第54話 勇者はまた出かける
第54話 勇者はまた出かける
村を出る朝、アルトの荷物は来たときより膨らんでいた。
干した茸。焼いた薄パン。替えの紐。
どれも、一つずつなら小さい。
小さい物が集まると、背中の上で大きな顔をする。
「半分、こっちへ入れます?」
オレが鞄を開くと、アルトは少し迷ってから茸の包みを渡した。
「父さんが、皆さんにもって」
「先に言ってください。遠慮するところでした」
「してたんですか」
「気持ちの中では」
彼は笑った。
食堂の前には、ロイと父親が立っていた。
送りに来た、と口にした人はいない。父親は朝の空気を見るついで、ロイは昨日返した荷車の確認だと言った。
荷車は、ずっと向こうにある。
アルトも、そのことを指摘しなかった。
*
精算は、朝食の前に済んでいた。
元の九十六ピィに、延長二日分の六十四を加えて百六十。
四人が使った携行品、破損した共用の道具、依頼中のゴルドの手当てなど、合意した共通経費は三十二。
残る百二十八を、四人で分けて三十二ずつ。
村人の治療や、壊れた荷の補償は別の精算で、オレたちの報酬から黙って引かれることはなかった。
余興の十二ピィは、別の袋で受け取った。
道具へ四。アルトとゴルドへ二ずつ。オレへ四。
自分で決めた通りに分けてみると、手元にはあまり残らない。
それでも、初めから自分の物でない金まで、減ったと嘆く気にはならなかった。
木の卵と自前の敷物は、次も使える。借りた幕の布は、洗って返した。
台詞の紙も、残った。
「黒字ですね」
セラへ言うと、彼女は頷いた。
「初回にしては。練習の時間は、まだ入れてないけど」
「そこまで入れると、急に小さくなりそうです」
「だから、次にも使うんでしょう」
オレは紙を鞄の内側へ入れた。
初めて、その意味で次を待った。
*
ケイは見送りには来られなかった。
出る前に小屋へ寄ると、寝台の上で上半身を起こしていた。村の治療役が引き続き診ており、腫れの様子を見てハイベルで診てもらう日も相談している。
今すぐ走れる、と本人が言える状態ではない。
本人も、言わなかった。
「昨日、見たかったです」
オレの演目のことだった。
「王様が、借金を消そうとしました」
「村のやつらが、そこだけ何度も言うんです」
オレは顔を覆いそうになった。
一番広まったのが、予定にない台詞だった。
ケイは笑い、枕元の布を持ち上げた。
アルトの古い手拭いだった。
「洗ってもらいました。返します」
アルトは受け取り、薄くなったところを確かめた。
「ありがとうございます」
「礼は、俺の方です」
ケイは少し俯いた。
「あのとき、槍より先に、足を抜かなきゃって分かってたんです。でも、槍を落としたことばっかり、気になって」
アルトは、自分の剣へ一度触れた。
「分かります」
短く答えた。
知っている人の返事だった。
ケイは顔を上げ、息を吐いた。
「次は、もう少し」
「今は、足を治してください」
アルトが言うと、青年は頷いた。
次の戦いを約束するより先に、今日することが決まった。
*
イナは、戸口へ椅子を出して待っていた。
昨日借りた白い布は洗って乾かし、朝いちばんに返した。
今日は、別れの挨拶だけだった。
アルトが前へ立つと、彼女は靴から肩まで見た。
「忘れ物は?」
「大丈夫です」
「顔を拭く物は」
アルトは二枚の手拭いを出した。
イナが頷く。
そのあと、もう一枚取りに行こうとはしなかった。
まだ使える物を、持っている。
それで十分らしかった。
「また来ます」
アルトが言った。
「次は、先に日を知らせます。仕事で来るかどうかも」
「飯時を外さない方がいい。あんたの父さんは、半分と言っても多いから」
彼は笑った。
「知ってます」
イナはオレの方を見た。
「次は、王様以外も見せて」
「注文が増えましたね」
「見る方も、少しは働かないと」
オレは笑って頷いた。
次の演目は、まだない。
