第46話 帰る日の書き方
第46話 帰る日の書き方
依頼書の一番下に、アルトの名前があった。
ただし、仕事の条件ではない。
余白へ、兄の字で『お前も読むこと』と書かれていた。
「名指しですね」
「はい」
「採用が決まってるんですか」
「読むところまでしか、決まってないです」
アルトは律儀に答えた。
トルカ村。ハイベルから歩いて一日の場所にある、彼の故郷だった。
麦を干し終えた頃に、小さな市を立てる。近隣の家が品を持ち寄り、遠くの商人へまとめて売る。名前だけ聞くと、麦を干している最中の祭りに思えるが、濡れた麦を並べても買い手は困るらしい。
仕事は搬入の案内、場内の見回り、共同の食事場の手伝い。
準備一日、市は二日。報酬九十六ピィ。三晩の寝場所と、村で働く間の食事は村持ち。到着した日に準備を始め、市の翌朝に戻れば、往復を含め四日になる。道や作業の遅れを見て、五日は空けておくつもりだった。
「兄さんの食堂で、ただ働きを頼まれてるわけじゃないんです」
アルトは最初にそう言った。
セラが頷く。
「依頼主は村の共同世話役。ギルド経由。分かるわ」
「もし、皆さんが嫌なら」
「まだ、嫌とも好きとも言ってない」
彼は口を閉じた。
先に断られる準備をしてしまう癖は、オレにも少しある。断られてから驚くより、初めから驚いた顔でいた方が楽なのだろう。
ただ、顔の筋肉には負担が大きそうだった。
*
宿へ持ち帰って話した。
ゴルドは依頼書より、アルトの顔を見ていた。
「帰るのか」
「帰ろうと、思います」
「何日だ」
アルトは紙を見た。
市の前日。
そこへ指を置けば、帰る日は決まる。
彼はしばらく、指を置かなかった。
「……十日後に出れば、間に合います」
「なら、十日後だな」
爺さんが頷いた。
決めるということは、そういう短い行為らしかった。その前にどれだけ遠回りしていても、最後には一日の名前になる。
セラは三つ質問した。
村へ入った晩から寝場所があるか。
雨で市が延びたとき、仕事の期間はどうするか。
見回りは、近くの畑まで含むか。
「帰省なのに、仕事の話ばかりですね」
オレが言うと、彼女は紙を揃えた。
「仕事の話を済ませないと、帰省の話ができないでしょう」
アルトが少し笑った。
その笑いを見てから、オレは自分の予定を出した。
教会の残り二回は出発前に受けられる。店には五日の休みを相談する。追加の日が要るなら、村から便を出す。
ゴルドはマルヴァに話すと言った。
「許可が?」
「留守を知らせるだけだ」
セラが顔を上げる。
「金の話もするんでしょう」
「それは、別の留守にしておきたい」
意味はよく分からなかったが、逃げたいことだけは分かった。
*
翌日、ギルドを通じて村の確認が取れた。
初日は昼すぎに到着して準備を始めればよい。到着日から三泊、四日目の朝に出れば、四日間でも済む。ただ、作業が長引く可能性を見て、店へは五日と伝えることにした。
依頼は当初の三日分。延期や追加の警戒が必要なら、その場で相談し、断って帰ることもできる。
見回りは市の会場と出入口まで。畑や山へ入る仕事は含まない。
四人で了承して署名した。
アルトは宿へ戻ると、すぐに返事を書き始めた。
最初の一行を書くのに、ずいぶん時間がかかった。
オレは隣で、教会で借りた練習布を巻き戻していた。見ないようにしていても、鉛筆の止まる音というのは、案外聞こえる。
「金具のことから書いた方が、いいでしょうか」
「帰る日が先でも、怒られないと思います」
「……そうですね」
彼は書いた。
十日後に出て、その日のうちに着く。
長い言い訳より先に、一行ができた。
その下へ、金具の寸法をもう一度確かめたいこと、実物を見てから注文を決めたいことを書き足す。
最後に、隣のお婆さんへ会いに行きたい、と。
封をする前、彼はそれを声に出さず読んだ。
書いたものを確かめる間だけ、手拭いは卓の上へ置かれていた。
