第49話 夜番の相棒
第49話 夜番の相棒
夜番の最初の仕事は、寝ることだった。
言われたときは、聞き違えたかと思った。
ゴルドは小屋の寝台を指し、オレたちを順に見た。
「今、全員起きてたら、明け方に全員眠い」
「そうですけど、気になって」
「気にしながら横になれ。俺とロイが先。次にアルトと村の二人。お前とセラは、呼ばれたときに立てるように」
市の見回りをした脚が、寝台へ座った途端に重くなった。
頭だけ起きているつもりでも、身体は先に本音を出す。
セラは治療の袋を枕元へ置いた。昼に使う分とは分けた、小さな袋だった。
「患者を呼び込む看板は、出さないんですか」
冗談のつもりで言うと、彼女は首を振った。
「今から並ばれても困る。必要な人のところへ行く方」
オレは靴紐を少し緩めた。
脱いで寝てよいと言われたが、枕元から遠くへは置かなかった。
窓の向こうで、ロイの声がした。
西の口を閉めたこと。家畜を奥へ入れたこと。畑に残っていた者は全員戻ったこと。
その一つずつを聞くうち、目を閉じてよい理由が増えた。
*
横になっても、最初は眠れなかった。
隣でセラが一度寝返りを打ち、それから動かなくなる。呼吸がゆっくりになるまでが、オレよりずっと短い。
腹立たしいほど頼もしかった。
天井の梁を見ていると、昼に歩いた村の道が順番に浮かんだ。井戸、食堂、イナの戸口。新しい豆畑を回る道。明るい間なら迷わないつもりでいた場所が、目を閉じると急に遠くなる。
窓の外で、板が鳴った。
オレは身体を起こした。
続けて、靴が石を踏む音。
戸口へ耳を向けると、ゴルドの声が聞こえた。
「その板、足で踏んでみろ。下が空いとる」
ロイが短く答える。
見張りの音だった。
オレは寝台へ戻った。
怖い音には、誰かが仕事をしている音も混ざる。
頭では分かっても、胸はすぐには静かにならなかった。
毛布の端を握ると、左の指が少し痛い。昼に籠を持った跡が残っていた。
今の手だ。
この村へ来て、実際に働いた手。
一本ずつ開いて、目を閉じた。
*
目が覚めたのは、交替の少し前だった。
喉が渇いていた。
水を飲もうと食堂へ出ると、ロイが卓に肘をついていた。ゴルドは隣で、冷めた煮込みを食べている。
「戻ったんですか」
「西側は今のところ静かだ。畑の外まで見に行くことはしてない」
ロイが答えた。
卓には、見張りが持ち帰った土のついた枝があった。折れ方を見ても、オレには何も分からない。
ゴルドはそれを指で回した。
「鼻で掘って、肩で押す。柵の根元が緩んだんだろうな」
「直しても、来ますか」
オレが聞くと、爺さんは匙を止めた。
「来るかどうかは、猪に聞け。来たときに、どっちへ下がるかを決めとく」
簡潔だった。
ロイは疲れた目で、戸口を見た。
「昔のも、夜明け前でした」
ゴルドは相槌だけを打った。
オレは水の碗を両手で持ち、卓の端へ座った。アルトが話した日のことが浮かんだが、兄が何を見ていたかは聞いていない。
話したいなら、ここで聞こうと思った。
*
「俺は、父さんと食堂にいたんです」
ロイは、厨房の方を見た。
「火を消そうとして、薪を掻き出した。外で音がして、何が来たかも分からない。父さんが裏口を開けろって言ったのに、棒が引っかかって抜けなくて」
指が、卓の端を掴んだ。
「ずっと、それを引いてた。もっと強く引けば抜けると思って」
「戸を少し戻せば、抜けたやつか」
ゴルドが言う。
ロイは頷いた。
「今なら分かります」
オレは黙っていた。
物置の裏で耳を塞いでいた弟。
食堂で戸の棒を引き続けた兄。
同じ朝に動けなかった場所が、それぞれあった。
ロイは、水を一口飲んだ。
「だから、弟が怖かったのは、分かるんです。分からないのは、出ていってからの方で」
そこから先は、少し声が硬くなった。
「村の修理があった。父さんの店があった。誰かがやるから、出ていけた。なのに、帰ってこない」
