第52話 空いた椅子の数
第52話 空いた椅子の数
朝ご飯は、昼近くになって出た。
待っている人の顔は、待つ時間とともに少しずつ変わった。
最初は外の音を聞いていた。次に家のことを話し始めた。最後には、まだか、と鍋を見るようになった。
食欲が戻るのはよいことだ。
ただし、鍋の中身は、そのよい変化に合わせて増えてはくれない。
「小さい碗から配ります。足りなければ、もう一度」
オレが言うと、ゴルドが片手を上げた。
「初めから二度目でもいいか」
「一度目を食べてから、考えてください」
左腕には布が巻かれていた。牙の先で裂けた傷と、獣を避けて壁へ当てた打ち身がある。セラが手当てをしたが、今日は重いものを持つなと言われていた。
爺さんは右手で匙を使い、たびたび碗を追いかけた。
片手だと器が逃げる。
イナが、自分の足元の布を一枚渡した。
「下へ敷きな」
碗が止まった。
ゴルドは黙って一口食べ、それから頷いた。
「よく効くな」
「布だよ。褒めるなら、洗って返して」
爺さんが素直に礼を言ったので、オレは少し笑いそうになった。
*
ケイは、奥の寝台にいた。
足は腫れていて、その日は歩けなかった。セラと村の治療役が今後の手当てを話し、必要ならハイベルへ運ぶことも決めておく。
オレは勝手にその相談へ入らず、水差しと食器を運んだ。
青年の顔は、朝より少し色が戻っていた。
「アルトさんは」
「鍋のところです」
「礼、言ってなくて」
「逃げませんよ。今は、芋から」
ケイが少し笑った。
笑ったあと、足が痛んだらしく顔をしかめる。
オレも笑みを引っ込めかけたが、彼が手を振った。
「大丈夫です。いまの、変でした」
「どの部分が?」
「芋から逃げる勇者」
言葉を繰り返し、もう一度小さく笑った。
窓から、昼の光が寝台の端へ落ちていた。
それを見ていると、朝に物置で見た顔が、同じ人の顔へ戻っていくようだった。
*
食後、オレたちは荷の確認に回った。
北側の通りは自警が見ている。安全を確かめた場所だけ、持ち主と一緒に入った。
商人の麦袋は、二つ破れていた。
地面に落ちた分を、無傷の分へ混ぜて売ることはできない。男は袋の口を押さえ、長い間、何も言わなかった。
オレは印の板を見せた。
男は頷き、自分の物だと確かめる。
「止めてくれて、助かったんだろうな」
ぽつりと言った。
オレは返事に困った。
「でも、腹は立つ」
「……はい」
「お前にじゃない。何にって言われると、分からん」
男は紐を拾い、使えそうなところだけ巻いた。
朝、小屋の戸口で止めたとき、怒られても仕方ないと思っていた。その後で感謝されれば全部落ち着く、とどこかで思っていたのかもしれない。
礼と怒りは、同じ人の中に残った。
オレは、袋を持つ方へ回った。
持ち帰れる分だけを、二人で持った。
*
食堂の被害は、裏の塀と、物置の棚だった。
父親は壊れた棚を見て、まず中に入れていた道具を数えた。
ロイは板を運び、アルトは散らばった物を拾う。
三人の手が同じ場所へ伸びるたび、誰かが少し引いた。
家族だから何も言わずに済む、というほど簡単ではないらしい。
オレは頼まれた空箱を運んだ。
物置の裏を通ると、板の下が少し浮いていた。
アルトが開けたところだった。
彼はその板を見てから、父親に言った。
「ここ、通れるように残せる?」
「隙間風が入る」
「留め具を、内から外せるようにすれば」
ロイが手を止めた。
父親は板を持ち上げ、下の石を見た。
「人が通るには、足元も直さんとな」
その場で、直し方の話になった。
昔隠れた場所を、今度は逃げ道として残す。
オレは、その説明を誰も口にしないのを聞いていた。
板の幅と、石の高さの話だけが続いた。
*
昼の終わりに、セラは小屋の外で腰を下ろした。
呼ばれればすぐ立てるように、壁へ背を預けるだけの座り方だった。
オレは冷たすぎない水を持っていった。
彼女は受け取り、ゆっくり飲む。
指に、インクではない黒い汚れがついていた。物置の板に触れたところだろう。
