第50話 鍋蓋の旗
第50話 鍋蓋の旗
鍋の中で、汁が大きく揺れた。
アルトと父親は立ち止まらず、そのまま食堂の角を曲がった。父親の手が取っ手からずれかけ、息子の肩が低くなる。
ゴルドが駆け寄り、下から鍋を支えた。
「こっちへ。熱いまま転がすな」
広場の端へ置くと、爺さんは蓋を外してオレへ渡した。
「人を、小屋の奥へ」
オレは頷いた。
何で蓋を渡されたのか、一瞬分からなかった。
次の瞬間、北の道から獣の頭が見えた。
大きかった。
馬ほど高くはないが、肩の幅が人一人では足りない。背には、石を重ねたような灰色の板がある。曲がった牙が鼻の両側へ出て、土が湿った塊になって落ちていた。
石鎧猪。
頭へ名前が追いついたときには、もう道を塞いでいた。
*
獣は、すぐに人へ突っ込んではこなかった。
鼻を低くし、広場へ流れてくる匂いを嗅いだ。
煮込み。麦。豆。
昨日まで客を呼んでいた匂いが、今は別の相手にも届いていた。
ロイと自警の男たちが、食堂の横道へ板を渡す。積んであった空の荷台も寄せ、通り口を狭くした。
ゴルドは、その前へ立たなかった。
横へ下がり、獣の肩が動く方を見ている。
オレは小屋の戸口へ戻った。
中の人が、外を見ようと顔を寄せていた。
「戸の前を空けてください。後ろの椅子へ」
声を出す。
大きく言ったつもりだったが、広場の叫びに吸われた。
誰かが、猪だと叫んだ。
別の誰かが、門を閉めろと叫んだ。
閉める門と、開けておく戸が、同じ声で言われていた。
オレは目の前の男を見た。
「その椅子、奥へ運んでください。そこが空くと、この人が入れます」
子供を抱いた女を示す。
男はようやく振り向き、椅子を持った。
一人が動けば、次の一人の足が置ける。
オレは喉を潰す前に、近くの顔を順に見た。
*
鍋蓋は、戸の脇へ置こうとした。
金属の裏が、朝の光を返した。
アルトがこちらを見た。
彼は広場の向こうにいた。声をかけようとしているが、間に板を運ぶ男が何人も通る。
オレは蓋を胸の高さへ上げた。
アルトの目が止まった。
もう片方の手で、小屋の奥を示す。
彼は頷き、父親をこちらへ連れてきた。
声が届かなくても、持ち上げた物なら見える。
オレは戸口へ立つ女に頼んだ。
「これを上げたら、こっちへ来てほしい合図にします。人を出すときは、アタシに言ってください」
「鐘みたいに叩くの?」
「叩きません。ほかの合図と、混ざるので」
女は頷いた。
これは旗だった。
立派な紋章はなく、裏に昨夜の焦げが少し残っている。
それでも、ここに人がいることは示せた。
*
最初の猪が、空の荷台へ肩を当てた。
車輪が半分転がり、横棒が鳴った。
ロイが槍を構える。
「正面へ出るな!」
ゴルドの声がした。
獣が頭を振る。
牙が板の端を掠め、長い木片が飛んだ。
ロイは一歩下がった。
槍の先は、獣の背ではなく、横へ向いていた。あの板へ突き立てても、簡単には通らないらしい。
ゴルドが側面から棒を当てた。
獣は鼻先をそちらへ向ける。
爺さんはもう、元の場所にいなかった。
昼の薪割りとは違う速さだった。
獣が踏み込むところへ、地面の凹みがある。前脚がずれ、肩が下がる。ゴルドの棒が、板のない脚のつけ根へ当たった。
低い声が響いた。
獣は後ろへ下がったが、倒れなかった。
それだけの動きで、ゴルドの袖が裂けていた。
オレには、いつ触れたのか見えなかった。
*
二頭目は、最初の獣の後ろから広場へ入った。
一頭目より小さい。といっても、オレが押して戻せる大きさではない。
積まれた麦袋へ鼻を寄せ、引っかけて倒した。
紐が切れ、中身が地面へこぼれる。
商人が戸口へ飛び出そうとした。
「あれ、うちのだ!」
オレは腕を掴みかけ、やめた。
力比べになれば、負ける。
「印を言ってください。戻れるようになったら、誰の荷か確かめます」
「今、食われてるだろ!」
