第53話 幕の向こうの席
第53話 幕の向こうの席
最初の観客は、椅子だった。
四つ並べ、少し後ろにもう二つ置いた。人が座ると見えなくなるはずの場所へ、アルトが手拭いを掛けてくれた。
オレは卓の前へ立った。
「さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも不思議な――」
止まった。
何が不思議なのか、まだ決めていなかった。
ゴルドが、舞台代わりの敷物の横から言う。
「喋り始めてから決めるのか」
「いつもは、相手を見て決めるので」
「椅子は手強いな」
その通りだった。
顔がない。
話しかけても、今日どんなことがあったかを教えてくれない。
市の余興を引き受けた瞬間には、人を前にすれば何とかなると思った。その人が来る前に何とかしておく必要があると、今になって分かった。
*
演目は短いものにする。
食事の時間を邪魔せず、途中から見ても分かるもの。急な警戒の合図があれば止める。
ドノとは、余興は会場手伝いと別に十二ピィと決めた。木型と磨く道具、敷物の布に合わせて四ピィ、手伝うアルトとゴルドへ二ピィずつ。残り四が、オレの取り分になる。
大金ではなかった。
でも、笑わせるために使う時間へ、先に値段がついた。
そのことが嬉しくて、少し怖かった。
道具は、小さな木の卵と、布と、銅貨を一枚。木の卵は、村で繕い物に使っていた形の悪い木型を譲ってもらい、手に痛くないよう角を磨いたものだった。
削るのはアルトがやってくれた。
オレは磨き、手の中へ隠し、隠れないことを確かめた。
「大きいですね」
「卵ですから」
「銅貨のつもりで持てません」
そこで初めて、卵は消さず、銅貨を消す話に変えた。
できることから台詞を作る。
椅子に向かって言うと簡単そうなのに、実際には自分の手に何度も訂正された。
*
題は『王様の朝ご飯』にした。
王様はゴルド。
料理人はアルト。
何でも出せると名乗る魔法使いが、オレだった。
「賢者じゃないんですか」
アルトが聞いた。
「今日は、嘘だとすぐ分かる方にします」
「魔法使いなら、俺だろ」
ゴルドが口を挟む。
「本物がやったら、何でも出せないのが気の毒になるので」
「俺は何役でも気の毒らしいな」
王様の冠は、籠の縁へ布を巻いたものだった。重くなく、座ったままでも見える。
ゴルドは被るなり、少し顎を上げた。
似合った。
それが、かえって腹立たしかった。
「朝飯を持て」
「まだ始まってません」
「役の稽古だ」
アルトが木の卵を皿へ置く。
ゴルドが齧ろうとしたので、二人で止めた。
「本物かどうか、確かめる演技だ」
「歯で確かめないでください」
そのやり取りを、オレは紙へ書いた。
予定していた台詞より、今起きたことの方が面白かった。
*
セラは、最初の通し稽古を見た。
見終えると、椅子から立ち上がった。
「長い」
短い感想だった。
「どこが?」
「朝ご飯が来る前の説明。王様が空腹なのは、顔で分かる」
ゴルドが抗議しかけたが、ちょうど腹が鳴った。
説明が一行減った。
オレが銅貨を消すところでは、セラは何も言わなかった。
最後まで見てから、座る位置を変える。
「ここだと、右の手が全部見える」
コルム村でピトに見抜かれた場所と同じだった。
椅子を動かすか、自分が動くか。
オレは卓へ立つ角度を変えた。
もう一度。
今度はアルトの皿が、銅貨を見せる手へぶつかった。
銅貨が落ちた。
ゴルドが足で押さえた。
「余のものだ」
セラが笑った。
小さな笑いだったが、稽古を始めてから、初めて客の側へ出た笑いだった。
オレは拾う前に、また一行書き足した。
*
夕方、イナの家へ布を借りに行った。
背に垂らす白い布が欲しいと話すと、彼女は洗いざらしの一枚を出した。舞台の幕にするような上等な物ではなく、物を覆っておくための布だった。
「洗って返してくれればいい」
「今日は、布を借りる人ばかりですね」
「貸せるものが多いからね」
イナは窓の前で、糸を巻いていた。
オレは布を畳みながら、明日見に来られるか尋ねた。
「行くよ。明るいうちだろ」
「はい。昼の食事のあと、短く」
「短いのはいい。長いと、途中で腰が飽きる」
