第44話 知らない道の歩き方
第44話 知らない道の歩き方
帰りの依頼書には、刃物が二十七本と書いてあった。
アルトの眉が下がった。
「そんなに」
「研ぎ直した農具です。鎌と鉈」
窓口の係が補足した。
眉が、元へ戻った。
「それなら、刃を包む布は厚い方がいいですね」
「急に詳しくなったな」
ゴルドが言うと、アルトは少し困った顔をした。
受けたのは、ハイベル方面へ戻る金物組合の便の護衛だった。荷車は二台、荷を受け取りに来た職人たちも乗る。行きと同じく宿場をつなぎ、六日を見込む。
出発は二日後。報酬百二十ピィ、道中の食事と宿は組合持ち。危険があれば退く条件も、四人で確認した。
カルダスへ着いて五日目だった。
あと二日で、来た道を戻る。
オレは依頼書の端を押さえた。
もう少し調べたら、次の頁で何か見つかるかもしれない。
そう思えば、いつまでも出られなかった。
セラが、こちらを見る。
急かす顔ではない。
オレは頷いた。
「その便で、お願いします」
*
閲覧室へは、借りた鉛筆を返しに行った。
持ち帰るつもりはなかったのに、写しの紙へ挟んだままだった。短い鉛筆一本を盗んで賢者を目指すのも、始まりとして落ち着かない。
リゼは受け取って、芯を確かめた。
「次は、どこから調べますか」
「遊び人の前歴が確認できる人に絞って、登録の更新を探したいです。あと、賢者という呼び名だけでなく、何ができたかが分かる記録を」
前よりは、質問になっていた。
リゼは頷き、目録の分類を二つ教えてくれた。
同じ登録番号で追える更新抄録。
本人の仕事が分かる、公開された報酬記録や著作。
診断の原簿は、公開されていなければ読めない。その境目も、もう一度確認した。
「帰ってから、照会はできますか」
「支部を通して。範囲を絞っていただければ、所蔵があるかどうかは確認します。写しや調査には別の費用がかかります」
オレは、料金表のある場所を写した。
今払う金と、次に必要になる金を分ける。
セラがいなくても、そのくらいはできた。
「見つからないことも、ありますよね」
「あります」
リゼは鉛筆を揃えた。
「見つかったら、何でも証拠になるわけでもありません。オルセの一座の話は、その練習にはなったと思います」
「かなり高い練習でした」
旅費のことも含めて言うと、彼女は少しだけ口元を緩めた。
「次の一行は、少し安く読めるかもしれません」
オレは礼を言った。
階段を下りるとき、賢者は何階かと尋ねた初日の自分が、少し遠くにいた。
*
ユルネの講習室では、まだ授業中だった。
オレは廊下で終わるのを待ち、帰ることを伝えた。
ゴルドも一緒だった。新版の教科書は買わず、自分の古い版のどこを補えばよいか、講師に確認している。
本を替えるより先に、読めていないところが山ほどあると分かったらしい。
「この頁を、飛ばすなということか」
「はい。太い線を引いてあります」
「昔の俺も、分かっとったようだな」
「昔のあなたに、今度は従ってください」
ユルネの返しは、最後まで容赦がなかった。
オレは課題の紙を見せた。
家での練習でも水は動いていない。ただ、指を固める癖に気づいたら、一度止めるようにした。肩が痛くなるほど繰り返すことはなくなった。
「次は、治療の基礎も聞いてみたいんです」
言ってから付け足した。
「二つ覚えれば賢者になれる、という意味じゃなくて。何が違うか、自分でも知りたいので」
「私は治療を教える資格がありません。ハイベルなら、そちらの僧侶の方に学ぶ窓口を聞いてみてください」
教えられる人でも、何でも教えるわけではなかった。
オレは頷いた。
