第43話 賢者のいた頁
第43話 賢者のいた頁
原本は、思っていたより小さかった。
片手でも持てそうな帳面が二冊。薄い綴じ紙が一束。それから、後の時代に書かれた人物伝が一冊。
これが届くのを待って、宿を三泊延ばした。
そう思うと、もっと重そうに見えてほしかった。
リゼが、下へ柔らかな台を敷いた。
「背を強く開かないでください。端が欠けている頁は、こちらでめくります」
オレは手を洗い、よく乾かした。
掌に残る水気が気になって、もう一度布で拭く。
隣にはアルトが座った。今日は彼の買い物が一段落したので、字を拾うのを手伝ってくれることになっていた。
「眠くなったら、言ってください」
「それは、僕の台詞かもしれません」
彼は小さく笑い、貸し鉛筆を持った。
机の前へ座ったまま、まだ開かない本を見る時間が、ひどく長く感じられた。
*
最初に読んだのは、人物伝だった。
灰の賢者オルセ。
貧しい旅芸の一座と暮らし、やがて風と癒やしの技を使って人々を救った人物だという。
文章は読みやすかった。
貧しい時代があり、旅があり、人のために働き、名を残す。
オレは続きを急いだ。
行を飛ばすたび、アルトの鉛筆が止まる。
「ここ、写しますか」
「はい。いえ、待ってください。その前も」
自分が欲しい話だけを拾おうとしているのが、分かった。
申請票の裏に書いた三つの問いを、机の手前へ置いた。
一座では、何をしていたか。
その前は。
誰が、賢者と呼んだのか。
少し呼吸を整えてから、もう一度、最初へ戻った。
『若き日、旅芸の一座に身を寄せ』。
この一行が、オレをここまで引っ張っていた。
*
一座の帳面には、食費が書かれていた。
豆、塩、車軸の油。
旅を支えていたのは、だいたい見覚えのあるものだった。
その中に、オルセの名があった。
治療と、天候の見立て。峠へ入る前に雨を読んだこと。役者の火傷を診たこと。
オレはその箇所を指しかけ、指を浮かせたまま止めた。
「この時点で、もう使えてますよね」
アルトは日付を見比べた。
「そう、読めます」
旅芸の一座にいたから遊び人だった。
最初に、その一本の線を引いていた。
実際の帳面には、座員の怪我を診る人として金を受け取った記録がある。
舞台へ上がった記載は、今のところなかった。
頁をめくる。
『オルセの腰、また悪し。車に乗せる』。
オレは目を止めた。
「若い人の腰、ですかね」
「若くても、悪くなる人はいると思います」
その通りだった。
だからそれだけで、後の文章が間違っているとは言えない。
オレは鉛筆を持ち、日付と文を写した。
書くたび、期待の形が少しずつ変わっていった。
*
もう一冊は、施療所の公開記録だった。
寄贈時に閲覧が認められた部分を綴じ直したもので、患者の名や細かな病状は抜かれている。
オルセ本人が書いた短い序文があった。
旅芸の一座と出会うより前の日付だった。
風を読む稽古を若い頃に始め、後に治療を学んだこと。両方を同じ日に扱うと疲れ、休みを挟んでいたこと。
賢者になるため、とは書かれていなかった。
近くの畑で働く人が怪我をし、既に習っている人に教わった、とある。
読みながら、頁の向こうに手が見える気がした。
大きな道を選び取った英雄の手ではない。
今ある仕事のあとに、別の仕事を覚えようとしている手だった。
オレは喉へ指を当てた。
欲しかった答えとは違う。
違うからといって、つまらない人の話になったわけではなかった。
それが、少し困った。
がっかりするなら全部にがっかりできた方が、気持ちは簡単だった。
*
年代を一つずつ並べると、一座に入った時期は、若い頃ではなかった。
少なくとも、施療所の開設から二十年以上後だった。
人物伝の筆者は、オルセに直接会っていない。後書きにそう記してあった。