*
教会の二回目では、道具の名前を覚えた。
ベナは一通り説明したあと、布をかけた籠をオレへ渡した。
「言った物を出して」
簡単そうだった。
ところが、聞いたばかりの名前は、布の下で似たものに変わる。形は分かっても名前が出てこない。名前を言われても、左右どちらへ入れたかが分からない。
三つ目で、オレは間違った袋を持った。
「それで、何をする?」
ベナが聞く。
使い道を言うと、違うと自分で分かった。
袋を戻し、別の物を出した。
「よし。速くするのは、後でいい」
酒場では、考える前に手が動く。
それができるために何回繰り返したのか、オレには覚えがない。いきなり使える手を持って目が覚めたので、覚える途中の自分を随分甘く見ていたのかもしれない。
午前の終わりに、ベナは同じことをもう一度やった。
少しだけ早く出せた。
「帰っても、名前は変わりませんよね」
「誰かが勝手にあだ名をつけなければ」
宿には、つけそうな人がいた。
オレは念のため、袋の印を帳面へ描いた。
*
三回目の日には、セラが見に来た。
ベナは、オレにセラへ説明させた。患者に何をしたかではなく、どの道具をどこへ置き、汚れた物をどう分けるか。
自分の中では分かっていた順が、口へ出すと前後した。
セラは途中で直さず、最後まで聞いた。
「最初の布を取りに行く間、水差しは誰が持ってる?」
オレは両手を見た。
想像の中では、三本くらい使っていた。
「置きます。先に」
「どこへ?」
机の空いた端を示した。
ベナはそこへ別の籠を置いた。
意地が悪い。
でも、現場もきっと、この程度には意地が悪い。
空いている場所を確かめてから置く。手を空けて、必要な物を取りに行く。
何も光らず、誰も感動せず、ただ道具が正しい順に並んだ。
ベナは小さな紙へ、受けた基礎の項目を書いた。
「これで僧侶にはならないよ。補助を頼む側が、何を教わったか知るため」
「はい」
「知らないことを頼まれたら、聞く。それが今日の最後」
オレは紙を受け取った。
診断書とは違う種類の紙が、一枚増えた。
数字は一つもなかったが、嬉しかった。
*
店の休みは、五日で話がついた。
ドランが杯を二つ運ぶ間、オレは棚の奥の器を洗った。前の遠出で店のやり方が少し変わったので、同じ引き継ぎを最初からする必要はない。
店主は日付を聞くと、仕込みの紙へ短く書いた。
「アルトの村か」
「はい。ご実家の料理も、食べられるかもしれません」
「仕事なら食うより作る方が多いぞ」
「今、それを言います?」
店主は返事の代わりに、干し肉の包みを出した。
村の食堂へ持っていく注文品だった。注文主はロイで、代金はすでに受け取っているという。
初めて聞いた。
アルトの帰る場所と、オレの働く場所には、オレたちが喋っていない間にも荷が行き来していた。
「持っていけるか」
「依頼の荷に入れて、数を確認します」
店主は頷いた。
お土産のふりで値段のついた物を渡す必要はなかった。ちゃんと届ければ、それだけで役に立つ。
オレは包みの印を確かめた。
*
アルトの買い物につき合ったのは、出発の二日前だった。
菓子屋の前で、彼は二つの袋を見比べていた。干した果実を固めたものと、柔らかく煮た豆を包んだもの。
「お土産ですか」
「はい。イナさん、前はこっちが好きだったんです」
そのとき、初めて老女の名を聞いた。
彼の指は、固い方の袋へ向いていた。
「前って、いつです?」
聞くと、指が少し下がった。
「……僕が村にいた頃です」
店の女が、味を見るかと欠片を出してくれた。齧ると、歯へしっかり抵抗があった。
美味しい。
長く噛むうち、果実の匂いが強くなる。
アルトも食べたが、すぐには袋を頼まなかった。
「今、これを食べられるか、聞いてませんでした」
「じゃ、柔らかい方?」
「でも、好きじゃないかも」
村を救う方法なら、こんなに静かに悩まないかもしれない。