ゴルドが横から言う。
「皿と包帯なら、道具も少なくて済むな」
「患者を練習台にしませんよ」
ユルネとオレの声が揃った。
爺さんは両手を上げた。
「分かっとる。人形だ、人形」
帰ったら最初に確認すべきことが、一つ増えた。
*
アルトは金具屋から、小さな包みを持ち帰った。
頼まれた部品ではなく、厚紙に描いた寸法の見本と、穴の位置を記した薄板だった。
「兄に確かめてもらうまで、注文は止めます」
手紙は次の便へ出した。
往復の時間を待っていれば、滞在はずいぶん延びる。返事はハイベルへ送ってもらい、買うと決まったら、あらためて金具屋へ注文することにしたという。
「本人のために行ったのに、物を買わずに帰るんですね」
オレが言うと、彼は苦笑した。
「合わない物を持って帰るよりは、たぶん」
「アタシも、答えは買えませんでした」
「持って帰る紙は、増えましたね」
机の上を見た。
紹介状の控え。調べた記録。講習の課題。宿代の領収。
財布は薄くなり、鞄は紙で厚くなった。
賢者への旅として、これが順調かどうかは分からない。
旅人としては、帰る日と帰る仕事を決められた。それだけは、ちゃんと前へ進んでいた。
*
出発前の夜、ダンが顔を出した。
今度は売り物の菓子を持っていた。
干した果実を包んだ小さな焼き菓子が六つ。二つで一ピィだという。
「自分の分で買います」
オレが言うと、セラが顔を上げた。
「まだ何も言ってないわ」
「先に言った方が、食べやすいので」
六つ全部を三ピィで買い、四人へ一つずつ渡す。
残り二つは、明日の自分の分だった。
ゴルドが手を伸ばしかけたので、包みを閉じた。
「そこまで含めた三ピィです」
「厳密だな」
「教わる人がいいので」
セラが、少し得意そうに茶を飲んだ。
ダンは、オレが銅貨を消す稽古をしていると聞いて、見たいと言った。
卓から皿と杯を遠ざける。
椅子の向きを揃える。
オレは一ピィを掌へ置き、ゆっくり見せた。
右から左へ。
左の手を、目で追う。
握って、開く。
何もない。
ダンの眉が上がった。
今度は右の拳を開く。銅貨がある。
ただそれだけだった。
誰も大声で驚かなかった。
でもダンは、口元を緩めたまま、もう一度、と言った。
オレは、もう一度やった。
同じところで、彼は笑った。
分かっていても見たい、という顔だった。
胸のあたりが軽くなる。
その感触に、すぐ数字を当てはめようとはしなかった。
終わったあと、掌の銅貨が少し温かくなっていた。
*
七日目の朝、『三つ匙亭』の看板には三本の匙が揃っていた。
「直ったんですね」
「そのうち、また一本取れるよ」
女将は荷物を確かめながら言った。
食事の払いを終え、六泊分の宿代が清算済みであることを確認する。
オレは部屋を最後に見回した。
忘れ物はない。
机の脚へ挟んだ紙だけ、女将に断ってそのまま残した。
外では、金物組合の車が待っていた。
荷札を読み、刃物の包みを確かめる。自分の杯は木の碗になり、袋の紐は長くなった。
ゴルドが、横から覗いた。
「修練は?」
オレは結び目を開き、閉じた。
「合格です」
「誰が決めた」
「アタシが。念のため、見てください」
爺さんは引いて確かめ、頷いた。
荷車が動き出した。
カルダスの門の前には、今日は大根がなかった。
オレは少しだけ、足元を探してから歩いた。
*
帰りの二日目、同じ継ぎ場で、オレの杯が返ってきた。
縁が曲がり、底に爪の跡がある。
小皿は穴が開き、鈴の革帯は切れていた。
見張りが布の上へ並べた。
「返り鳴きは、組合の駆除役が別の沢へ追った。しばらく見回りは続けるよ」
死体を並べた武勇伝にはならなかった。
