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第55話 前座にも名前がある

第55話 前座にも名前がある

 次の題を書くはずだった空きへ、最初に落ちたのは油だった。

 アルトが揚げた薄い芋を、ゴルドが紙の上で食べたのである。

「王の印だ」

「では、陛下。印を押した書類の片づけもお願いします」

 紙を爺さんの右手へ渡した。左腕の包帯はまだ取れていない。できない仕事を頼むほど鬼ではないが、できる仕事を忘れて差し上げるほど親切でもない。

 爺さんは油染みを窓へ透かした。

「地図に見えるぞ」

「芋の産地ですか」

 宿の卓に、セラが小さな布を敷く。その上へインク壺を移され、オレの下書きはようやく食事から独立した。

 ベリルへの便りを清書する。

 いつ、どこで、どれだけ。最後に、いくら。

 最後だけ文字がやや大きくなった。目標がはっきりしているのは良いことだ。

 署名の前で手を止める。

 ミア。

 その後ろへ、何を付けるのだろう。

 遊び人と書けば間違いではない。けれど、仕事の申し込みに職業だけを書くのも妙だった。酒場の女です、でも、どこの誰かは伝わらない。

「名前だけでいいわよ」

 セラが向かいから言った。

「今、考えていたの、分かりました?」

「同じ所を三回撫でてるから」

 紙の右下が、指の油で少し光っていた。

 オレは名前だけを書いた。短いものだった。余白のほうが広かった。

     *

 返事は五日後、手紙ではなく本人が持ってきた。

 昼の『陽気な冒険者』へ入ってきたベリルは、戸口で帽子を取り、低い天井を見上げた。ここで人形を吊るすつもりなのかと思ったら、帽子の羽が煤を擦ったらしい。

「今回は、最初に相談に来た」

「聞いています。前より早いですね」

「まだ紙を刷っていない」

「大進歩です♪」

 宵市の誇張広告で揉めた男は、胸に手を当てた。痛い場所は覚えているようだ。

 店主が奥の卓を顎で示す。

「半刻だ。魚が来たら戻れ」

「はい」

 オレは盆を棚へ置いた。舞台の話をしている間も、厨房の魚は到着する。魚にとって遊び人の将来など、干されるか煮られるかほどの問題ではない。

 ベリルは紙を三枚広げた。

 公演の案内。日程。支出の予定。

 その三枚目をセラが見たがるだろうと思ったが、今日、彼女は教会の往診に出ている。まずは自分で聞くしかない。

「染布会館を借りられた。染め職人たちの寄合や品評に使う建物だ。普段は芝居小屋じゃないが、奥に舞台がある」

 河岸から二本入った通りにある、長窓の建物だった。前を通ったことはある。昼間に閉じた鎧戸しか見ていなかったので、中で人が笑う場所とは考えていなかった。

「三週間後から。八日のうち六日、夕方に一回ずつ。間の二日は休む。日付はこれだ」

 紙の丸印を指で追う。二日続けて一日休み、それから二日、もう一日休んで二日。最後の二日だけ、開演が少し早い。

「あなたには、幕が開く前の短い芝居を頼みたい。客が入るたびに喋る客引きじゃない。始まりと終わりのある一本だ」

「王様の朝ご飯を?」

「その話を聞いて来た。ただ、見てはいない」

 ベリルはここだけ言い直した。

「面白かったという人の話を、聞いた」

 あの村の笑い声が、しばらくオレの中に戻ってきた。イナが膝を叩いた音まで聞こえた気がした。

 同じことをすれば、同じように笑うのだろうか。

 そうだったら、ずいぶん簡単な商売だ。

 酒場で、昨日受けた冗談を昨日の客にもう一度言ってみればいい。客は金を払いに来ているのであって、覚えているかの試験を受けに来たのではない。

