第45話 ほどける包帯
第45話 ほどける包帯
クルルが、まだ何かあるはずだという顔で掌を舐めた。
「終演です。次の回はありません」
空の両手を見せると、山羊はアルトの持つ皿へ首を伸ばした。観客というものは、芸人より豆に忠実らしい。
セラが皿を高い棚へ移す。
ゴルドは笑いすぎて出た涙を拭った。
「よくできてたぞ。戻らんところが特に」
「取り返す係を頼んでもいいですか」
「そこまでの弟子は取っとらん」
師弟の関係まで、いま初めて聞いた。
セラは卓を拭き、袋から巻いた布を二本出した。細い木の筒もある。豆の次は筒の手品かと思ったが、片方の端に親指に似た突起がついていた。
「手首の代わり。まずこれで」
オレは椅子を引き直した。
笑いの残っている身体に、布の乾いた感触が入ってくる。
セラは一度だけ、ゆっくり巻いてみせた。重なるところ、指で支えるところ、最後に留めるところ。見ている分には、難しくなかった。
受け取って巻いた。
布が筒から抜けた。
筒を持ち直した。
今度は布ごと手が離れなくなった。
「患者より先に、アタシが包まれました」
「患者を使ってなくてよかったわね」
非常に正しい感想だった。
*
きつく巻けば落ちない。
その程度の考えを、木の筒は黙って受け入れた。
セラは出来上がりを一目見て、ほどいた。
「動かないものは、痛いと言わないから」
木なら締めつけても平気だった。人の手は違う。
分かったつもりになった途端、次の巻き方では緩すぎた。
アルトが横から覗く。
「布を引く手より、持ってる方が動いてます」
「筒が逃げるんです」
「逃げ道を作ってますね」
彼に筒を押さえてもらうと、巻く手が少し落ち着いた。次は自分の膝で支える。それでも最後の端が余った。
ゴルドが指を出す。
「結べばいいだろ」
「ここは、結び目が当たるわ」
「じゃ、こっちへ」
「外すときに、片手でほどけない」
爺さんは指を引っ込めた。
殴る場所の話ではあれほど詳しい人が、布の端一つで負ける。少し気が楽になった。
セラはオレに最初からやり直させた。
何回目だったか、支えの手を離しても布が落ちなくなった。
筒を傾ける。
まだ、ある。
「これ、どうですか」
セラは指を滑らせ、端を外した。
すっとほどけた。
「今日は、ここまででいい」
「せっかく巻いたのに」
「外せるところまでが仕事よ」
オレは、卓へ広がった布を見た。
できた物を残したいという気持ちが、ここでは少し邪魔になる。
それでも、手が覚えた分までほどけたわけではなかった。
*
出かける前に、セラが作業用の前掛けを貸してくれた。
背中で紐を結ぶ。胸の前へ布を広げる。
前の持ち主より、こちらの身体には凹凸があったらしい。結ぶ位置を下げても上げても、どこかが突っ張った。
「同じ人間の服とは思えません」
「人間は、同じ形ではないから」
「筒より先に、こっちで習います?」
セラは脇の紐を少し緩め、首へかかるところを直した。息を吸うと、今度は布が一緒に動いた。
窓硝子へ映った自分は、酒場にいるときより大人しく見えた。
耳飾りだけが、やけに元気だった。
外そうとすると、セラが首を傾げる。
「邪魔にならなければ、そのままでもいいわよ」
「教会ですし」
「祈る前に耳を数える人は、少なくともベナじゃない」
オレは留め具を押さえ直した。
場に合う服でいたいと思う気持ちと、自分の身体を隠せば居てよいと言われるのではないかという気持ちが、少し混ざっていた。
大きな布を一枚かけても、脚や声は変わらない。
変わらないまま、初めての場所へ行くしかなかった。
玄関でアルトが、木の筒を袋へ入れてくれた。
「これ、持っていきますか」
「お願いします。上手に巻けたところだけ、見せたいので」
「もう、ほどきましたけど」
そうだった。
証拠品は、すでにただの布に戻っていた。
*
午後、セラと教会へ行った。