通れる道を作り、その状態を保つ仕事が続いていた。
鈴はイェナの属する運送組合へ戻すと聞き、礼を伝えてもらうことにした。弁償済みなので、返金を求める話にはしない。
オレは曲がった杯を受け取った。
もう飲むためには使えない。
それでも捨てる気になれず、布へ包んだ。
「重さが、また増えるわよ」
セラが言った。
「はい。これは自分で持ちます」
帰り道の荷に、失敗した物が一つ増えた。
帳面の文字より、指で触れば早く分かる形だった。
*
ハイベルの門を見たのは、六日目の午後だった。
帰りの便でも最後は検品だった。金具と農具を下ろし、数を合わせ、受領を待つ。見慣れた町が横にあると、荷物を置いた瞬間に走り出したくなる。
オレはその足を止めた。
最後の二本の鎌まで、包みを確かめた。
報酬百二十から、共同の携行品など八ピィを引き、百十二。一人二十八ピィ。
道中の宿と食事は依頼主が負担したので、そこへ二重に宿代を足さない。
セラの指が最後の銅貨を置いた。
仕事が終わった。
オレは鞄を背負い、まず店へ向かった。
*
『陽気な冒険者』では、ドランが二つの杯を運んでいた。
一つずつ、静かに卓へ置く。
最後の一滴は、布へ落ちた。
オレは戸口で、少し立ち止まった。
「帰りました」
店主が厨房から顔を出した。
「予定通りだな」
「便、届きました?」
「ああ。字が細かい」
「紙が、もったいなくて」
「読む方の目も考えろ」
最初の指摘がそれだったので、肩の力が抜けた。
ドランは水差しを置き、こちらへ手を振った。
「三つは運ばねえぞ」
「二つで十分です」
「知ってる。働いてみたからな」
言葉の後ろに、濡れた卓や遅れた注文が見える気がした。
オレが出た日のまま、店が待っていたわけではない。
玉葱の箱は移り、布巾の場所も変わっている。ドランは水を運び、店主はその後ろを通れる幅を空けていた。
その中へ、オレの戻る場所もあった。
「今日は休め。明日の夕方からでいい」
店主が言った。
オレは頷き、頼まれる前に入口の泥を払った。
帰ってきたからといって、床へ泥を持ち込んでよい理由にはならなかった。
*
診断の予約は、帰還してから取った。
歩き通した直後の疲れを落とし、数日いつもの暮らしへ戻ってから、同じ診断棟へ行く。
ヘルマは前の記録を出した。
前回から、およそ六週間。
同じ器具の型と基準で測ること、体調に大きな変化がないことを確かめる。料金は八ピィだった。
「遠出を?」
「カルダスへ」
「よく歩きましたね」
「それは、かなり上手くなったと思います」
靴を脱ぐと、足の皮が前より少し硬くなっていた。
診断の帯を巻く。
前と同じように三度、測定を受けた。
目を閉じても、青い四角は出てこない。
代わりに、帰ってきた杯の爪痕が浮かんだ。原本の小さな文字。ダンの笑った顔。父親への金具の見本を包むアルトの指。
ヘルマが紙を置くまで、オレは両手を膝の上へ開いていた。
「十です」
息が、少しだけ浅くなった。
「十」
「三回とも、その範囲です。前回と比べて二つ上がっています」
紙を受け取った。
六、八、十。
そこに、ちゃんと自分の名前がある。
嬉しかった。
立派な理由を添えるより先に、口元が緩んだ。
*
「魔法は、まだ使えませんでした」
診断書を見ながら言った。
ヘルマは頷いた。
「そのことも、別に記録してください」
「数字が上がったら、何か使えるようになるのかなって、少し思ってたんです」
「今回の測定だけでは、そうは言えません。できたことと、できなかったことを、両方」
分かっていた。
それでも、上がったと告げられた瞬間に、見えない何かが開くことを期待した。
