第47話 手拭いの送り主
第47話 手拭いの送り主
坂を下りきる前に、アルトが道を間違えた。
正確には、曲がろうとした場所に道がなかった。
低い柵があり、その向こうには豆の畝が並んでいる。古い踏み跡だけが、柵の下から細く続いていた。
「ここ、通れたんですけど」
彼が言うと、畑の中の男が鍬を止めた。
「二年前までな」
アルトは頭を下げかけ、男の顔を見て止まった。
「ドノさん」
「おお。戻ったか」
男は大きく笑い、それから鍬の柄で右を示した。
「今はそっち。前の道を歩いたら、豆代をもらうぞ」
「すみません」
「踏む前に謝るな。取れなくなる」
商売熱心な再会だった。
オレたちは柵に沿って回り、村へ入った。
アルトが知っている道にも、新しく覚える曲がり角があった。
*
トルカ村の家は、坂の両側へ段になって建っていた。
井戸の周りだけ広く、そこから細い道が食堂、作業小屋、麦を運び込む広場へ分かれている。
板塀の新しい家と、石を積み直した家が混ざっていた。あの魔物の群れが来たときの跡なのか、その後の雨風の跡なのか、オレには見ただけでは分からない。
アルトは、広場の端で歩みを緩めた。
食堂があった。
戸口にかかる木の札は、煮込み鍋の絵だった。文字より先に湯気の形が目に入る。
アルトの手が、鞄の肩紐を握り直す。
内側から戸が開いた。
ロイが、空の桶を持って出てきた。
二人とも止まった。
前に宵市で会ったときと同じ色の髪なのに、ここでは兄の方が家の景色に馴染んでいた。
「来たよ」
アルトが言った。
ロイは桶を持ち替えた。
「見れば分かる」
それきりだった。
オレは干し肉の包みを少し持ち上げた。
「『陽気な冒険者』から、お届け物です」
「ああ。ありがとうございます。中へ」
荷物に対しては、戸がすぐ開いた。
オレたちも、荷物のあとについて入った。
*
厨房の奥に、父親がいた。
アルトたちより背は低く、肩は丸い。大きな鍋を火からずらし、こちらを見る。
アルトが立ったまま頭を下げた。
「ただいま」
父親は目を細めた。
「腹は」
「途中で食べた」
「そうか。じゃ、半分だな」
何が半分なのか聞く前に、碗が出てきた。
帰宅の挨拶は、量の調整へ移ったらしい。
オレたちにも、少しずつ煮込みが出た。干し肉の荷札を確認する間の味見だという。
食べると、朝にアルトが作ったものと同じ甘い匂いがした。ただ、根菜の端の香ばしさが、こちらの方が強い。
アルトは一口飲み、もう一口飲んだ。
「焼く時間、前より長い?」
「火が弱いんだ」
父親が炉を指した。
「新しい薪は、まだ少し湿ってる」
「先に脇で乾かせば」
「やってる」
ロイが横から言った。
アルトの匙が止まった。
帰ってきた人間の助言は、たいてい誰かがもう試していた。
オレは煮込みを飲み、黙っていた。
店主が新しい玉葱の箱を動かした日のことが、妙に近かった。
*
荷を下ろすと、アルトは当たり前のように棚へ向かった。
布巾を取るつもりだったらしい。
手にしたのは、乾いた茸だった。
父親が笑った。
「そこは、今、乾物だ」
「布は?」
「火から遠い方へ移した。焦げるから」
アルトは茸を戻し、別の棚を開けた。
ロイが、無言で左を指した。
ようやく布が出てきた。
慣れたはずの家で一つずつ位置を尋ねる姿が、少し痛そうだった。
父親は気にせず、空いた碗を重ねている。
「お仲間の名前は?」
こちらを見て言った。
アルトは慌てて紹介を始めた。
セラ。ゴルド。それからミア。
オレのところで、父親は耳飾りと衣装を順に見た。
「その格好で、山道を?」
「道では上に着てます。いま、脱いだところです」
「そうか。なら、よかった」
心配は、そこだったらしい。
ゴルドには、酒は夕方まで出さないと言った。
爺さんはまだ何も頼んでいなかった。
「何で分かった」
「顔」
父親はアルトより短く答えた。
この家の料理の腕がどこから来たかは分かったが、あの遠慮深さの出所は、まだよく分からなかった。
*
寝場所は、食堂の二階ではなかった。