尖塔のある正面の建物ではなく、脇の小さな扉から入る。石の廊下を歩くと、薬草より先に、洗った布の匂いがした。
奥で桶を持っていた女が、セラを見て片眉を上げた。
「珍しい。請求かい」
「勉強の紹介」
「もっと珍しい」
女はオレへ視線を移し、頭の耳飾りで一度止まった。
「それは、作業中、落ちる?」
「落ちないようにはしてます」
「じゃ、引っかからない場所で。こちらはベナ」
自分の名を言いながら、彼女は桶を置いた。袖の下から覗く腕は太く、指の節は赤い。祈っている姿より、濡れた物を何枚も絞る姿が想像しやすかった。
教会の施療室で、初歩の補助を教えている人だという。
「どこまで覚えたい?」
「いずれは、治療の魔法も」
「使ったことは」
「ありません」
「なら、今日は何も光らないよ」
先に言われた。
期待していないつもりだったが、少し残念に感じたので、期待していたらしい。
「お金は?」
セラが尋ねる。
「基礎三回で六ピィ。練習布込み。患者の相手は、こっちが頼んだことだけ」
オレは自分の袋から六ピィを出した。
診断値が十になっても、初めての人の列には最初から並ぶ。それを不当だと思う気持ちはなかった。ただ、財布はきちんと軽くなった。
*
初日の仕事は、布を分けることだった。
乾いたもの、洗うもの、まだ乾ききっていないもの。
オレは端を揃えて重ねた。店の布巾でもやることだ。身体が迷わず動く仕事があると、見知らぬ部屋の中でも息がしやすい。
ベナは横から一枚抜いた。
「これは?」
「乾いてます」
「真ん中も?」
広げると、折り目の奥が冷たかった。
端だけを触っていた。
オレは籠へ戻しかけ、乾いた山と別の籠へ入れ直した。
ベナは何も言わなかった。
次の布は、広げてから確かめた。
昼すぎ、セラは別の用事へ出た。オレが終わる頃に迎えに来るという。知っている人が一人減ると、廊下の音まで大きくなる。
戸口へ、腕を吊った男が来た。
ベナの姿を探している。
「こちらで、お待ちください」
身体が先に、椅子を引いた。
男は腰を下ろしかけ、肩をしかめた。
椅子の背が壁に近すぎた。吊った腕を置く場所がない。
オレは椅子を斜めにした。
「こっちなら、少し広いです」
男は、今度は楽に座った。
注文を受けるときと同じ笑顔は、いらなかった。
水を欲しいと言われたが、そのまま運ばず、ベナへ聞きに行った。何をしてよいかを確かめるため、廊下を一往復する。
その間、男を待たせたことが気になった。
戻ると、彼は窓の外を見ていた。
「すぐ持ってきます」
「そんなに急がんでいい。落とすぞ」
落とす顔をしていたらしい。
オレは歩く速さを少し落とした。
*
施療室の中は、想像したほど静かではなかった。
痛いと言う声もあるが、畑の話、今日の値段、隣の家の鶏の話もある。
ベナは、その話を全部止めなかった。
必要なことを聞くときだけ顔を近づけ、それ以外は手を動かしていた。
オレは空いた水差しを替えた。
男が笑い、ベナの手へ何か言いかけたとき、彼女は短く術を唱えた。
淡い光が、手の下で揺れた。
オレは立ち止まった。
光が引くまで、息まで止めていた。
終わるとベナは額を拭き、男へ指を少し動かしてもらった。その後の確認の方が、光っていた時間より長い。
「もう、治ったんじゃ?」
男が出ていったあと、つい尋ねた。
ベナは片付けながら答えた。
「楽になったところと、まだ使わない方がいいところがある。本人が全部同じだと思うと、明日また来る」
オレは頷いた。
手の下に光が出たら、その場で問題が終わる。
そんな場面を、どこかで見た気がしていた。
小さな人影の足元に、数字が浮く。
赤い帯が右へ伸びる。
誰かが次の相手へ向き直る。
そんなはずはない、と否定するには、妙に馴染みがある。けれど、さっきの男には帯など出なかった。自分で指を動かし、顔をしかめ、また少し笑った。
水差しの取っ手を握り直した。