十という数字が、きりよく見えたせいもある。
きりのよさまで、自分の頭の都合かもしれないのに。
オレは紙を畳む前に、日付を見た。
「これからも、同じやり方で比べたいです」
「予約のときに、そのように」
ヘルマは次の記録欄を空けた。
そこには、まだ何も書かれていなかった。
*
宿へ報告に行くと、マルヴァがクルルの角から布を外していた。
本人は旅に出る予定を少し延ばし、まだハイベルにいたという。
山羊は布の端を口に入れようとしていた。
「離しな」
マルヴァが言う。
離さない。
「教えてる最中ですか」
「こいつは、毎日初めて聞いた顔をする」
ゴルドが奥から出てきた。
「山羊の記憶なんて、そんなもんだろ」
「お前の話もしてるよ」
爺さんは、そのまま水を飲みに行った。
オレは笑い、診断書を広げた。
マルヴァは数字を見たあと、カルダスの話を聞いた。
見つからなかった例。
オルセの順番。
講習で動かなかった水。
途中で口を挟まず、聞いていた。
「で、次は」
最後に、そう尋ねた。
「セラさんに、治療の基礎を学ぶ窓口を教えてもらいます。最初は道具の扱いと、身体のことから。魔法の練習は、ゴルドさんに姿勢を見てもらって続けます」
「いろいろ並んだね」
「一日に全部はやりません。店もありますし」
「ようやく、日が一つしかないと分かったかい」
「カルダスでも、一つでした」
彼女は笑った。
それから、曲がった杯の包みを見つけた。
オレが経緯を話すと、縁の爪痕へ指を触れた。
「これを拾いに戻らなかったのは、よかった」
数字より先に、その判断を褒められた。
オレは杯を包み直した。
布の結び目は、旅に出る前より少し上手かった。
*
夜、自室の引き出しを開けた。
古い取っ手は、前と同じところにあった。
その隣へ、曲がった杯を置く。
旅先の洒落た飾りではない。ささくれた木と、爪痕のある金属。部屋の持ち主の趣味を疑われそうな並びだった。
診断書は三枚になった。
六、八、十。
その横へ、水はまだ動かない、と書く。
次の頁に、練習することを三つだけ並べた。手品は一度に見せる角度。魔法は力を入れすぎない手順。治療は、学べる場所をセラに聞くこと。
その下に、カルダスへ照会したい記録の種類を書く。
賢者になれるか。
まだ、分からない。
分からないままにしておくことと、何もしないことは、今は別々に書けた。
窓の外で、荷車が止まった。
パン屋へ粉を運ぶ音がする。
オレは帳面を閉じた。明日の朝も働く人がいる。自分も夕方には、店へ立つ。
*
翌朝、宿の卓へ集まると、セラが帳面を出した。
「治療の基礎なら、まず洗う布と、拭く布を混ぜないところから」
「そこは、酒場で習いました」
「では、次。治療していい相手と、専門の人へ回す相手」
「急に難しくなりましたね」
「最初から難しい仕事よ」
ゴルドが横で頷いた。
アルトは小皿を四枚運んできた。
一枚には水。もう一枚には、干した豆。
「今日は、銅貨を使わない練習もできますよね。食べ物に落とすと困るので」
「失敗が、全員に共有されてますね」
「大事な経験ですから」
本人は真面目だった。
オレは豆を一粒、掌へ置いた。
右から左へ移したように見せる。
左を開く。
空だ。
次に右を開く前に、クルルが横から鼻を突っ込んだ。
豆が消えた。
四人とも、しばらく山羊を見た。
「……戻す方、まだ習ってません」
ゴルドが最初に吹き出した。
アルトが皿を置き、セラまで口元を押さえた。
オレも、空になった両手を見ながら笑った。
診断書は部屋に置いてきた。
今日できたことは、あとで書けばよかった。