村の依頼で来た四人として、広場の共同小屋に部屋を二つ用意してもらった。荷を置き、仕事の世話役へ到着を伝える。
世話役は、畑で会ったドノだった。
豆代を請求する顔から、人数を数える顔へ変わっていた。
「明日が準備、その次から市。今日は荷を解いて、道だけ見ておいてくれれば」
アルトが紙を出した。
「依頼書だと、到着した今日から準備で、市が明日からです」
ドノは額を叩いた。
「そうだ。俺が、荷の来る順と混ぜた。今日は先に屋根と卓だ」
話が一日ずれかけた。
セラが日程を読み上げ、全員で確かめ直す。帰ってきた人間が遠慮したままだと、寝る日までずれるところだった。
ドノは笑って、仕事場へ案内した。
「アルト、昔から紙だけはよく読んだな」
「紙以外も、見ます」
「そりゃ、頼もしい」
アルトは返事をせず、卓を運ぶ側へ回った。
褒められたのかからかわれたのか、判断する間に手を動かすのも、この人らしかった。
*
昼の作業が一区切りつくと、アルトは隣家へ行くと言った。
オレは広場で手を洗っていた。
行ってらっしゃい、と言うつもりだったのに、彼はその場で足を止めている。
「一緒に、来てもらえますか」
「アタシも?」
「はい。手紙に、皆さんのことを書いたので。会いたいって、前に」
オレは濡れた手をよく拭いた。
手紙を読んだことはない。そこに自分がどう書かれているのかも、少し気になった。
食堂の裏から、細い道を抜ける。
低い軒先に、青い糸が束ねて吊ってあった。
戸の前で、アルトは手拭いを出した。
出してから、またしまう。
今は挨拶が先だと思い直したらしかった。
オレは後ろで待った。
戸を叩く音が、二つした。
「開いてるよ」
中から、少し掠れた声が返った。
*
老女は、窓の近くに座っていた。
背もたれに薄い布を挟み、膝には未完成の織り物がある。眼鏡を掛けているが、それでも近くへ顔を寄せないと見えないらしい。
アルトが名を呼ぶより先に、彼女が顔を上げた。
「ずいぶん、大きくなったね」
「もう、そんなには」
「最後に見たのより、痩せた?」
「どっちですか」
老女は笑った。
「近くへ来れば分かる」
アルトは椅子の前へしゃがんだ。
肩へ、皺のある手が乗る。
頬へ触れ、髪へ触れ、最後に額を指で軽く押した。
「熱はないね」
「ありません」
「ならいい。イナだよ。そっちのお嬢さん」
オレに向けて言った。
名乗ると、イナは頷いた。
「手紙の、耳の人だね」
ピトと同じ分類だった。
アルトは困った顔で、ちゃんと名前も書いたと言った。
「覚えたよ。ミア。耳がないときも、そう呼べばいいんだろ」
「はい。なくしても、そこは変わりません」
イナはまた笑った。
オレが想像していた、静かに赦しを与える老女ではなかった。人の髪の薄さや顔色を見て、普通に口を出す人だった。
そのことに、少し安心した。
*
アルトは、二枚の手拭いを出した。
古い方と、青い筋がまだ濃い方。
イナは古い方を先に受け取った。
端を指で辿り、小さく頷く。
「ここ、擦り切れたね」
「すみません。ずっと使っていて」
「使う物だよ」
「はい」
老女は新しい方も受け取り、窓の光へ持ち上げた。
「こっちは、線が曲がった」
「曲がってません」
「織った本人が言ってるんだ。ほら、ここ」
青い線が、一箇所だけほんの少し揺れていた。
アルトはそこを見た。
前に兄へ否定したものが、送り主の指の下では、確かに曲がっている。
「……でも、使いやすいです」
「それなら、よかった」
イナは手拭いを返した。
完全な物として受け取ってもらいたかったわけではないらしかった。
オレは椅子の背を見た。新しい布が一枚、古い木を覆っている。暮らしの中には、曲がったまま役に立っているものがたくさんあった。
*
アルトは、二つの小さな菓子袋も出した。
イナは固い方を眺め、次に柔らかい豆を一つ摘んだ。
「こっちは、今も好き?」
彼が尋ねる。
「どっちも好きだよ。固い方は、茶に浸す」
「そうすれば、食べられるんだ」