「魔法、何回使ったんですか」
尋ねると、セラは少し眉を寄せた。
「回数だけ数えても、同じ仕事じゃないわよ」
「疲れるんですよね」
「ええ」
いつもの、理屈を挟まない返事だった。
オレは隣へ立ったまま、小屋の中を見た。
ケイは眠っている。ゴルドは起きているが、今日は人をからかう声にも間があった。村の治療役が、さっきセラと決めたことを確かめながら回っていた。
「もっと強い人なら、全部一度に治せるんですか」
「何を治すかによる。強ければ、手順が要らなくなるとは限らない」
セラは碗を持ち替えた。
「私は、今日はもう、できることを分けたい」
オレは頷いた。
賢者になった自分の姿には、疲れて水を飲む時間が抜けていた。できることを増やした先で、何人分も一人で引き受ける顔ばかり浮かべていた。
目の前の人は、碗を空けてから、汚れた指を布で拭いた。
「ミア。あと一度、道具の籠を見てくれる?」
「はい」
頼める仕事として、自分の名が出た。
オレはその一つを受け取り、彼女が水を飲み終わる時間を少しだけ増やした。
*
夕方、ドノが依頼の延長を相談に来た。
ギルドへ連絡の便を出し、畑の調査と警戒の手配を頼んだ。近隣からも人が来る。明日は片付けと確認に当て、市の残り一日は明後日へ延ばしたいという。
オレたちの予定より、二日長くなる。
見回りと会場の手伝いを続ける二日分として、追加六十四ピィ。寝場所と食事も、その間は村が用意する。
負傷者の薬や村の壊れた荷の補償は、それとは別に世話役がまとめる。セラ一人の財布へ全部入る話にはしなかった。
オレたちは四人で話した。
ゴルドは、今日は休む。
明日以降も腕の状態を見て、力仕事は村の人へ頼む。四人だけで畑の警戒を引き受けることもしない。
アルトはその条件を、自分からドノへ伝えた。
「できないなら、断ってもいいんだぞ」
ロイが横から言った。
弟を追い出す言い方ではなかった。
アルトは頷いた。
「うん。できるところを、決めて残る」
話が決まると、オレは店への便を書いた。
帰りが遅れる日数と、四人とも生きていること。ゴルドが腕を傷め、手当てを受けていること。
無事です、だけでは済ませなかった。
*
便を預けるとき、オレは一度、紙を開き直した。
借りた鉛筆の字が、少し詰まりすぎていた。
カルダスからの便を読んだ店主が、字が細かいと言ったことを覚えていた。
余白へ、帰る見込みの日を大きく書く。
その下へ、店でしておいた方がよい仕込みがあれば、戻ってからやります、と添えた。
書いてから、明日の代わりを帰ってからできるわけではないと気づいた。
二本線を引いた。
手伝いを増やすことになったら、帰還後に話を聞きたい、と書き直す。
遠くへ出た人間の、気持ちだけ先に戻す手紙は難しかった。
今度は読み返し、便の男へ渡した。
*
小屋へ戻ると、ゴルドが針を持っていた。
裂けた袖を、自分で縫おうとしている。
右手で針を持ち、左の袖を膝へ押しつける。布が逃げる。
「いま、それをやります?」
「穴が開いとる」
「知ってます。片手で、余計な穴を増やしてます」
針を取り上げると、爺さんは不服そうな顔をした。
「年寄り扱いせんかい」
「してるから、貸してくださいって言ってるんです」
オレは袖を持ち、マルヴァにもらった糸を出した。
縫い目は、上手くなかった。
近くで見れば、途中だけ歩幅の違う蟻の列のようだった。
ゴルドはそれを見て、うまいと言った。
「適当に褒めてますね」
「穴が塞がった」
「見た目は?」
「俺の腕につくんだぞ。もともと、そう立派な見た目じゃない」
笑ってしまった。
針を抜くとき、爺さんの指に小さな震えがあるのが見えた。
疲れていた。
いつも人より強い人が、人より遅く疲れるだけなら、最後に休む場所を作らなければならない。
オレは縫い終わった袖を戻し、針をしまった。
「今日は、もう座っててください」
「ずっと座っとるぞ」
「落ち着きなくです」
