕を乗せ、満足そうに言った。
「王国の皆さんに、お顔が見えません」
「顔を知らん王の悪口は、言いにくかろう」
リッカが舞台の下で吹き出した。
オレも笑った。それから、紙へ目を落とす。
書いてある最初の台詞を、まだ誰も言っていない。
面白いことが起きれば芝居が進むと思っていたが、面白いことが横から来ると、芝居はいつまで経っても始まらなかった。
ベリルが椅子を直す。ゴルドは右手だけで座面を持って手伝った。左腕は治療中なので、今回の稽古では動かす役をさせない。
「村では、このままで受けたんですが」
オレが言うと、リッカは客席の奥へ歩いていった。
「一回、そこでやってみて」
王は腹を空かせ、料理番は食事を運べない。偉大なる魔法使いのオレが、何でも出すと請け合う。
木の卵を布の下へ入れる。
右手で布を持ち上げ、左手へ移し、指の陰で卵を滑らせる。
「ご覧ください。たった一つの卵が――」
「見えない」
奥から声がした。
オレは布を下ろした。
「なくなったところが?」
「最初から」
舞台の端へしゃがんでみる。リッカのいる後列は、思っていたより暗かった。昼間なのに、窓の光は手前の床で切れている。
そこで卵の大きさに指を丸めた。
小さい。
村では人が近くにいた。イナの前の卓を中心に、顔が半円に寄ってきた。ここには椅子があり、人は座った場所を簡単には変えない。
オレは無言で木の卵を見た。
別に、こいつが縮んだわけではないのだ。
*
その日の終わりには、紙の半分が線で消えていた。
卵は大きく見せる台を付ける。布は暗い物から明るい物へ。王の椅子は斜め。料理番の入口は反対側へ。
何を直しても、次の何かが隠れる。
アルトが料理の皿を出す時、オレは客を見ていたい。すると皿が見えない。皿を見れば、客に背中を見せる。
「ちょっとだけ、肩を開けばいいの」
リッカがやってみせると、皿と顔が同時に見えた。
オレがやると、胸元が皿の縁へ当たった。
木の卵が転がり、舞台の下へ落ちる。
こつん、ころころ。
「朝食が逃げました」
アルトの小声で、全員が笑った。
だが、笑った後で拾うのはオレだった。
這っていると、衣装の尻尾が椅子の脚に引っかかった。前へ出ようとして、後ろへ戻される。
「逃げたのは、こっちもでした」
言ってから、立てない。
リッカが客席から来て、紐を外してくれた。
「動く場所に結び目が来てる。そこ、飾りを付けるにはいいけど、働くには忙しい場所ね」
オレは立って、埃を払った。
見られるための服が、見せたい物の邪魔をする。
上手い話とは、なかなか仲良くなれない。
*
衣装直しは、リッカと二人で控え室を使った。
彼女は扉を閉め、鍵ではなく木札を掛ける。使用中の印だという。
二人だけの稽古は、今日と明後日の二回で二ピィ。時間と代金を本人にも確かめてから、オレは上着を椅子へ掛けた。
「触っていい?」
背の留め紐を指され、頷く。
紐が少し緩むと、肩の下から空気が入った。衣装がずり落ちるのではないかと胸を押さえたが、リッカは笑わず、脇の縫い目を見ていた。
「腰で支えすぎ。立って愛想を振る時には綺麗だけど、そのまま大きな声を出すと、息を止める癖がつくわ」
鏡には、二人の女が映っていた。
一人は留め紐を見る。一人は自分の顔を見る。
オレだけが、その光景へ少し遅れている。
綺麗だ、と、判断する目はある。
綺麗に見えるように顎を引く身体もある。
その二つの間で、誰に見せたいのかという場所だけが曖昧だった。
「顔、青い?」
「いえ。鏡が、近くて」
「舞台の鏡って、遠くの客より厳しいからね」
リッカは一度手を離した。
「上着を羽織って休む?」
「大丈夫です。続けてください」
頷いてから、自分で前の縁を押さえ直した。
リッカは紐を結び、試しに両腕を上げるよう言う。次に半身で振り返る。次に、笑いながら短い台詞を言う。