「見えています。でも、今は取りに行けません」
喉が固くなった。
笑顔で済む場面ではなかった。
男は外を見たまま、両拳を握った。
オレも外を見た。
荷が失われるのを、何も感じず見ていたわけではない。昨日、この人が袋を撫でて値段を話していたのを覚えている。
それでも、戸口は開けなかった。
男はしばらくして、印を言った。
オレは借りた板の端へ、その形を描いた。
失われる物の名前だけを、今ここに残した。
*
小屋の中で、椅子が倒れた。
外の音に驚いた老人が立ち上がり、脚を引っかけたのだった。
オレは鍋蓋を脇の女へ預け、内側へ回った。膝をつくと、老人は怒った顔で大丈夫だと言う。
顔の赤さが、痛みなのか恥ずかしさなのか分からない。
無理に起こさず、近くの二人へ椅子を戻してもらった。
「座るところだけ、用意しますね」
そう言うと、老人は少し待ってから頷いた。
本人が動く速さに合わせる間、外では獣の鼻息が続いていた。
急いでほしい。
その言葉が、何度も喉まで来た。
飲み込んで待ち、座れたのを見てから入口へ戻った。
女はまだ、蓋を持っていた。
オレがいない数十呼吸の間も、戸口はちゃんと続いていた。
*
三頭目の姿が、見えなかった。
数を聞いていたので、二頭で安心することはできない。
アルトは戸口へ父親を入れ、すぐに外へ戻ろうとした。
「もう一頭は?」
オレが尋ねると、彼は北東の家並みを見た。
「粉挽き小屋の方へ回ったって、ケイが」
ケイは今、見えない。
村の男が走ってきた。
「古い物置の道、板が倒れた。向こうへ人がいる!」
アルトの顔から、色が引いた。
古い物置。
オレは彼の手を見た。
柄へ触れた。
握った。
抜かなかった。
息が浅くなり、膝がほんの少し曲がる。
今までの話を全部知っているつもりでも、その人の身体で起きていることは、見ているだけでは止められなかった。
「アルトさん」
名前を呼んだ。
彼はこちらを見なかった。
だから、続けて励ます言葉を重ねなかった。
オレは、見えている道を指した。
「こっちの戸は、まだ使えます。戻る場所は、ここです」
彼の目が、鍋蓋へ動いた。
大きく、一度息を吐いた。
*
ゴルドが、広場から声を上げた。
「人を下げろ! そっちは、ロイ!」
爺さんは一頭目の前へ出るふりをし、横へ逃がしていた。自警の二人が長い板を支え、獣が麦袋へ回る道を狭める。
ロイはその場を離れたが、物置の道へまっすぐ走らなかった。
まずアルトのところへ来た。
「何人だ」
「まだ、分からない。ケイが行った」
「裏の石段は通れるか」
「行きに見たときは」
「なら、途中まで見る。お前はここの人を」
ロイが走りかけた。
アルトが、袖を掴んだ。
「僕も行く。あそこは、僕の方が低い所を通れる」
ロイは弟を見た。
アルトの脚は、まだ震えていた。
見れば分かる震えだった。
「走れるのか」
「ゆっくりなら」
少しも格好よくない答えだった。
でも、嘘ではなかった。
ロイは口を引き結び、頷いた。
「じゃ、先に走るな。俺が曲がり角を見る」
兄弟は、裏の道へ向かった。
*
セラが小屋へ入ってきた。
肩を押さえた自警の男が一人、一緒にいる。牙ではなく、飛んだ板が当たったらしい。
オレは用意した椅子を出し、通り道を空けた。
「布」
言われた物を出す。
「そっちじゃなく、薄い方」
取り違えた。
戻し、替える。
セラは責めなかった。受け取る手の速さが、今は言葉より多くを伝えていた。
村の治療役が、薬の棚を持って入ってきた。年配の男で、セラとは昨夜のうちに道具の場所を確かめていたという。
二人が短く話し、患者を見る場所を分ける。
オレは入口へ戻った。
全部の仕事が見える場所には、いられなかった。
だから今、頼まれた場所を離れない。
鍋蓋を持ち上げた。
外の女が気づき、遅れてきた子供二人をこちらへ回した。
*
鍋蓋の腕が、だんだん重くなった。
