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第51話 誰かの通りがかり

第51話 誰かの通りがかり

 セラは、アルトの隣へしゃがんだ。

「足は、どこまで挟まってる?」

「足首の上です。引くと、痛がって」

「引かなくていい。顔をこっちへ向けて」

 ケイは、歯を食いしばっていた。

 朝、パン屑をつけていた口元が、いまはひどく大人びて見える。痛みに耐えている顔は、年齢を見分けにくくするらしかった。

 ロイが棚の端へ手をかけた。

 セラは片手を上げて待たせ、まず足と棚の位置を見る。

 オレは、その後ろに立っていた。

 狭い。

 物置の壁と隣家の塀の間に、大人が何人も入ると、誰かが動くたびに別の誰かが身体を捻らなければならない。

 ここへ入ってから、腰の鞄が二度引っかかった。

 オレは鞄を外し、足元ではなく壁の上の平らな場所へ置いた。

 手を空ける。

 教会の机よりずっと狭かったが、最初にすることは同じだった。

     *

「ミア、これを持って。まだ開けない」

 セラが布の包みを渡した。

 オレは受け取り、両手で持った。

 ケイの呼吸が速い。

 アルトは肩を支えたまま、名前を呼んでいた。

「ケイ。兄が戻った。セラさんも来た」

「……分かる」

「うん」

 それ以上、喋らせなかった。

 オレは塀の隙間を見た。

 灰色の板が、ゆっくり動く。

 三頭目は、塀の向こうに鼻を入れ、地面を掘っていた。こちらを目指しているのか、こぼれた麦を食べているだけなのか、分からない。

 ただ、あれがこちらへ来ると、逃げる幅がない。

 手の中の包みが、急に重くなった。

 アルトも同じ方を見た。

 その目が、ほんの一瞬だけ閉じた。

 耳を塞ぐ手はなかった。

 両手は、ケイを支えていた。

     *

 ゴルドが裏道へ来たのは、それからすぐだった。

 広場の二頭は北の畑へ退き、村の自警が距離を取って見ているという。

 爺さんは狭い道を覗き、舌打ちした。

「こっちへ入れられん」

 何を、と聞かなくても分かった。

 ゴルドは人のいる隙間へ入らず、隣家の向こう側へ回った。

 ロイへ短く、裏の出口を開けておけと言う。

 次に、低い声が塀の向こうから聞こえた。

 爺さんの声ではなかった。

 石鎧猪が鼻を鳴らした。

 ゴルドが、何かを地面へ落とす音がした。

 オレは見ようとして身体を上げかけたが、セラに名を呼ばれた。

 包みを開く。

 布を一枚、渡す。

 目の前へ戻るために、名前を呼んでもらったような気がした。

     *

 倒れた棚は、中の道具が片側へ寄っていた。

 そのまま持ち上げようとしても、壁に当たる。

 ロイとアルトが角度を確かめる間、セラはケイの様子を見ていた。

 オレは、散らばった軽い物を道の端へ寄せる役になった。

 空の籠。布袋。折れた柄。

 急げばいくらでも雑にできる仕事だった。

 雑に置けば、誰かの踵が踏む。

 オレは一つずつ、後ろへ寄せた。

 セラが合図する。

 兄弟が棚を少し浮かせた。

 ケイが声を上げた。

 オレの手が止まる。

「そのまま」

 セラが言った。

 誰に向けた言葉か分からず、全員が止まった。

 彼女は足の位置を確かめてから、ロイを見た。

「こっちを、もう少し」

 ゆっくり、動く。

 足が抜けた。

 ケイの身体が、アルトへ大きく預けられた。

 棚を下ろす音は、予想より小さかった。

 オレは、ようやく息を吐いた。

     *

 抜ければ終わり、ではなかった。

 ケイは立てない。

 セラはその場で必要な確認をしてから、運び出すことを決めた。足へ布を当て、移動の間に不用意に動かさないよう、ロイへ支え方を伝える。

 詳しいところは、オレには分からない。

 分からないまま、分かった顔をしないようにした。

 言われた物を渡し、空になった袋をしまう。

 アルトがケイの腕を持ち直したとき、若者が小さく言った。

「すみません。槍、落として」

「いまは、いい」

 アルトは答えた。

「外に。まだ」

「あとで、見られる人が見る」

 声は強くなかった。

 それでも、同じことをもう一度言ったとき、ケイは口を閉じた。

 オレは、森に残した杯のことを少しだけ感じた。