「卵をお出しします♪」
「卵より先に息が出なくなってた。今はどう?」
「余裕があります」
「じゃあ、その余裕まで喋らないこと」
なるほど。空いた場所は、全部使い切るためにあるわけではない。
鏡の中で肩を下ろすと、顔も少し落ち着いた。
「アタシの服なのに、アタシが一番、使い方を知らないみたいです」
「私も、新しい靴を買うたびそうよ」
リッカは棚の端から自分の靴を取った。踵の内側だけ、柔らかい布が縫い付けてある。
「綺麗に見えるものって、見えない所で手がかかるの」
彼女の指には、舞台では見えなかった細い傷があった。
*
次の稽古で、ニノと役を交換した。
少年がミア役。オレが王様人形を持つ。
「人形に、座らせるところからお願いします」
小さな椅子の前で、オレは王の膝を曲げた。尻が浮く。背を押すと顔が前へ倒れる。顎を上げると、今度は両足が揃って空へ向いた。
「崩御しそうです」
ゴルドが右手で口を隠した。
ニノは慌てて人形の腰を支える。
「座る時は、ここ。頭じゃなくて、下を動かすんです」
「王様も、腰で生きているんですね」
「うん。あ、でも怒る時は頭で」
試すと、王は椅子に収まった。
そこへ、ニノが大げさに胸を張って近づく。
「陛下。ぼくに出せない物など、ありません」
声が一度、途中で細くなった。
少年は下唇を舐める。ベリルが何も言わずに待つ。
オレは王の顔を少し上げた。
「では、朝ご飯を」
「……朝ご飯以外なら、ありません」
「あるではないか」
ゴルドが笑った。ニノの肩が少し下がる。
続きは覚えた通りではなかった。少年は布を持つ手を間違え、隠したはずの卵を見せてしまう。慌てて後ろへ回したところで、袖の中から落とした。
オレは王の顔を、ゆっくり床へ向けた。
次に、ゆっくりニノへ戻した。
客席のリッカが、声を出して笑った。
何も言っていない。
ただ、見た。
王様には、自分の口で言わない不満があった。
「今の」
オレが人形を持ったまま顔を上げる。
「台詞、いらなかったんですか」
「いらないところに、足すほうが難しいのよ」
リッカはまだ笑っていた。
ニノは落とした卵を拾い、ちょっと得意そうに王様へ渡した。
受け取らせようとして、オレは人形の右腕を逆へ曲げた。
国は、もう一度危なくなった。
*
毎日、全部の稽古ができるわけではなかった。
アルトは短い護衛に出る。セラは施療室へ行く。ゴルドは治療の日に不在で、戻ってくると「年寄りを働かせる気か」と言うが、マルヴァに右手で洗濯物を絞らされていた。
王様の椅子へ紙の冠だけを置いて、一人で練習する日が増えた。
返事が来ないと、自分の台詞が長い。
冠を見て待っても、冠は食事を要求しない。
「人間の爺さんのほうが、まだ便利ですね」
「聞こえとるぞ」
廊下から返事がした。
便利だ。
オレは笑って、それから紙の脇へ小さく印を付けた。
ここは待つ。
ここは相手を見る。
ここは、言わない。
増えた印のうち、黙る場所が一番多かった。
酒場では、黙ると客の顔がすぐ近くにあった。空の杯を見るふりをして考える時間も取れる。舞台で黙ると、客は全員こちらを見る。息をつく場所まで見られている気がして、喉が勝手に次を急ぐ。
そのたびに、木の卵を置き直した。
掌の白い小さな物へ、目を落とす。
何もできない時間が、ただの穴にならないように。
*
部屋へ戻れば、水の術の練習も待っていた。
机の上の浅い皿に、井戸の水を入れる。これは自分で汲んだ分で、奇跡の成果ではない。まずそこを混ぜないよう、皿の縁へ小さな木片を置いた。
ユルネに直された息の長さを辿る。
掌を開く。
芝居なら、ここで袖に隠した物を出せばいい。顔は涼しく、見せる手と働く手を分ける。客は見えているほうを見る。
だが、この部屋では見ている客がオレしかいない。
片手の細工を、もう片方が知っている。