顔より先に飽きる場所があるらしい。
イナはオレの手元を見た。
「緊張してる?」
「少し」
「少しにしては、同じ角ばかり合わせてる」
手が止まった。
アルトの癖を、いつの間にか借りていた。
「面白くなかったら、どうしようかなって」
「終わってから、次を面白くすればいい」
「明日の分は、どうにもならないですね」
「どうにもならない日も、一日だよ」
慰めになっているような、なっていないような返事だった。
でも、絶対に笑ってあげるとは言わなかった。
オレは、その方が少し楽だった。
*
五日目の朝、村の市は小さく開き直した。
北の畑には見張りが立ち、道を通る人は南へ回る。壊れた荷台は片付けられたが、新しい木の色が残っていた。
村へ来た客も、何があったかを知っている。
大声で値を競う人は少なく、品を確かめる手がゆっくりだった。
オレは午前中、いつもの案内をした。
昼が近づくにつれ、台詞が頭へ浮かんでは消える。
荷車の場所を聞かれて、王様の朝ご飯の場所を言いそうになった。
危ない。
今いる客が先だった。
食事が一段落すると、ドノが椅子を運んできた。
四つ。
さらに三つ。
立って見る人が何人か寄り、子供が前へ座った。
オレは庇の柱へ、白い布を結んだ。
幕と呼ぶには薄い。
向こう側でゴルドが冠を直す影が、よく見えた。
隠しきれない舞台だった。
*
アルトが、オレの前へ水を置いた。
「飲みます?」
頷いて、少しだけ飲んだ。
手が震えていた。
獣を見たときとは違う震えだった。逃げたいのではない。早く始めたいのに、始まってほしくなかった。
布の向こうから、イナの声がした。
椅子をあと少し右へ置いてほしい、と頼んでいる。
見に来た人が、自分の座る場所を作っていた。
オレは碗を返し、掌を衣装の脇で拭いた。
酒場の接客の声なら、出せる。
でも今日は、店主の用意した客のところへ行くのではない。
自分で呼び、自分で終わらせる。
息を吸った。
布の脇から、外へ出た。
*
「お食事のあとに、もう一つ朝ご飯はいかがでしょう♪」
最初の声は、ちゃんと出た。
子供が、もう食べた、と答えた。
「では、今から食べる王様の心配をしてあげてください」
ゴルドが椅子へ座る。
冠が少しずれている。
本人は気づいていたが、直さなかった。
「余は腹が減った」
言った途端、客の一人が笑った。
セラの指摘は正しかったらしい。
アルトが、木の卵を持ってくる。
「まず、こちらを」
「小さい」
「一羽が、一晩で頑張りました」
「なら、もう一晩待とう」
後ろの客まで、少し顔が上がった。
オレはその間へ、両手を広げて入った。
「お待たせしません。アタシは、何でも出せる魔法使いですから」
ゴルドが、卵を持ったままこちらを見る。
「では、鶏を」
稽古では、最初に料理を頼むはずだった。
いきなり、生産者を求められた。
オレは一瞬止まり、アルトを見た。
彼も止まっている。
「……卵のお母様は、本日お休みです」
口から出た。
イナが、肩を揺らした。
*
次に、銅貨を見せた。
これ一枚で朝ご飯を用意する、という場面だった。
右から左へ。
握る。
開く。
空だ。
子供の一人が、右、と言った。
聞こえた。
オレは右手を胸の前へ引かず、そのまま少し横へ出した。
「鋭いお客様には、追加料金をいただきたいところですが」
右の拳を開く。
銅貨がある。
「残念ながら、まだ一枚しかありません」
笑いが起きた。
種を見抜かれたのは失敗だった。
でも、見抜いた人まで、舞台の外へ追い出す必要はなかった。
ゴルドが手を出す。
「それをよこせ」
「朝ご飯のお代ですよ」
「余の金だ」
「国民の朝ご飯です」
「余も、国にいる」
理屈がいかにもゴルドで、アルトまで笑いかけた。
オレは銅貨を卓へ置いた。
今度は落とさなかった。
落とす場面として拾った台詞が、一つ使えなくなった。
それでも、続けた。
*
王様は、パンも汁も欲しがった。
何でも出せる魔法使いは、そのたびにアルトへ目配せをする。
料理人が実際に運んできているのは、客から丸見えだった。
オレだけが、大げさに両手を振る。
「いでよ、温かな一皿!」
アルトが皿を置く。