 帰ってきた物もある。

 帰ってこなくても、そのために人をもう一人置いてくるわけにはいかなかった。

     *

 裏の石段へ向かおうとしたところで、ゴルドが呼んだ。

「そっち、まだ出るな!」

 ロイが足を止めた。

 塀の向こうで、硬いものが擦れた。

 獣が向きを変え、裏道へ頭を寄せていた。

 ゴルドは追い払おうとして、そのまま石段側へ走らせてしまうのを避けているらしい。

 オレは、見えない向こう側を想像した。

 頭の中で作った獣は、実物よりずっと大きくなった。

 両手が冷える。

 アルトが、物置の壁を見た。

 指先で、一枚の板へ触れる。

「中へ、抜けられます」

 ロイが振り向く。

「戸は、向こうだろ」

「この板。下が、留まってない。昔、薪を出すときに使ってた」

 彼は一度口をつぐんだ。

 それから、手で確かめた。

 下の端が、少し浮いた。

 古い記憶だけで決めず、いまの板を見ていた。

     *

 板を開くと、中は暗かった。

 乾いた藁の匂いがした。

 アルトの顔が、また白くなった。

 オレは何も聞かなかった。

 ここへ隠れたのかもしれない。

 このすぐ裏で、耳を塞いでいたのかもしれない。

 彼は、昔の場所について全部を説明しなかった。

 代わりに、中に物があるか、戸が開くかを見た。

 先に入って、向こう側へ抜ける。

 戸を押す音。

 止まる。

 オレは、夜にロイが話した棒のことを思った。

 アルトは戸を強く引かなかった。

 一度、小さく戻した。

 棒が動いた。

 向こうから、細い光が入った。

「開きました」

 彼の声が、板の中からした。

     *

 中へ入ると、目が暗さへ慣れるまで、何もかも同じ茶色に見えた。

 古い藁、梁、積んだ箱。隙間から差す光だけが、細い線で別の色をしている。

 オレは戸の脇へ膝をついた。

 その位置では、外の空が見えなかった。

 足元を誰かが走る音が、板を通して腹へ響く。獣の音なのか、人の音なのか、ここからでは見分けられない。

 アルトの昔の話を聞いたとき、オレは外の様子まで見えるように想像していた。

 実際に板の内側へ身体を入れると、音ばかりだった。

 何が近いのか、どちらへ行けばよいのか、見えないまま決める怖さがあった。

 アルトが、窓の前の空箱を動かした。

 四角い光が床へ落ちた。舞い上がった埃がその中だけ白く光り、やがて、踏み固められた土の色が見えるようになった。

 彼は空箱を通り道の外へ置き、明るくなった場所を指した。低い天井に頭をぶつけそうになって一度身を屈め、それから、こちらへ顔を戻す。

「ここへ、足を置けます」

 オレは頷いた。

 それから彼は、ケイにも同じ場所を示した。

 自分だけ先へ抜けるのではなく、後から来る人へ、見えたところを渡していた。

 オレは床の小さな木片を拾った。

 膝の下へ残っていたら、きっと誰かが痛い思いをする。

 今ここで分かる物を、一つずつなくした。

     *

 ケイを移すには、二人で持ち方を変える必要があった。

 ロイが手前を支え、アルトが中から受ける。セラは足の位置を見ながら、急がせずに言葉を送った。

 オレは戸を押さえ、地面へ布を敷く。

 手を置く場所と、足を引く場所を間違えないよう、何度も見た。

 ケイの額から汗が落ちた。

 アルトの手拭いが、その額へ当てられた。

 古い方だった。

 擦り切れた端が、若者の頬へ触れる。

「汚れます」

 ケイが言った。

 アルトは少しだけ笑った。

「使う物だから」

 昨日聞いた声と、同じ言葉だった。

 オレは顔を下げた。

 いま見たものを、大きな意味に変える前に、押さえている戸を離さないようにした。

     *

 物置の中を抜けると、食堂の裏庭へ出た。

 小屋へ戻る道が見えた。

 鍋蓋が、高く上がっていた。

 頼んだ女が、まだそこに立っていた。

 オレは片手を上げた。

 向こうで、戸口が空く。

 もう少し。

 ロイの息が荒くなり、ケイの重さを受ける腕が下がった。

 アルトが声をかけた。

「一度、止まろう」

「ここまで来て」

「落とす前に」

 兄の足が止まった。

 セラの指示で、腰を下ろせる低い縁へ一度預ける。

 数呼吸だけ。