何も起きなかった。
皿の水に、灯りが揺れる。窓の隙間から風が入っていた。
一瞬だけ、それを自分の手柄にしたくなった。
オレは窓を閉めた。
もう一度やって、やはり何も起きない。
腹が立って、掌を皿の底へ押しつけた。水が縁から溢れ、台詞の紙へ近づく。
「それは、できますよね」
布で拭く。
廊下から戻ったアルトが、開いた戸を軽く叩いた。
「お茶、持ってきました。あの、入っても」
「どうぞ。今、洪水を止めたところです」
彼は皿を見て、茶を紙から遠い場所へ置いた。
「舞台の魔法は、できてましたよ」
「はい。こっちは、できませんでした」
二つを並べて言うと、どちらも消えずに残った。
できないほうを忘れるために芝居をしているのか。それとも、できるほうを見てもらいたいのか。
今すぐ一つに決める気にはなれなかった。
アルトは茶を一口飲み、熱かったらしく静かに置いた。
「王様の役、僕も一回やっていいですか」
「朝ご飯を作る人がいなくなりますが」
「それが、王様の悩みです」
オレは笑って、濡れていない紙を引き寄せた。
皿は乾かすため、窓辺へ移した。失敗した練習はそこで終えた。明日も同じことを試すなら、少なくとも紙は先に片づけよう。
*
金物屋への注文には、アルトと行った。
カルダスへ行く便を持つ店で、ロイから届いた了承と預り金を渡す。包丁から外した金具と、寸法の紙を一緒に包んでもらった。
「現物も出していいんだな」
「はい。兄には、予備の包丁を使ってもらっています」
店の男は、金具の端を爪で弾いた。
「同じ物を作るだけでいいか。少し厚くするか」
「そこを勝手に決めると、また合わなくなるので」
アルトは照れた顔で紙の図を開く。
彼が父親の握る場所を説明しているのを、オレは脇で聞いた。
旅の買い物は、欲しい物を見つければ終わりだと思っていた。今回は現物を家まで戻して初めて、ひとつの用事が終わる。
店を出ると、アルトが自分の小銭袋と預り金の控えを別々に仕舞った。
「舞台の台詞、前より短くなりましたね」
「減ったのに、覚えるのは難しくなりました」
「僕は料理が増えなくて、助かっています」
「最後の日には、卵を七つに」
「物価が七倍になります」
冗談が、当たり前に返ってきた。
村から戻ったアルトに、そういう瞬間が増えた気がする。だが、通りの向こうで大きな荷馬が鼻を鳴らすと、彼はやはり一歩こちらへ寄った。
変わったところと、変わらないところが、同じ靴で歩いている。
*
通し稽古の日、客席の後ろにマルヴァがいた。
約束していたわけではない。ゴルドを迎えに来て、ついでに見たという顔をしている。隣にゴルドがいるのだから、迎える用事は終わっていた。
最初から最後まで、二人とも口を挟まなかった。
終わると、マルヴァは一度だけ頷いた。
「手は、綺麗になったね」
嬉しくなって、オレは次を待った。
「顔は忙しい」
「やっぱり」
「客が見てるか確かめるたびに、顔で聞いてる。見てるかい、分かったかい、面白いかいって」
オレは卵を握り直した。
全部、聞きたいことだった。
「分からないので」
「本番で分かるさ」
「答えが怖いです」
「そりゃ、聞くんだから」
マルヴァは立って、ゴルドの肩を叩いた。
王の仕事を終えた爺さんが、椅子から重そうに腰を上げる。
初日のアルト以外は、日々の相手役を一座の舞台係が短く務めることになった。ベリルと本人に確かめ、共有の稽古の中で動きを揃えた。誰が入ってもよいように、皿を置く場所には小さな印が打ってある。
オレはその印の上へ、木の卵を置いた。
舞台の外から、初日の券を求める人の声がした。
一枚。大人二枚。子どもは膝に乗せてもいいのか。
まだ誰もオレを見ていないのに、その人たちの席が埋まっていく。
卵を落とさず拾い上げた。
今度は、落としても笑いになるなどと思わずに。