軽い物のつもりで持っても、ずっと同じ高さではいられない。肘を下げ、必要なときだけ持ち上げ直した。
外の女が、同じように手を上げる。
ついてくる子供が二人いる。
先にいる大人の肩で、オレの顔が見えなかったらしい。女は列の横へ回り、子供たちの目線まで身を屈めてから、こっちを示した。
待っている間、戸口の商人が外を見ていた。
また荷の方へ行くのかと身構えたが、彼は子供たちの足元へあった籠を拾った。
片側へ寄せる。
小さな靴が、その空いた場所を通った。
男は何も言わず、また外へ顔を向けた。
怒っていた人の手も、ちゃんと今いる人のために動いていた。
オレは礼を言った。
返事はなく、顎だけが少し下がった。
子供たちが戸をくぐると、オレは女から名前を聞いた。声が重なり、一人目の名を一度聞き返す。
そうしている間に、鍋蓋の縁が太腿へ当たった。
熱はもうなかった。
ただ、少し痛かった。
*
子供の一人は、泣いていなかった。
泣く代わりに、何度も靴の紐を結び直している。
もう一人は、名前を聞いても返事をしなかった。
オレは二人を壁際へ座らせた。
「お母さん、あとから来るんだよね」
女が尋ねると、一人が頷いた。
オレはその名前を、板の空いたところへ書いた。
商人の荷の印の隣になった。
もっとちゃんとした紙へ分けるべきなのかもしれない。でも今は、どちらもオレが忘れてはいけないものだった。
イナが、少し椅子を動かした。
「こっち、おいで。戸から風が来るから」
子供たちが寄った。
老女は自分の手拭いを広げ、膝の上へ置いた。何かを教えようとするでもなく、ただそこに手を置ける場所を作った。
オレは、アルトの手拭いを思った。
同じ布でも、受け取った人によって何年も別の意味を持つ。
今ここでは、冷えた子供の手が乗っていた。
*
外で、大きな音がした。
一頭目が荷台の端を押し破った。
車輪が斜めになり、板がずり落ちる。
オレは戸の前から身体を引いた。
ゴルドが叫んだ。
「北を、全部塞ぐな! 戻る方を残せ!」
村の男たちが、通り口の板を一枚外した。
獣が入ってきた道だった。
どうして、と口を開きかけて、止めた。
行くところをなくせば、ここにいる人の方へ来る。
爺さんは、獣を倒すためだけに動いていなかった。
棒で正面を叩かず、肩へ近づいては退く。自警の槍が、横から道を狭める。
石鎧猪は鼻を振り、土を蹴った。
それから、入ってきた道へ頭を向けた。
一歩。
もう一歩。
二頭目が、それを追うように麦袋から離れた。
戻り始めた。
誰かが歓声を上げかけたが、ゴルドの声で止まった。
「追うな!」
オレは息を吐いた。
まだ、一頭いる。
*
北東の道から、ロイが戻ってきた。
一人だった。
オレの背中が冷えた。
「アルトさんは?」
「向こうで、ケイを見てる。足をやった。石段を越えるのに手が要る」
ロイはセラを呼んだ。
彼女は手当て中の男を村の治療役へ引き継ぎ、袋を持った。
オレも出ようとして、足を止めた。
入口を誰に渡すか決めなければならない。
さっき子供を連れてきた女に板を渡し、名前と荷の印を説明した。鍋蓋の合図も、そのまま続けてもらう。
女は頷いた。
「行っておいで」
オレは空いた手を握った。
外へ出ると、思ったより風が冷たかった。
*
裏道には、麦の袋が一つ転がっていた。
こぼれた粒を踏むと、靴が滑りそうになる。
ロイは急いでいたが、曲がる前には一度止まった。
セラが続き、オレも壁へ身体を寄せる。
古い物置は、低い屋根の建物だった。
壁の一部だけ板の色が違う。
その脇の細い隙間に、アルトがいた。
片膝をつき、ケイの肩を支えている。
青年の足は、倒れた棚と壁の間に挟まっていた。
向こうの塀の隙間から、灰色の背が動くのが見えた。
三頭目だった。
アルトはオレたちを見た。
顔は白かった。
でも、ケイから手を離さなかった。
「ここから、出します」
彼は言った。