ゴルドは、碗を置いた。
何か深いことを言いそうな顔だった。
「本人に言ったか」
言ったのは、それだけだった。
「少しは」
「少しなら、残りは本人へ言え。俺に言っても、あいつの耳へ勝手には入らん」
爺さんは自分の耳を引っ張ってみせた。
「こっちの耳も、嫁にそう言われた」
ロイが、初めて少し笑った。
オレは水を飲んだ。
全部を分かった顔で運ばないことなら、今の自分にもできた。
*
ゴルドが立ち上がると、ロイがその腕を見た。
「前の傷ですか」
袖口から、竜のときに傷めた拳の跡が見えていた。
爺さんは手を開き、握った。
「いろいろ混ざっとる」
「竜を、殴ったって」
「殴って、こっちを壊した」
ロイは返事に困った。
武勇伝として話を膨らませる気はないらしかった。
「いまなら、どうします」
「同じ場所なら、またやるかもしれん。御者の前へ脚が来たんだ」
ゴルドは、そこで一度言葉を切った。
「だが、前に壊した手を、なかったことにはせん」
オレは爺さんの指を見た。
カルダスで、水を少しだけ動かそうとしていた小指。
棒を持った手。
目の前の相手に合わせて替える手が、前より増えていた。
「石鎧猪も、殴れば倒せます?」
ロイが聞く。
「横へ回れりゃな。正面へ立って力比べをするもんじゃない。背の板へ当てれば、こっちが損だ」
ゴルドは窓の外を見た。
「お前らも、剣を持ったからって正面へ立つな。狭い所へ入ったら、長い物ほど使えなくなる」
ロイは自分の槍へ目を落とした。
握っていた指が、少しだけ開いた。
*
ゴルドは休む前に、卓の上の残ったパンを一つ取った。
「拳聖ガローは言った。眠れるときに眠れ。起きてから、寝ておけばよかったと言っても、昨日の布団は待ってない」
「今日は、かなりまともですね」
オレが言うと、爺さんは頷いた。
「まともな日もある」
「どんな人だったんです?」
「でかかったな。背中が」
ゴルドの目が、ほんの少し遠くなった。
笑わせるための続きを待ったが、来なかった。
「顔は?」
「……どうだったかな」
爺さんは自分の顎を擦った。
顔を忘れたのに、背中の大きさが残ることもあるのだろうか。
オレには顔のない記憶ばかりある。だから、その曖昧さだけで嘘だと言う気にはなれなかった。
ロイが椅子を引き、通り道を空けた。
ゴルドは礼を言い、いつもの大きな背中で部屋を出た。
*
交替に来たアルトは、兄と爺さんが並んでいるのを見て立ち止まった。
ロイは何も説明せず、見張りの札を渡した。
「西の柵は閉めた。北の小道は、荷車を置くために空けてある。人は通せるが、今夜はそこから外へ出るな」
「分かった」
「杭が二本、新しい。暗いと、前の道へ入りそうになる」
「うん」
昨日、豆畑へ入りかけた弟のための説明だった。
アルトは札の位置を確かめた。
村の自警の若者が二人、戸口で待っている。その一人は、まだ口の端にパン屑をつけていた。
「あとで食え」
ロイが言う。
「いま食べとかないと、腹が鳴るんで」
若者は口を拭った。
ケイという名だった。自警に入ってまだ日が浅く、昼は粉挽き小屋で働いているらしい。
アルトは、自分も何か口へ入れてから行くと言った。
ロイが一瞬だけ驚き、残ったパンを寄せた。
怖い場所へ出る人も、食べる。
その当たり前の動作で、戸口の空気が少し緩んだ。
*
オレは見張りへはついていかなかった。
暗い道で足手まといになる不安もあったが、それだけではない。小屋へ人が来たときに、セラ以外にも戸を開ける人が要る。
外を見たい気持ちを持ったまま、食堂の灯りを一つだけ残した。
包帯の籠を広げる。
練習布は、別にしてある。
道具の名前を、小さな声で確かめた。
セラが起きてきて、オレの前へ碗を置いた。
「少し食べたら、もう一度寝る」
「眠れなかったら?」