「好きな物を食べる方法くらい、こっちで見つけるさ」
老女は袋を卓の中央へ置いた。
アルトは少し笑い、オレにも一つ勧めた。
心配していた菓子が、ただのお茶請けになった。
彼の肩が、また少し下がった。
*
お茶を出そうとしたイナを、アルトが止めた。
「僕がやります」
「急須は右」
彼は左を開けた。
「そっちは、糸」
「ごめんなさい」
「右は、昔も右だったよ」
オレは笑いを堪えた。
アルトは湯を注ぐ前に、イナへ量を聞いた。今度は知っているふりをしなかった。
三人で茶を飲んだ。
イナは市へ来るつもりだという。ただ、坂の上り下りが以前よりつらいので、明るいうちに戻りたいらしい。
アルトは送り迎えをすると言いかけた。
途中で、オレを見た。
仕事の時間がある。
「行ける時間を、あとで決めてきます」
「そうしな。勝手に全部引き受けると、ロイが怒る」
イナは平然と言った。
兄弟の事情を知らない人のようで、知っている人の言い方だった。
*
茶の底が見えた頃、アルトが碗を置いた。
「ずっと、帰らなくて」
声が、少し細くなった。
イナは膝の上で糸の端を摘んでいた。
「手紙は来た」
「短いのばかりで」
「今年のは、長かったね。読むのに二日かかった」
「すみません」
「謝るところじゃないよ。目が疲れたら、明日読むだけだ」
アルトは口を閉じた。
次の言葉まで、時間があった。
オレは窓の外へ目を向けた。通りで子供が木の輪を転がしている。ここだけ過去が続いているような沈黙の中でも、外では今日の遊びが進んでいた。
「あのとき」
アルトが言った。
「助けに、行けなくて」
イナは手を止めた。
すぐ、大丈夫だとは言わなかった。
「怖かったかい」
アルトは頷いた。
「私もだよ」
老女は、碗の縁へ親指を当てた。
「転んで、起きられなかった。足が動くのか、動かないのかも分からなくてね。誰かが戸を叩く音を、まだ覚えてる」
誰が助けたかではなく、その前の話だった。
「アルトがどこにいたかは、私は見てない」
「僕は、見てたんです」
「ああ」
短い返事。
同じ日のことでも、同じ場所から見てはいない。
オレは膝の上で、手を組み直した。
ここで上手い言葉を足せる気は、少しもしなかった。
*
イナは、少し冷えた茶を飲んだ。
「手拭いはね。あんたが、汗を拭く物を持っていかなかったから」
アルトが顔を上げた。
「村を出るとき、剣と、その剣を磨く布ばかり確かめてた。自分の顔を拭く物は、忘れてたんだ」
老女は彼の手元を指した。
「それで一本。次の年は、使っただろうと思って、もう一本」
「……許してくれたから、じゃ」
アルトの声は、ほとんど息だった。
イナは長く彼を見た。
「私は、あんたに罪の札をつけて送ったことはないよ」
それだけ言った。
アルトは手拭いを握った。
畳み直さなかった。
しばらくして、肩が一度大きく動いた。
イナは見ないふりをせず、かといって急かしもせず、糸を膝へ戻した。
オレは空いた碗を一つずつ集めた。
洗う場所を尋ねる声だけ、いつもより小さくなった。
*
帰り際、イナがオレを呼び止めた。
「手紙には、面白い人だって書いてあった」
アルトが急に顔を赤くした。
「そうでしたか」
「市でも、何かするのかい」
「まだ、決まってません。手品なら、少し」
「見たいね」
まっすぐ言われた。
その言葉には、病人を慰めてほしいとか、昔の傷を癒やしてほしいという重さはなかった。
ただ、面白い物が見たい。
オレは少し笑って頷いた。
「できる場所があったら」
「なかったら、ここの卓を貸すよ」
老女は、自分の茶碗の輪染みがついた卓を叩いた。
立派な舞台とは違う。
それでも、見たいと言う人の前に、ちゃんと空きができた。
外へ出ると、アルトは少し眩しそうに目を細めた。
「ありがとうございました」
「アタシ、茶碗しか洗ってませんよ」
「それも、助かりました」
彼の手には、二枚の手拭いがあった。
新しい方の青い線は、光の中でも少し曲がっていた。
彼は今度は、それを否定しなかった。