こっちの重さを、先に覚えておきたかった。
*
洗い場の横に、小さな鏡が掛かっていた。
水を跳ねさせた前掛けを拭こうとして、ふと目が合う。
頬に一本、薄い埃の筋がついていた。こんなところに触った覚えはない。道具の棚を覗いたときか、窓を開けたときか。
指を伸ばして、止めた。
洗った手を、顔へ持っていくところだった。
教わったことが、遅れて追いつく。
布を替えて頬を拭くと、鏡の中の女も同じ動きをした。
以前の顔なら、こんなときどういう顔をしただろう。
出てくるのは顔ではなく、襟元を引き上げる手だけだった。
オレは前掛けの首を少し緩め、洗い場へ戻った。
*
帰る前に、ベナが木の筒を出した。
宿で使ったものより太かった。
同じように巻けばよいと思ったのに、布の残り方が違う。
オレは途中で止めた。
「大きさが違うと、難しいですね」
「人はもっと違うよ」
「先に言われると、逃げたくなります」
「逃げるなら、布を巻き戻してから」
逃げる手順まで決められた。
オレはほどき、もう一度巻いた。
ベナが指を添えると、筒の向きが少し変わった。その角度だけで、掌の中で安定する。
支える。
引く。
止める。
作業を一つずつに分けると、さっきまでひと塊だった失敗が、いくつかの小さな失敗になった。
小さければ簡単、というわけではない。
でも、どれをやり直すかは選べる。
終わったときには、窓の光が卓の端まで動いていた。
ベナは巻いた布を見て、オレにほどかせた。
今度は、惜しいと思わなかった。
*
セラは迎えに来たとき、ベナと短く話した。
オレの巻き方を採点しているのかと思ったら、来週借りる器具の置き場所の話だった。
セラにも、教わる相手と借りる物がある。
知っているつもりだった人が、別の場所で別の会話をしているのを見るのは、不思議だった。
「昔も、ここへ?」
帰り道で聞いた。
「最初の基礎を習った場所の一つよ。全部を一人から教わったわけじゃない」
「初日から、上手かったですか」
「さあ」
短い返事だった。
絶対、何かある。
オレが顔を見ると、セラは視線を通りの先へ向けた。
「洗う布を数えすぎて、洗う時間がなくなったことはある」
オレは歩きながら笑ってしまった。
「らしいですね」
「数が合わないと、次の人が困るでしょう」
「乾いてないと、もっと困りますね」
セラは返事をしなかった。
耳の上の羽根ペンを、必要もないのに直した。
*
店へ戻る途中、ギルドへ寄った。
カルダスへ出す照会を、ドリスに預けるためだった。
公開の職業更新記録のうち、前職が遊び人と確認できるものがあるか。あるなら、どの資料まで辿れるか。
答えが出る日を決めてもらうことはできない。まず、こちらの聞き方が届く形になっているかを確かめてもらった。
ドリスは一行を指した。
「『賢者へ変化』では、何が変わったかが曖昧ですね。登録の更新でよいですか」
「今、探したいのはそれです」
書き直した。
自分の願いまで、事務的な字へ変わる気がした。でも、願いの全部を相手に読ませなければ、調べてもらえないわけではない。
紙を渡して振り向くと、アルトが便の窓口にいた。
封筒を持った手が、胸の前で止まっている。
「お兄さんからですか」
「はい。寸法の返事が、宿からこちらへ回っていて」
開いた紙の上には、金具の穴の位置が描かれていた。
その下に、短い文がある。
オレは読まず、彼の顔を見た。
「合わなかったんですか」
「金具は、もう少し細いのが要るそうです。それから――」
アルトは紙の端を持ち直した。
「来るなら、先に日を決めろって」
帰れるときに。
前に川べりで聞いた言葉が、耳に残っていた。
今度は、日を求める返事が来た。
セラは封筒の厚みを見た。
「何か、一緒に入ってる?」
アルトがもう一枚を抜いた。
村の麦干し市の手伝い募集だった。
彼はそれを、見える向きで卓へ置いた。
手拭いではなく、仕事の紙を。