第48話 勇者の台所
第48話 勇者の台所
食堂へ戻ると、勇者の仕事が山になっていた。
芋だった。
洗っていないものが一籠。洗い終えたものが二籠。これから皮を剥くものが、さらに二籠ある。
アルトは戸口で、一瞬だけ目を見開いた。
それから袖を捲った。
「包丁、どれを使っていい?」
ロイは短い刃のものを指した。
勇者が剣を抜くかどうかで悩んでいる間も、芋はずっと待っていられる。こちらの勝負に関しては、アルトは迷わなかった。
オレも隣へ座り、一つ持った。
皮を剥く。
剥きすぎる。
小さくなった芋が、掌で頼りない顔をした。
「これ、量に入りますか」
「入ります。皮の方に多く残ってますけど」
アルトの返事は穏やかだった。
包丁の横では、穏やかさと容赦のなさが両立していた。
*
市の食事は、食堂だけで作るわけではなかった。
家ごとに鍋を持ち寄り、広場の長い炉で温める。食堂は肉と根菜の煮込みを担当し、別の家がパン、別の家が豆を煮る。
売り物と、働く人が食べる分は分けてあった。
オレは札を書く役も頼まれた。字の読めない人には、器の色と置き場所で案内する。
コルム村で箱の絵を描いたことが、少し役に立った。
ただし、描いた鍋がゴルドには酒樽に見えた。
「飲み放題か」
「何でも、そこへ着地させないでください」
取っ手を二つ加えると、今度はゴルド自身に似た。
爺さんは絵を覗き、顎を撫でた。
「いい顔だ」
「鍋です」
札を描き直す間に、アルトの前には剥いた芋の山ができていた。
ロイがそれを見て、切る大きさを指で示す。
「今年は、こっち」
「前より小さいね」
「器が変わった。大きいのが、何枚か欠けたから」
アルトは頷き、刃の位置を変えた。
家の料理にも、帰ってきたら知り直すことがあった。
*
父親は鍋の前にいた。
長い匙で底を動かし、時々、左手の指を握り直す。怪我の包帯はなかったが、重い物を持つときだけ顔の片側が少し固くなった。
アルトが気づいて、鍋へ手を伸ばす。
「僕が動かすよ」
「まだ、動かすな」
父親の声が飛んだ。
アルトの手が止まる。
「そこへ置いたばかりだ。底の火が回ってない」
「腕の方を」
「腕はついてる」
ロイが、間へ布を置いた。
「持つときは、こっちを呼べばいい」
父親は返事をせず、匙を回した。
オレは芋の籠を持ち直した。
店で見たときには、アルトの料理に驚いた。ここでは彼が驚く側へ戻っている。
父親が年を取ったこと。
兄がその手の止まる瞬間を知っていること。
どちらも、一度の帰省で追いつける量ではなさそうだった。
火が落ち着いた頃、父親は匙をアルトへ渡した。
「底、焦げないように」
それだけ言って、外の水桶を見に行った。
アルトは匙を握ったまま、少しだけ立ち止まった。
鍋の中で豆が、ぷつ、と鳴った。
ようやく、手が動いた。
*
煮込みの味を決めるところで、兄弟の手が止まった。
アルトが塩の壺へ手を伸ばす。
ロイは、その手元へ匙を置いた。
「先に、飲め」
「飲んだよ」
「鍋の上だけじゃなくて、底の方も」
アルトは、少し深く掬った。
舌へ載せる。
目が動いた。
「干し肉が、前のより濃い?」
「あの店から来たやつは、そう。煮てるうちに出る」
ロイは、オレの持ってきた包みの端を示した。
店の味が、ここで違いを作っていた。
アルトは塩を入れず、壺を戻した。
オレは胸を撫で下ろしかけた。どちらかが意地を張れば、鍋一つ分の料理で喧嘩になるところだった。
ところが、今度は父親が味を見て、少し足せと言った。
ロイが眉を寄せる。
「このあと、まだ煮る」
「昼ならな。今日は、冷ましてから明日温める」
アルトが父親の顔を見る。
三人とも、分かっていることの置き方が違った。
オレは新しい小皿を三つ出した。
「同じところから、少しずつ取ってみます?」
料理の正解を出せるわけではない。どの味の話をしているか揃えてほしかった。
三人は同じ汁を飲んだ。
父親は、少しだけ黙った。