たった一袋を渡す相手の、いまの口の具合が分からない。
その分からなさが、彼には大きそうだった。
店の女は、二つを小分けにできると言った。
アルトはようやく頷き、少しずつ買った。
「大きい袋じゃなくて、いいんですか」
「食べてみて、好きな方を聞きます。次に」
女が包みを結んだ。
アルトは二つを、鞄の上の方へ入れた。
誰かへ渡す前から、次の買い物のことを決めている。
オレは帰り道で、それが少し羨ましくなった。
*
宿へ戻ると、アルトは持ち物を全部、寝台の上へ並べ直した。
剣。手入れの布。手拭い。替えの服。家へ送るつもりだった手紙の下書き。
オレは戸の外から声をかけた。
「顔を見れば、手紙は要らないんじゃ?」
「言えなかったら、渡そうかと」
彼は恥ずかしそうに答えた。
オレは、それ以上からかわなかった。
声が出ることと、言いたい言葉が出ることは、同じではない。
酒場ならいくらでも喋れる自分にも、よく分かる。
「濡れないところへ、入れてください」
そう言うと、彼は頷いて、紙を内側の袋へしまった。
*
出発の前夜、マルヴァは宿の裏で煙草を吸っていた。
薄い煙が、夕飯の匂いの上へ伸びる。旅に出る予定は、オレたちが戻った後にしたという。
ゴルドはその前で、金袋を一つ持っていた。
「返ってきたら、二十は渡せる」
「今は?」
「往復と、何かあったときの分を残したい」
マルヴァは爺さんの顔を見た。
言い訳を探しているのか、必要な金を残す話なのか、その違いを見ているようだった。
「酒を減らせば、もう少し早い」
「分かっとる」
「二十は、受け取る。残りは消えないよ」
「ああ」
会話はそこで終わった。
爺さんが大人しく出ていくと、マルヴァはオレを見た。
「聞こえたかい」
「少し」
「少しにしては、全部知ってる顔だ」
オレは笑ってしまった。
彼女は煙を横へ逃がし、アルトの帰省の話を聞いた。
「帰るのも、仕事が要ると楽だろうね」
「仕事がないと、帰っちゃいけないわけじゃないですけど」
「そうさ。でも、持っていく物があると、戸を叩きやすい」
オレは鞄の中の干し肉を連想した。
何も持たずに、覚えのない故郷の戸を叩く自分は、上手く想像できなかった。
この町の部屋なら、鍵がある。
店の裏口なら、取っ手の形を知っている。
帰るという動作にも、身体が知っている順番が要るらしかった。
*
朝、アルトは待ち合わせより早く来ていた。
いつものことではある。
でも今日は、荷紐を確かめる手が止まらなかった。手拭いは古いものと新しいもの、両方入れたという。
「二枚、使う予定ですか」
「見せようと思って。ちゃんと使ってるので」
オレは頷いた。
使った物を持って帰るのも、お土産になるのだと初めて知った。
門を出ると、道は畑の間へ伸びた。
カルダスへ向かったときとは、途中の曲がり角が違う。
アルトは迷わず左へ曲がった。
少し先で振り返る。
「ここから、坂があります」
「先に分かるの、いいですね」
「帰りは下りです」
「行きの慰めとしては、少し遠いです」
彼は笑った。
知っている道を案内する声は、いつもより少し大きかった。
*
昼前、道端の石垣へ腰を下ろした。
アルトが包みを開くと、パンの間に焼いた根菜が挟まっていた。兄が教えてくれた焼き方を、宿で試したものだという。
端が少し焦げ、甘い匂いがした。
「成功ですか」
「家で食べて比べないと、分かりません」
オレは一口食べた。
「じゃ、今のうちに褒めます。美味しい」
彼はパンの端を持ったまま、少し照れた。
坂の下に、屋根が見え始めていた。
煙が何本か、昼の空へ上がっている。
アルトはそちらを見てから、もう一口食べた。
急いで食べ終え、立ち上がりそうに見えたが、最後まで座っていた。
村は、パン一つを食べ終える間に消えたりはしない。
オレも同じ屋根を見ながら、ゆっくり噛んだ。