それでも、誰に見てもらいたいかは一人決まっていた。
*
食堂の前で、父親がアルトへ小さな包みを渡した。
包丁ではなく、緩んでいた金具の見本だった。
「新しいのが来るまで、こっちは別の柄を使う。これを送れば、寸法を間違えんだろ」
アルトは包みを受け取った。
「頼んでおく」
「ああ」
父親は、何かを言いかけた。
息子も、待った。
「店を、手伝うつもりはないのか」
その言葉で、空気が少し変わった。
ロイは口を開かなかった。
オレは鞄の口を閉じ、指を止めた。
アルトが戻れば、仕事は減る。
父親の重い鍋を持つ人が増え、ロイが自警へ出る日の店も回る。
いいことを数えるだけなら、たくさんあった。
アルトは包みを両手で持った。
「今は、戻らない」
はっきり答えた。
父親は顔を上げたまま、少し黙った。
「そうか」
それだけだった。
許されたのか、諦められたのか、聞いているオレには分からなかった。
アルトは、続けた。
「でも、忙しい時期に帰れるかは、早めに相談したい。帰れないときも、返事はする」
「帰れるとは、言わないんだな」
「今、決められない日まで、言いたくない」
父親は息を吐いた。
その息は、少しだけ笑いに似ていた。
「面倒なところが、ロイに似てきた」
「元からだよ」
ロイが初めて口を挟んだ。
アルトは、兄を見た。
兄は目を逸らさなかった。
*
村の外まで、ロイがついてきた。
父親は鍋があると言って店へ戻り、イナは戸口から手を振った。
豆畑の新しい道を通る。
アルトは、もう間違えなかった。
柵の角で、ロイが立ち止まる。
「昨日の、変な魔法使い」
オレへ言った。
「はい」
「面白かったです」
少し照れたような顔だった。
「ありがとうございます。王様が勝手に台詞を増やすので、大変でした」
ゴルドが後ろで、国家の事情だと言った。
ロイは笑い、それから弟へ向き直った。
「剣の話ばっかり、してたな」
アルトは黙って聞いた。
「料理ができるのは、知ってた。他も、少しは見た」
それ以上、言葉を飾らなかった。
アルトは頷き、手を出しかけた。
握手するには、少し大げさだったのかもしれない。
ロイはその手へ、忘れていた荷紐を載せた。
「これも持っていけ」
「ありがとう」
結局、荷物が一つ増えた。
二人の手は、その受け渡しの間だけ、近くへ寄った。
*
坂を上る途中、アルトは一度だけ振り返った。
村の屋根が見えた。
煙が三本、上がっている。
行きと同じ本数かどうか、オレは覚えていなかった。数えたわけではないからだ。
彼は少し見てから、前へ向いた。
「また、出るんですね」
オレが言うと、アルトは頷いた。
「はい」
「前と、違います?」
余計なことを聞いたかもしれない。
でも彼は困った顔をせず、しばらく歩いた。
「荷物が、重いです」
答えた。
オレは笑った。
「確かに」
「あと、帰ったときに聞くことが、もうあります。金具が合ったか、とか」
その声は軽かった。
怖さがなくなった人の声ではない。
次の戸を叩く言葉が、一つ増えた人の声だった。
*
ハイベルへ着いたのは、夕方だった。
店へ顔を出すと、店主はまず人数を聞いた。
「四人、帰りました。ゴルドさんの腕は、まだ治療中です」
「ああ。便は読んだ」
オレは茸の包みを置いた。
店主は中を確かめ、村の食堂の味を尋ねた。
焦げ目のつけ方。根菜の切り方。鍋を動かす頃合い。
話していると、旅が少しずつ厨房の言葉へ戻った。
「芸も、やったそうだな」
急に言われ、顔を上げた。
「便には、そこまで書いてません」
「市から先に帰った客が来た。借金は消せないそうだな」
また、そこだった。
「演目の、ほんの一部です」
「一番覚えやすかったらしいぞ」
オレは頭を抱えた。
店主は笑いもせず、空の盆を渡した。
「今日は挨拶だけでいい。明日、聞かせろ」
「これ、何に使うんです?」
「そこの碗を返す。手ぶらで帰るには、まだ少し働けそうな顔だ」