「実際に見てから、決めてもらえますか」

「もちろん。稽古で手直しは頼む。だが、稽古をさせた末に気に入らないから全部ただ、とは言わない」

 彼は三枚目へ指を置いた。

 一公演、十二ピィ。六回で七十二。

 村の短い余興と同じ一回分の額が、六つ並ぶ。

 並べただけで大きな顔になる数字も、あるらしい。

「会場、灯り、共用の幕、舞台係はこちらで持つ。あなた専用の小道具と、あなたが別に雇う手伝いは、その中で」

「一座の皆さんに、卵を出してもらうのは」

「役は頼めても、その人の本編の準備と両立する範囲だな。勝手に決めず、本人と私へ言ってくれ」

 オレは書き付けた。

 ゴルドは、王だからずっといてくれるわけではない。アルトも、料理人だから毎晩卵を運べるわけではない。

 それは知っている。知っているが、台詞の紙では二人とも、呼べば出てくる場所にいた。

「稽古を見て、出演をやめることになったら?」

「こちらの判断なら、それまでに頼んだ稽古と道具の分を払う。上限も先に書こう」

 ベリルは嫌な顔をしなかった。代わりに、鉛筆を削り始めた。そういうところは少し信用できる。

 削り屑が細く巻いた。

 白い卓。並ぶ爪。誰かが笑っている間に、端の数字だけが書き換わる。

 オレの指が、紙を向こうへ返す角度を揃えた。

 魚屋の声が入口で響いた。

 塩と鱗の匂いが、白い卓を消した。

「続きは、閉店前の暇な時間で」

 立つと、ベリルも紙を畳む。

「では会館を一度見ておいてくれ。明日の昼に、顔合わせをする」

 胸元へ目が動いたのは、彼ではなくオレ自身だった。衣装の白い縁に、魚を包んだ紙の切れ端がくっついている。

 芸人の契約をするにも、まずは鱗を落とす必要があるらしい。

     *

 閉店後、店主は日程の紙を黙って見た。

 怒られる準備をしていると、こちらの口だけが忙しくなる。

「昼の仕込みは出られます。夕方から閉店までは、公演のある日だけ。最後の二日は早くて、その」

「帰ってから働くのか」

「できる日なら」

「できる日を、先に決めろ」

 店主は皿を拭く手を止めた。

「お前が戻るつもりで寝ちまえば、こっちは戻るつもりの一人を待つ。最初からいないほうが、まだ組める」

 叱られたというほど強い声ではなかった。

 それだけに、安請け合いを飲み込むのに少し時間がかかった。

 六日の夜は店を休む。出ない時間の賃金は付かない。稽古日は昼の仕事を終えてから行き、通し稽古の日だけ早上がりを頼む。

 店主は一日ずつ丸を付けた。

「ドランさんが代わりに?」

「あいつは客だ。客が毎回働く店にする気はねえ」

「ごもっともです」

 洗い場には近所から来る手伝いを増やし、給仕は店主も出る。代役がただで湧くわけではないことを、オレはようやく紙の上で見た。

「失敗したら、早く帰ってきます」

「失敗したなら、片づけまでしてこい」

 店主は皿を棚へ上げた。

 居場所を残してもらうことと、失敗の始末を預けることは、どうも違うらしい。

     *

 宿では、セラが予定の数字の下へ、別の数字を書いた。

 七十二から、六。

 明るい布と卵を見せる台、塗り直しの顔料。手持ちの道具を使っても、買い足しはそれだけ要る。

「それから、手伝ってくれる人」

 アルトは初日の補助と何度かの稽古を引き受けてくれた。四ピィ。ゴルドには座ってできる稽古を二ピィで頼む。リッカには、顔合わせの後で個別の発声稽古を相談するつもりだった。ベリルから聞いた目安は二ピィ。