『若き日』という言葉は、何十年も前、という意味で置かれたのかもしれない。あるいは、いくつかの話をまとめる途中で順番が入れ替わったのか。
そこまでは分からなかった。
リゼに尋ねると、彼女も首を横に振った。
「書いた人が、何を根拠にしたかが残っていません。順番の違いは指摘できますが、理由までは」
「紹介文だけだと、分からないですね」
「紹介文は、探す入口ですから」
リゼは自分の持ち場へ戻った。
オレは、最初の日に書いた『旅芸から賢者へ』を見た。
自分の字だった。
どの本にも、その矢印は載っていなかった。
鉛筆で二本線を引いた。
消して白くするのはやめた。
ここへ来る前から、線の多い帳面だった。
*
アルトが、新しい紙を寄せた。
「こっちには、職業の抄録があります」
本人の番号がついた、登録更新の抜き書きだった。公開できる欄だけが写され、同じ名前の別人と混ざらないように番号が残っている。
最初は魔法使い。
後に、僧侶。
さらに後で、賢者。
オレは椅子から半分立ちかけた。
リゼの方を見て、座り直す。
「これは、同じ人でいいんですよね」
呼ばれたリゼが、写しの番号と出所を確かめた。
「この資料の範囲では、そう扱えます」
「魔法使いから僧侶になって、そのあと賢者に」
「登録の更新は、その順です。ただし、その日に何の能力が変わったかまでは、ここにはありません」
オレは紙を近づけた。
なった、という言葉の中へ、また色々なものを入れかけていた。
看板が変わった日。
人にそう呼ばれた日。
実際にできることが増えた日。
同じ日かもしれないし、違う日かもしれない。
それでも、ここには一人分の順番があった。
オレが作った矢印とは別に、その人の記録として残る順番が。
*
読み直すと、僧侶として登録した後にも、風を読む仕事の報酬が記されていた。
治療を覚えたから、前の技がなくなったわけではないらしい。
ゴルドの拳が浮かんだ。
魔法使いになった今も、あの拳はある。
それを見ているのに、自分だけは職業の文字が変わる瞬間、何もかも入れ替わるように想像していた。
青い面。
左右に並ぶ細い枠。
どちらかを選べ、と待っている小さな印。
違う。
今、見ている紙は白く、端に茶色い染みがある。
どちらか一つを選ぶための枠はなかった。
オレは目を閉じ、開いた。
記憶らしきものの中には、選ぶ場面ばかりが出てくる。その前に何日歩き、何度練習したかは見えない。
都合のよい場面だけ残ったのかもしれない。
それを人生全部の説明にするのは、紹介文の一行から一座の暮らしを決めるのと、あまり違わないのではないか。
「ミアさん、大丈夫ですか」
アルトの声に頷いた。
「はい。ちょっと、勝手に先へ行きそうでした」
「何か分かったんですか」
「分からないところが、一つ、細かくなりました」
彼は不思議そうにしたあと、紙を押さえてくれた。
*
閉室が近づく頃、最後の綴じ紙に辿り着いた。
一座を抜けたオルセへ、座長が送った礼状だった。
本文は短い。
旅の費用を清算したこと、次の町では雨を避けられたこと、それから、孫役を演じる娘が元気になったこと。
追伸に、一行あった。
『爺さん役を頼んだ晩だけ、客が本当の歳を当てたな』。
オレは、声を出さずに笑った。
アルトへ見せると、彼も口元を緩めた。
一度くらいは、舞台に立ったらしい。
医者として乗った荷車で、役者が足りない晩に爺さん役までやったのかもしれない。理由までは書かれていないので、そこは想像だった。
若い芸人から賢者になった人の話を探しに来た。
見つけたのは、すでに色々なことのできる老人が、ときには舞台にも立ったらしい話だった。
その違いに、昼にはがっかりした。
今は、もう少し会ってみたかった。
リゼが机へ来た。
「今日は、ここまでにしますか」
「はい。あと、この礼状の出所も写していいですか」