結局、碗を運んだ。
馴染んだ重さだった。
*
ゴルドは、約束通り二十ピィをマルヴァへ渡した。
セラが横で記録する。
残りは百五十五ピィ。
間違いなく減ったが、終わりにはまだ遠い。
マルヴァは金を受け取ると、爺さんの袖を見た。
不揃いな縫い目が、そこで初めて別の人の目に触れた。
「誰が縫った」
「アタシです」
オレが言うと、彼女は布の端をつまんだ。
しばらく黙って見たあと、糸がほどけかけた一箇所だけを結び直した。
「残りは、使える」
全部やり直されると思っていたので、少し驚いた。
ゴルドは袖を見下ろす。
「いい腕だろう」
「その腕を怪我させたのは、お前だよ」
爺さんは口を閉じた。
マルヴァは、村で何が起きたかを聞いた。
今度は武勇伝だけにはならなかった。
誰が負傷し、何を置いてきて、何が戻ったか。
ゴルドは途中、オレとアルトへ何度か確かめた。
覚えていることを確かめ合う姿が、いつもの大きな声より、少し新しかった。
*
数日後、教会へ三回分の紙を持っていった。
ベナに、実際の仕事で何をしたかを伝えるためだった。
道具を一度取り違えたこと。
水差しを置く場所を先に空けたこと。
セラの指示がない作業は、しなかったこと。
ベナは話を聞き、練習用の籠を出した。
「どれを、間違えた?」
オレは二つの袋を並べた。
あのときは、焦ると同じ大きさに見えた。
今は、印の違いが分かる。
「急いだときにも、見分けられる置き方にしてみよう」
オレは籠の中を少し変えた。
もう一度、言われた物を出す。
できた。
嬉しかったが、これで魔法が使えるようになったわけではない。
その二つを、もう喧嘩させずに済むようになっていた。
*
カルダスからの照会の返事は、まだ来ていなかった。
ドリスは、受け付けたという便だけ見せてくれた。
探している問いが届いたことは分かる。それ以上を、待っている間に作るわけにはいかない。
代わりに、別の手紙が来た。
ベリルからだった。
ハイベルへ戻る予定が近づき、また仕事を頼めるかという内容だった。市のあとも修理を続け、遠くの町で何度か公演したらしい。
書き方には、以前の誇張した宣伝の勢いが少し残っていた。
ただし、ミアのレベルも、竜を従えたという文句もなかった。
頼みたいのは、人形芝居の前に客を迎える短い芸。
一座の幕を直す間を、客に待ってもらう仕事でもある。
オレは手紙を二度読んだ。
賢者への記録を探す便を待ちながら、遊び人としての仕事が来た。
どちらか一方を選べ、とは書かれていなかった。
*
宿の卓で、返事の下書きをした。
いきなり引き受けるのではなく、戻る日と、必要な長さ、使える場所を聞く。報酬と、手伝いが要る場合の人数も。
セラは一度だけ目を通した。
「前より、聞くことが具体的ね」
「椅子にも、好みがあるので」
イナの七つ目の椅子を描いた頁を見せると、セラは少し笑った。
アルトは、自分の名前が出演者の欄に仮で入っているのを見つけた。
「また、料理人ですか」
「できれば。今度は、台詞を少し増やしたいです」
ゴルドが横から顔を出す。
「王は?」
「まず、腕を治してください」
「治ったら?」
「勝手に台詞を増やさない契約を」
「王権への干渉だ」
セラが、別の帳簿を机へ置いた。
「王様。残り百五十五」
爺さんは水を飲んだ。
アルトが笑い、オレも笑った。
*
部屋へ戻ると、引き出しに三枚の診断書があった。
最新は十のまま。
今回の旅でどれだけ変わったかは、まだ測っていない。
紙の横へ、基礎の受講記録と、演目の直しを置いた。
魔法は今日も出なかった。
でも、次に見せたい芸がある。
次に教わりたいこともある。
アルトには、次に帰ったら聞くことができた。
それぞれの続きを持って、また同じ卓へ集まれる。
オレは演目の題を、もう一度書いた。
王様の朝ご飯。
その下へ、別の題のための空きを取る。
今度は、最初から空いていると分かっている場所だった。