「目を閉じて休む。起きて怖い話を増やすよりは、明日の役に立つ」
オレはパンを汁へ浸した。
薄い灯りの下で、紙の端が光る。
遠くに並ぶ小さな窓。ひとつだけ、明かりが残っている。机の上の冷えた弁当。蓋の内側についた水滴を、爪で弾く。
外では誰かが、家へ帰る声で笑っている。
こちら側には、返す声がない。
オレは匙を落としかけた。
セラがこちらを見た。
「熱かった?」
「……いえ。今、少し、静かすぎて」
言ってから、変な説明だと思った。
ここにはセラがいる。外にはアルトたちがいる。
似た灯りだけで、部屋まで同じになるわけではない。
セラは碗を置き直した。
「怖いなら、そう言っていいわよ」
オレは少し待ち、頷いた。
「怖いです」
その声には、返事があった。
「私も、楽しくはない」
いくらか不器用な返事だったので、かえって安心した。
*
明け方、食堂の戸が三度叩かれた。
短く二つ、間を置いて一つ。
決めてあった呼び方だった。
セラが先に起き、オレは靴へ足を入れた。戸を開けると、アルトとケイが立っていた。
「北の畑へ、入っています。三頭、見えました」
アルトが言った。
声が白い息になった。
その後ろで、ゴルドが外套を掴んだ。
ロイも、もう起きていた。
「西じゃなかったのか」
「西にも跡はあります。今は、北の斜面に」
アルトは言い切った。
ケイが横から、二頭は低いところ、一頭は柵の上手、と付け加えた。
オレには、まだ何も見えない。
でも、三頭という数が、部屋へ入ってきた。
*
外は、青みの残る灰色だった。
屋根の線だけが、先に明るくなっている。
ゴルドとロイが、道の曲がり角まで見に出た。アルトはケイと一緒に、北側の家へ声をかける。
オレはセラに頼まれ、共同小屋の戸を開けた。
寝具を片側へ寄せ、入口から奥の壁までの通り道を空ける。昨夜用意しておいた椅子を出し、足元に物が残っていないかを見る。
手を動かしていると、外へ飛び出したい気持ちが少し静まった。
村人が一人、二人と来た。
子供を抱えた女。片足を引きずる老人。市場の荷を守りたいと言う商人。
誰も同じ速さでは歩かなかった。
商人が、荷車を取りに戻ると言い出した。
「今は、こちらで待ってください」
「品物があるんだ」
「分かります。道を確かめている人が戻ったら、聞きます。アタシは今、その先を見ていないので」
上手いことは言えなかった。
商人は不満そうだったが、戸口から一歩だけ下がった。
オレは、その一歩の空きを通して次の人を入れた。
*
イナは、隣家の女に腕を借りて来た。
目は覚めていても、身体がまだ朝に追いついていないようだった。
オレは昨日使った、背もたれのある椅子へ案内した。
「暗いうちから、お祭りかい」
「少し、予定が変わりました」
「知ってるよ。怖い顔ばかりだったから、聞いただけ」
彼女は腰を下ろした。
冗談を言えるから怖くない、というわけではなさそうだった。膝に置いた指が、布を強く掴んでいる。
オレは手を取らず、水が要るか尋ねた。
イナが頷く。
水差しを置く場所は、先に空けた。
教会で三本使っていた想像の手は、今日は二本で足りた。
*
ゴルドが戻った。
顔には笑いがなかった。
「北の柵はもたん。広場へ下りてくる前に、食堂の横道を閉める。裏へ抜ける道は残せ」
ロイが村の男たちを呼んだ。
長い板が運ばれる。
セラは小屋の外へ出て、村の治療役と場所を分けた。道具のある家へ呼びに行く者も決まる。
オレはアルトを探した。
彼は北側から戻り、最後の戸を叩いていた。
中から、父親が出てくる。
大きな鍋を、まだ両手で抱えていた。
アルトは何か言い、鍋の片側を持った。
二人で運び出す。
その向こうで、木が折れる音がした。
太い枝を膝で折ったような、乾いた音だった。
村の中の声が、一度止まった。
次に聞こえたのは、土を蹴る低い音だった。