爺さんは、ようやく背もたれへ寄りかかった。
*
夜、食堂の裏で、アルトとロイが並んでいた。
オレは洗った碗を戻しに来て、戸口で足を止めた。
戻ろうとすると、ロイがこちらへ手を出した。
「それ、そこへ置いてください」
聞かれたくない話なら、そう言うだろう。
オレは碗を置き、乾いた布を片付けた。
「帰ってきたからって、こっちへ戻るとは思ってない」
ロイが言った。
アルトは黙って聞いている。
「でも、帰ってこないのとは、違うんだな」
声は少し掠れていた。
アルトは膝の上で、手を握った。
「前は、違わなかったと思う。何かできたら、って言って、帰らなかった」
「そうだな」
兄は否定しなかった。
「今日のことがあったから、前のことまでなくなるとは思ってない」
アルトが続けた。
ロイはしばらく庭を見た。
「そこを、毎回全部、持ち出さなくてもいいだろ」
弟が顔を上げた。
「腹が立つことは、まだある。でも、金具の話もしたい。鍋の話も。お前が帰るたび、昔の採点だけしてたら、それで終わる」
オレは布を畳む手を止めかけた。
止めずに、最後の角を合わせた。
アルトは頷いた。
兄の怒りが全部消えたわけでも、弟の怖さが終わったわけでもない。
それでも、次に話すものを二人で増やそうとしていた。
*
父親が、厨房から包丁を持ってきた。
柄の金具が緩んでいる、あの包丁だった。
机へ置くと、刃の長さより、使い込まれた柄の艶が目立った。
「これだよ。紙の寸法じゃ分からんだろ」
アルトが受け取った。
すぐにロイを見て、使ってよいか尋ねる。
「刃は、大丈夫。柄を振るな」
アルトは頷いた。
紙を当て、穴の間隔と厚みをもう一度写す。薄板の見本と並べると、どこが違うか分かった。
「カルダスへ、注文し直す。受け取ったら、便で送るよ」
「今回は、返事を省くなよ」
「うん」
ロイが自分の手で、写した線へ印をつけた。
借り物の家族の話を見ているようで、少し羨ましかった。
オレには、誰が使ったか分からない手の記憶がある。
彼らには、誰が使ったか分かる一本の包丁がある。
重さの違いを比べられるものではない。それでも、その柄が掌に収まる感じを、一度知りたいと思った。
アルトが、オレの方を見た。
「重いんです。持ってみます?」
驚いて、それから頷いた。
*
翌日は、朝から人が増えた。
隣村の自警が二人。ギルドから来た調査役が一人。石鎧猪の跡を見慣れた猟師も来た。
彼らは最初に、どこで見たかを別々に聞いた。
アルトとケイの話が合うところもあれば、見えていなかったところもある。後で知ったことを、そのとき見たことへ混ぜないよう、何度も確かめていた。
オレは、鍋蓋を持っていた場所を示した。
その位置からは、物置の裏は見えなかった。
見えなかった、と答えた。
猟師は頷き、地図へ印をつけた。
畑の外の水場に、獣が集まった痕跡があるという。市の匂いだけが原因とは限らず、もう少し周囲を見る必要がある。
オレは、全部を一つの理由へ片付けそうになっていた頭を止めた。
市を開いたから襲われた。
それだけなら、誰かを責めるのも、次を決めるのも簡単だった。
まだ簡単にはならなかった。
*
夕方、会場を小さくして再開する見込みが立った。
北側には店を出さず、南の広場と食堂前だけを使う。警戒は引き続き別の組が担い、四人は人と荷の案内へ戻る。
ドノが、短い余興を入れられないかと尋ねた。
疲れている人もいる。大騒ぎにはしたくないが、閉じたままの顔ばかりで市を終えるのも寂しい、と。
アルトがオレを見た。
オレは、イナの卓を思った。
「短いものなら、やってみたいです」
言うと、胸が少し速くなった。
頼まれた隙間を埋める冗談とは違う。
始まりから終わりまで、自分で作る時間をもらった。
ドノは、場所を指した。
「食堂の庇の下でどうだ。雨でも困らん」
オレはその場所へ立ち、客の座る方を見た。
空いた椅子は、まだ四つしかなかった。
四つなら、誰が笑ったかも、笑わなかったかも、全部見えそうだった。