 セラは六、四、二、二と並べた。

「十四。全部この額で収まれば、五十八が残る」

「村の時より、かなり」

「店の夜の分が減るでしょう」

 オレは口を閉じた。

「部屋代も、ご飯も、舞台に立ったから消えるわけじゃないわ。五十八全部が増えたお金とは数えないこと」

 セラはそこで紙を返した。取り上げて代わりに決めるのではなく、オレの前へ戻した。

「嫌になった?」

「いいえ」

 少し速く答えてから、もう一度数字を見た。

 減ったとは思った。

 だが、減らした数字には、人の名前と物の形がある。そこを隠して大きな額だけ眺めても、卵を出す手は増えない。

「手伝い代は、赤字になっても払います」

「そういう約束にするなら、先に分けておくといいわ」

 アルトが向かいで手を振った。

「僕は、後でも」

「あとでアタシが忘れたら、請求できます?」

 彼は困った顔をした。

 できなさそうだった。

 ゴルドが椅子へ背を預ける。

「俺なら言えるぞ」

「あなたは受け取った後にも言いそうなので、控えを作ります」

 セラの羽根ペンが動いた。

 支払いはそれぞれの協力を終えた時、残りの公演料は最後の精算で受け取る。そう書くと、まだ掌にない金を使い切りそうだった気持ちが、少し落ち着いた。

 それを見て、オレは笑った。数字を減らす話なのに、さっきより一人でなくなった感じがした。

 同じ卓へ、出演の日と稽古の日を書き出す。アルトの護衛の日を避け、ゴルドの治療を先に入れた。相手の都合を一つ書くたび、オレの芝居の形も変わった。

     *

 翌日の染布会館は、外から見た時より狭く、中へ入ってみると広かった。

 妙な言い方だが、そうとしか言えない。

 客席に椅子はまだなく、床板が奥まで続いている。壁際に積まれた長椅子の数で、ようやく人が入った時の狭さを想像できた。舞台の縁は膝ほどの高さで、向こう側に青い幕が下がっていた。

 幕へ近寄った途端、頭の耳が何かを叩いた。

 ちりん。

「今のが始まりの合図?」

 舞台の上から女の声がした。

 見上げると、薄紫の稽古着を着た女が、紐に結ばれた小さな鈴を掴んでいた。赤茶の髪を頭の高い所で束ね、片足を舞台の縁へ乗せている。オレより年上に見える大人の女だった。

「すみません。付属品が多くて」

「便利ね。喋らなくても来たって分かる」

 女は片足を下ろして笑った。

「リッカ。歌と、幕が替わる間の喋りを担当するの。あなたがミア?」

「はい。前座を頼まれて」

「聞いてる。王様を飢えさせるんだって?」

「最後には食べさせます。そこまでが契約です」

 リッカの笑いは短かった。店の客より早く笑い終えて、もう次を待っている目をしていた。

 ちょっと怖い。

 その後ろで、箱を抱えたニノが顔を出した。

「ミアさん!」

 以前より声が遠くへ届いた。箱の中の王様人形が、その勢いで首を振った。

 少年は慌てて人形の鼻を確かめる。

「父さんが、ここの段の板を見てくれたんです。直すのは明日だけど」

「トマさんが?」

「うん。人形の足が落ちないようにって」

「人間の足もお願いします」

 ニノは笑って、箱を下ろした。

 オレは手を貸しかけて止める。人形の胴を掴むのか、台を持つのか、見ただけでは分からなかった。

「どこを持てばいい?」

「こっちの取っ手。腕は、抜けちゃうので」

 言われた場所を持って、二人で運ぶ。

 王様の腕が取れて困る国は、案外、ちゃんとした国かもしれない。

     *

 顔合わせの最後に、舞台へ立たされた。

 客席側にベリル、リッカ、舞台係の若い男。それだけなのに、床板を隔てた三人がいつもの酒場の三人より遠い。

「お名前を、奥まで」

 リッカが言った。

「ミアです♪」

「私だけに言ったでしょ。後ろの壁にも」

 壁へ名前を教える経験は、あまりない。

 オレは息を吸った。

「ミアです」

 語尾が天井へ抜けた。自分の声が、自分の知らない場所にある。

 耳飾りが揺れた。胸の下が衣装の縁に引かれ、吸った息を最後まで使えない。

「その服、立って話す時と、走って戻って話す時は別よ。締める場所を、あとで見よう」

 リッカは舞台へ上がらず、自分の肋骨の下を押さえて見せた。

 オレも同じ所へ手を当てる。

 接客なら身体が先にやってくれる。ここでは、身体もまだ客席を知らなかった。

 ベリルが案内の下書きを掲げた。

 本編の題の下に、一行。

 前座 ミア。

 短い名前だった。昨日の署名と同じだ。

 だが、その横には時刻があり、下には入場料がある。

 そこへ来る人の時間まで、少しずつオレの名前へ結び付いていた。

「載せていいか」

 ベリルが聞いた。

 オレはもう一度、後ろの壁を見た。

「はい。お願いします」

 今度は、途中で声を小さくしなかった。

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