「……今は、いいか」
塩の壺には、誰も触れなかった。
ロイは何も言わず、蓋を閉じた。
家へ帰るというのは、食べたい味が待っているだけのことではないらしかった。
*
夕方、広場へ鍋を運んだ。
中身が入ると、取っ手だけで持つには重い。二人で棒を通し、肩へかける。
アルトとロイが左右についた。
歩く速さが、自然に揃う。
前に宵市で粉の袋を運んだときも、こんなふうだった。
今日は、兄が途中で一度止めた。
「左、少し下げろ」
アルトが下げる。
鍋が水平になった。
言葉が一つ増えるだけで、揃うものもあるらしかった。
広場の炉には、もう別の鍋が三つ並んでいた。
セラが鍋の置き場所を確かめ、子供が近づきすぎないよう卓の位置をずらす。医療の帳簿をつけているときと、同じ集中した顔だった。
ゴルドは大きな薪を割っていた。
斧を持つと、腰が低くなる。力任せに振り下ろしているようで、毎回同じ場所へ刃が落ちる。
「魔法は?」
オレが聞くと、爺さんは薪を立て直した。
「木が逃げんうちは、こっちでいい」
「逃げたら、呼んでください」
「お前に捕まる木なら、俺にも捕まる」
もっともだった。
*
翌朝、市の最初の日は、思ったより静かに始まった。
客より先に、商人が来た。
袋の口を開き、麦を指で取り、掌の上で転がす。匂いを嗅ぐ。何か短く言い、村人が首を振る。
まだ笑顔も拍手もない。
オレは入口で荷車を待たせ、空いた順に通した。
以前なら、客の気をよくすることから考えたかもしれない。今日は馬の向きと、車輪の幅を先に見た。
昼近くなると、近隣の家族が増えてきた。
子供が焼いた薄パンを持って走り、犬がその後ろを走り、母親が両方へ怒鳴る。
ようやく、市らしい音になった。
アルトは食事場で、次々と碗を受け取っていた。
「勇者さん、こっちも」
客の男が呼ぶ。
アルトが顔を上げ、汁をよそう。
「肉、多めで頼むよ。魔王を倒す前にさ」
近くの客が笑った。
悪意があるほどではなかった。誰でも言えそうな冗談だった。
アルトは笑い返し、ほかと同じ量をよそった。
匙を持つ手だけが、一瞬速くなった。
*
オレは碗を運びながら、客の隣へ立った。
「肉を増やすと、お代も増えます」
「勇者の特別サービスは?」
「世界を救う前から赤字にしないでください」
男が笑った。
話はそれで済んだ。
アルトは次の碗へ汁を入れている。
オレが助けたつもりになるほどの場面ではなかった。彼は一人でも、きっと同じ量をよそしただろう。
しばらくして、ロイが空の鍋を取りに来た。
「名乗ってるなら、そう呼ばれる」
弟へ向けて言った。
アルトは頷いた。
「分かってる」
「嫌なら」
「嫌なときも、ある」
答えが重なり、ロイが黙った。
アルトは碗を一つ置いてから、兄を見た。
「でも、今はやめない」
低い声だった。
何かを説得するための長い説明は、続かなかった。
ロイは空の鍋を持ち上げた。
「じゃ、皿の方も頼む」
「うん」
兄は行った。
オレは、勇者の前へ空いた碗をもう二つ置いた。
*
食事場から離れた端で、村の若者が商人と話していた。
壁には、遠征の補給隊で働く者を募る札がある。魔王を討つ隊へ、食べ物と道具を運ぶ仕事だという。
剣の絵が大きく描かれているが、下の細い字には、荷を持てる者、鍋を扱える者、とあった。
ロイが空の籠を持って通り、足を止めた。
「行くのか」
若者は曖昧に笑った。
「話だけ。給金が、まとまって入るって」
「いつ戻る」
「まだ、そこまでは」
ロイは札を見た。
止めるとは言わず、出る前に自警の当番だけ替えておけと言った。
若者は頷き、また商人へ向いた。
オレは籠を一つ受け取って、ロイと並んだ。
「村の人も、討伐に行くんですか」
「荷を運びに、ですよ。戦う人は、食うでしょう」
当たり前の答えだった。
冒険者の立派な絵の下に、見えない厨房がいくつもある。
ロイは、広場の人を数えるように見回した。