「どうぞ」
オレは日付と所在を書き、その下へ追伸を写した。
転職の手掛かりとは、別の欄に。
*
外の石段へ出ると、膝が固まっていた。
一日歩くのも疲れるが、一日座るのも疲れる。身体は、賢者の調査に特別な割引をしてくれない。
アルトが腕を伸ばし、肩を回した。
「見つからなかった、でいいんでしょうか」
優しく尋ねてくれた。
慰められるより、その聞き方の方が答えやすかった。
「遊び人からなった人は、見つかりませんでした」
口にすると、胸の中へ重さが戻った。
昼のうちに整理したつもりでも、残念なものは残念だった。
「でも、二つの技を後から覚えて、前の技も使ってた人はいました。登録も、ちゃんと追えました」
アルトは頷いた。
「僕の包丁の話なら、できます」
「急に?」
「剣を持ったあとも、玉葱を切る手は忘れませんでした」
オレは笑った。
本人も、言ってから少し照れていた。
「同じとは、限りませんけど」
「はい。でも、分かりやすいです」
階段を下りた。
賢者への近道は見つからなかった。
この足で続けられそうな道は、昨日より一つ具体的になっていた。
*
宿の食堂で、ゴルドは最初にオルセの年齢へ食いついた。
「ほう。腰をやってから舞台に」
「そこが一番大事なところですか」
「そこまで長く働いたということだろ」
そう言われると、軽く笑って済ませにくかった。
セラは登録の写しを読み、出所が書いてあることを確かめた。
「これなら、あとで別の人にも確認してもらえるわね」
オレは頷いた。
今日の閲覧料二ピィは、自分で払った。最初の日と合わせて四ピィ。複写は頼まず、必要な箇所を手で写した。
手が疲れた理由を、金額でも少し理解した。
「行かなければ、二ピィ残りましたね」
冗談のつもりで言った。
セラは笑わなかった。
「その代わり、あの一行を信じたままだった」
オレは碗へ目を落とした。
安い、と言い切るには、今の財布は薄い。
でも、払わなければよかったとは思わなかった。
*
食後、ダンが厨房から顔を出した。
宿の料理人と知り合いで、果実を分けに来たという。オレたちを見ると、前掛けの端で手を拭いた。
「今日はどうでした。調べ物」
答えを、短く伝えた。
彼は少し残念そうな顔をした。
「遊び人からでも、なれるならと思って」
「ダンさんも、賢者に?」
「いや。水の皿ばかり見ているより、別の入口があればって」
オレは、返事を急がなかった。
別の入口。
楽をしたいというだけの声ではなかった。毎日の仕事が終わったあとで、上手くいかない皿を見続けている人の声だった。
「アタシも、入口があると思いたいです。でも、今はまだ、アタシがそう思ってるだけなんです」
ダンは頷いた。
「そうですか」
「ただ、菓子を作る手があるの、羨ましいですよ」
「そんなに?」
そのとき、厨房の奥から声がした。
生地が固すぎるので見てほしい、と。
ダンはすぐに立ち上がった。
話しながら眉を下げていた人が、粉へ触れた途端、迷わず水差しを求めた。
オレはその背中を見た。
羨ましいと言ったのは、本心だった。
それでも、賢者になりたいという自分の望みまでなくなるわけではなかった。
両方あるまま、席に座っていた。
*
部屋へ戻り、二つの紙を並べた。
ユルネの課題。
オルセの記録。
同じ紙の上へ混ぜてしまえば、賢者への修練表らしい物が作れそうだった。
オレは並べたままにした。
片方は、今日の自分が受けた助言。
片方は、昔の誰かが実際にしたことの一部。
そこに線を引くなら、次の自分の経験が要る。
小皿へ水を入れ、手を開く。
動かなかった。
少し腹が立った。
それも、帳面へ書いた。
今日は残念だった。読みたいものとは違った。でも、あの爺さん役は見てみたかった。
最後の一行を書いたところで、少し笑えた。