 それで、次の一歩が変わった。

 小屋へ入ると、村の治療役が寝台を空けて待っていた。

 ケイを下ろした途端、アルトの腕が大きく震えた。

 その震えを、隠そうとはしなかった。

     *

 外で、獣の声がした。

 オレは振り向いた。

 三頭目が北の道へ走り抜けていくのが、一瞬だけ見えた。ゴルドと自警の男たちは、その後ろを追わず、道を横へ塞ぐ位置にいた。

 爺さんの左腕が、少し低い。

 衣服の下に、土と血が混ざった色が見えた。

 セラも気づいたが、今はケイから離れなかった。

 村の男が、ゴルドを連れてくる。

「動くか」

 爺さんはケイを見た。

「いま確認してる。あなたも、そこへ座って」

 セラが言った。

 ゴルドは、今度はすぐ座った。

 オレは水差しを運び、椅子の脇へ置いた。

 爺さんは、自分の腕よりオレの顔を見て笑った。

「杯は、落とさんかったな」

「碗に替えましたから」

「そうか」

 笑った顔のまま、額に汗が浮いた。

 セラが傷を見るとき、少しだけ目を閉じた。

 痛くない人の顔ではなかった。

     *

 アルトは戸口へ出た。

 オレも、空の桶を持ってあとに続いた。

 外はもう朝だった。

 獣が来る前の灰色がなくなり、屋根の端がはっきり見える。広場には麦が散り、荷台が傾き、鍋の底から冷えた匂いがしていた。

 彼は壁へ片手をついた。

 もう片方で、口元を押さえる。

 吐きそうなのかと思ったが、しばらくすると息が落ち着いた。

 オレは桶を置き、少し離れて立った。

「ずっと、怖かったです」

 アルトが言った。

「はい」

「中へ入ったら、また出られなくなる気がして」

 物置の方は見なかった。

 オレは、彼の手に残った布を見た。

 ケイの汗で濡れた手拭いだった。

「出てきましたね」

 言うと、彼は頷いた。

 それ以上、勇者らしい言葉を求める気になれなかった。

     *

 ロイが小屋から出てきた。

 兄弟は向かい合った。

 アルトが何か言いかけると、ロイが先に口を開いた。

「お前、あの板、覚えてたんだな」

「うん」

「俺は、戸の方しか見てなかった」

 ロイは物置を見た。

 それから、弟へ視線を戻した。

「助かった」

 短い言葉だった。

 アルトは、すぐ頭を下げなかった。

 何度か唇を動かしてから、頷いた。

「兄さんが、戻ってきてくれたから」

 ロイは顔をそむけた。

「手が足りなかっただろ」

「うん」

 今度は、その一言で足りた。

     *

 ドノが見回りから戻り、広場へ人を集めた。

 三頭は畑の外へ退いた。まだ戻る可能性はあるので、北側は通行を止める。追跡は村だけでせず、ギルドへ駆除と調査を依頼する。

 今日の市は中止。

 荷の確認は、道ごとに順番に行う。

 その発表に、怒る人もいた。

 帰りの予定がある。商品が駄目になる。今日売れなければ困る。

 誰も、間違った理由で怒っているわけではなかった。

 オレは、鍋蓋を持っていた女から板を受け取った。

 子供たちは母親と会えたという。名前の横に、小さな丸がついていた。

 商人の荷の印は、まだ残っていた。

 オレはその人を探し、順番が来たら一緒に確かめると伝えた。

 男は疲れた顔で頷いた。

 昨日より、ずっと老けて見えた。

     *

 食堂の父親は、避難していた椅子から立ち上がった。

 アルトが慌てて寄る。

「まだ、戻らない方が」

「分かってる。こっちでできることだ」

 父親は、無事に運び出した鍋を指した。

「朝飯、どうする」

 アルトは鍋を見た。

 冷めていた。

 それでも、食べられるものが残っていた。

 彼は父親の隣へ立った。

「火を借りてきます」

「先に、何人いるか聞け」

 オレが板を持ち上げた。

「数えます。碗も、足りるか」

 セラが小屋の中から呼んだ。

「ゴルドの分は、片手で食べられるものを」

 爺さんの文句が、そのあとから聞こえた。

 いつもの声に似ていた。

 オレは桶を取り、井戸へ向かった。

 村の朝は、まだ全部、元には戻っていなかった。

 でも、朝ご飯の人数を数えるところまでは来た。

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