「いでよ、よく洗った匙!」
アルトが匙を置く。
「いでよ――」
「先に、何人分か言ってください」
料理人が、とうとう口を挟んだ。
客が笑った。
実際に食堂で働く人が、後ろで大きく頷いていた。
オレは胸へ手を当てた。
「魔法使いに、そのような細かいご注文を」
「皿が足りません」
今度は、もっと笑った。
手を振るだけで全部揃う世界は、どうやらここの客にも馴染みが薄いらしかった。
ゴルドが碗へ手を伸ばす。
左腕を使わないよう、右へ寄せてある。
稽古では普通に持ち上げたところで、彼はわざと碗を追いかけた。
「飯が逃げる」
イナが声を上げた。
「下へ布を敷きな!」
朝ご飯のときと、同じ台詞だった。
ゴルドが客席を見た。
「この国には、賢い者がおる」
イナは、とうとう大きく笑った。
*
皺の深い目が、細くなった。
椅子の背へ一度寄りかかり、また前へ戻る。隣の女の腕を、笑いながら軽く叩いていた。
ただの、面白い物を見ている人だった。
その顔を見た瞬間、胸の奥の何かが、静かにほどけた。
痛みや昔の出来事が消えたのではない。
今この短い間、その人がここに座って笑っている。
オレは、次の台詞を忘れそうになった。
アルトの指が、卓を一度叩く。
合図だった。
戻った。
舞台には、まだ終わりが要った。
*
最後に、王様が銅貨を握った。
「金を消すなら、借金も消せるか」
これも、稽古にはなかった。
セラが客の後ろから、すっと顔を上げた。
オレの口が先に動いた。
「それは払わな消えへんやろ!」
低い節回しが、庇の下を跳ねた。
笑いが、大きくなった。
ゴルドが肩をすくめ、冠がさらに傾く。
オレは笑顔のまま、喉が冷えるのを感じた。
光の前に、手がある。
誰かを笑わせるために書いた一行を、送るかどうか迷っている指。
押した瞬間だけ、部屋の中が静かになる。
返事を待っている。
どの部屋だ。
どの手だ。
アルトが皿を持ち上げた。
「王様。朝ご飯が冷めます」
オレはその声へ戻った。
取り繕った敬語を、今度は役の中へ使った。
「失礼いたしました。魔法使いにも、消せない物はございます」
「では、空腹を消せ」
「召し上がれ」
三人で、同じ皿を示した。
拍手が起きた。
*
終わって布の陰へ入ると、膝が少し笑っていた。
ゴルドが冠を外す。
「うまくいったな」
「勝手に、台詞を増やしましたね」
「飯を待つ王が黙ってるのは、おかしい」
「借金は?」
「切実だった」
笑いかけて、喉へ手を当てた。
さっきの声は、もう出ない。
出そうとして再現する気にもなれなかった。
アルトが水を渡してくれる。
「大丈夫ですか」
「はい。ちょっと、びっくりして」
何に、と聞かれなかった。
水を飲むと、口の中へ今の冷たさが戻った。
布の向こうでは、椅子が動かされていた。
客はそれぞれ、買い物や食事へ戻っていく。
その日全部を奪うほどの舞台ではなかった。
短い間だけ、座ってもらった。
オレには、それがちょうどよかった。
*
イナは、最後まで椅子に残っていた。
片付けながら挨拶に行くと、彼女は顔を上げた。
「耳の人じゃなかったね」
「今日は?」
「舞台の人だった」
返事が、すぐに出なかった。
イナは、オレの後ろへ目を向ける。
アルトが皿を洗い場へ運んでいた。
「うちの隣の子が、王様の飯まで作るとはね」
「いつも、助けてもらってます」
「そうだろうね。よく食べてる顔だ」
褒め言葉としては、少し幅が広かった。
オレは笑った。
イナが立ち上がると、アルトが手を差し出した。
今度は仕事の交替も済んでいる。
二人はゆっくり、家の方へ歩いていった。
古い手拭いは洗われ、アルトの鞄の横で乾いていた。
*
夜、演目の紙へ直しを入れた。
最初の口上を短く。
鶏の母親は、残す。
銅貨を落とすことに頼らない。
王様の勝手な台詞は、相談する。
最後の一行に、力が入った。
その下へ、イナの言葉を書こうとして止めた。
今日は、まだ紙にしてしまうのが惜しかった。
代わりに、客の座る椅子を六つ描いた。
七つ目を、少し斜めに。
腰が飽きない場所へ動かした椅子だった。
次に誰かへ見せるときにも、そこの空きを残しておこうと思った。