「忙しい時期じゃなければ、出たい奴もいる。止めても、仕事が増えるわけじゃないし」
弟だけの話ではなかった。
オレは籠を持つ手を替えた。
鍋の方からアルトが呼ぶ。
ロイは返事をして、そちらへ歩く速さを上げた。
*
イナが来たのは、午後の早い時間だった。
隣家の女と一緒に、ゆっくり坂を下りてきた。アルトは仕事中だったので、迎えはその女に頼み、帰りの時間には送れるよう交替を決めていた。
セラが背もたれのある椅子を出す。
イナは座る前に、食事場を一周見た。
「働いてるね」
アルトへ言った。
「はい」
「なら、あとででいい。先に食べる」
彼女は小さな碗を受け取った。
ゴルドが横へ座り、自分の大きな碗と見比べる。
「少なくないか」
「足りなきゃ、もう一杯もらう」
「最初から大きい方が早いぞ」
「冷める前に食べたいんだよ」
セラが、別の方向から強く反対しそうな顔をした。
イナは二人を見比べ、声を立てずに笑った。
オレは木の碗を二つ持ってきた。
中へ小さな丸石を一つ隠し、どちらへ入っているか当ててもらう。
イナは正解を言わず、碗を動かすオレの手を見ていた。
「爪、欠けた?」
「え。そこ見ます?」
「手を見ろって言ったのは、そっちだよ」
隣の女が吹き出した。
芸は予定通りには進まなかったが、笑い声は出た。
オレは、もう少しまとまったものを見せたいと思った。
*
夕方、片付けの途中で、ドノがゴルドを呼んだ。
声が小さかったので、オレも手を止めた。
山側の畑で、柵が二本倒れているという。
麦を運び終えた端の畝に、土を深く掘った跡があった。荷車の轍ではなく、獣が鼻先で掘り返したような跡らしい。
ロイが自警団の男と話していた。
「石鎧じゃないかって」
ゴルドの眉が動いた。
聞き慣れない名だった。
「猪ですか」
「背へ固い板が乗ってるやつだ。頭を振ると、普通の柵なら倒す」
爺さんは斧を置いた。
「何頭だ」
「跡が重なってる。まだ、分からない」
ロイは分からないと言った。
その声に、オレは少し安心した。少なく言って済ませたい場面で、そうしなかった。
市の客には、今いる会場の外へ出ないよう伝える。夜の見張りを増やし、村の西側の口を閉める。
その相談に、四人も入った。
アルトの手が、腰へ動いた。
柄へ触れる手前で止まり、今度は見張りの位置を描いた板へ向かった。
「昔の、あの道は」
「塞いだ。いま通れるのは、ここ」
ロイが示した。
兄弟が、同じ図を覗き込んだ。
*
ドノは、昨日の夕方にも似た跡を見たと打ち明けた。
そのときは古い掘り返しだと思い、畑の持ち主と柵を見ただけだったという。
ロイが顔を上げた。
「今度は、見た日に言ってくれ」
「悪かった」
ドノは短く答えた。
誰かを責めている時間ではない、という言葉は出なかった。分かったことを言うのも、言わなかった理由を確かめるのも、次に備えるための仕事だった。
オレは、手に持っていた食器を置いた。
夕飯の客へ笑う顔を作りかけたが、その前に村の人へ、まだ外にいる者がいないか尋ねた。
食事場から、何人かが立ち上がった。
*
夜の仕事は、元の依頼の範囲を越える。
セラがそう伝えると、ドノは頷いた。
「まず、村の自警で見張る。あんたたちは、会場と小屋の方を頼めるか。延びた分は明日の朝、金の相談もする」
「危険を見て、できるところまでです」
セラが答えた。
今すぐ山へ追いに行く話にはしなかった。
明日の市を開けるかどうかも、夜明けの確認を待つ。
オレは食事場へ戻り、残った鍋に蓋をした。
昼の間、湯気を逃がすためにずらしていた蓋だった。
置くと、かこんと鳴った。
その音に、アルトが振り向いた。
「明日は、ちゃんと朝ご飯を作れるといいですね」
彼は言った。
勇者としての言葉というより、厨房で鍋を預かった人の声だった。
オレは、蓋の取っ手を一度押さえた。
「食べる方も、予約しておきます」
アルトは少し笑った。
その笑いが消える前に、広場の灯りが一つずつ落とされていった。