第42話 値段のついていない顔
第42話 値段のついていない顔
セラの用事に付き添うと、金を数えるだけで一日が終わると思っていた。
実際には、椅子を運ぶところから始まった。
広域精算棟の相談室には、椅子が三つしかなかった。依頼人と、相手の商人と、立ち会いの係で埋まる。
セラが自分の分を運び、オレが廊下からもう一つ借りてきた。
「力の要る相談ですね」
「黙って運んで。脚をぶつける」
言われた直後、椅子の脚が扉へ当たった。
まだ始まっていないのに、相手の商人が少し不安な顔をした。
オレは接客用の笑みを作った。
「失礼しました。紙は傷つけませんので」
壁はどうだ、と言いたそうな顔だった。
*
依頼人は、留め金を作る職人だった。
レムという名の、背の低い女。右の親指に厚い革を巻き、膝の上で手を握っていた。
セラは前日の相談で、広域の取引記録の読み方を確認していた。その窓口でレムと話し、係から短い照合の仕事を紹介されたという。
今日は正式に、セラ個人が受けた半日の仕事だった。オレは荷物運びと筆記補助として、報酬から二ピィで手伝うと先に決めた。
暇だから無料でついてきたのではない、とセラに二度確認された。
カルダスでは、原本が届くまで時間がある。その間に少し働けるなら、ありがたかった。
「十八ピィ、少ないんです」
レムが言った。
向かいの商人は、困った顔で首を振った。
「こちらの台帳では、全額を払っています」
納品は六十ピィ分。
レムの手元には四十二しか届いていない。
商人の支払欄には六十とある。
それだけ聞けば、どちらかが十八を隠している話だった。
セラは、誰の顔も見なかった。
「最初から、順に出してください。請求書、支払いの控え、間に渡した物」
机の上へ、紙が広がった。
オレは椅子を少し後ろへ引き、邪魔にならない位置で日付を写した。
*
商人の名はバスクだった。
声は低く、話すたびに二本の指で顎を撫でる。紙を机へ置く向きが揃っていた。
何となく、好きではなかった。
その感情が先に立ったことを、オレは帳面の余白へ押し込んだ。
「六十に対して、こちらの送金控えが四十二」
セラが言う。
「残り十八は、相殺です。箱の代金」
「箱?」
レムが顔を上げた。
「返してもらっていません。納品に貸した箱です」
「返したよ。次の便で」
レムの声が高くなる。
バスクは顎から指を離した。
「では、その控えを」
机の上には、なかった。
レムの手が膝の上で固まった。
オレはバスクの顔を見た。
口元が動いた気がした。
笑ったのか。
違う。息を吸っただけかもしれない。
けれど、机の向こうで相手が紙を探す時間を眺める、という光景に、妙な既視感があった。
自分がそちら側に座っていたような感触だった。
*
薄い机。磨かれた爪。紙の端を、相手へ押す指。
返答までの沈黙を、こちらの取り分として数えている。
顔は見えない。
ただ、待っていれば相手が折れる、と知っている手がある。
オレは鉛筆を握り直した。
今の自分の手は、うっすら汚れていた。昨日は炭の入った箱を運び、今朝は宿の階段で手すりを掴んだ。
嫌な顔をしているのは、向かいの男とは限らない。
身体の奥から、自分のものかもしれない手つきが出てきたことの方が、怖かった。
「ミア。日付は?」
セラの声で、目が紙へ戻った。
「納品の、三日後です。レムさんが箱を返したと言っているのは」
声が少し乾いていた。
セラは水の杯をこちらへ寄せ、それ以上は尋ねなかった。
「次の便の担当は、分かりますか」
レムへ聞く。
女は頷いた。
「毎週来る人だよ。名前も」
「では、その便の荷受けを照合しましょう。今ここにないことと、記録がないことは別です」
バスクも頷いた。
彼も確かめるつもりはあるらしい。
オレは、一度嫌いになった顔を、もう一度見た。
*
照合には、本人の許可が要った。
レムは返送の記録を、バスクは倉庫の荷受け記録を、この取引についてだけ閲覧することに同意した。
係が受付へ紙を回す。
待っている間、オレたちは廊下へ出た。
レムは手を開いたり閉じたりしていた。
「控え、捨てたかもしれない」
小さな声だった。
「場所がなくてね。古い紙は、火をつけるときに」
「どんな紙でした?」
オレが聞くと、レムは両手で大きさを作った。
細長い紙。
片側に、丸い印。
返送便が渡す荷受け票らしい。
「箱だけだと思ったんだよ。売り物じゃないから」
オレは頷いた。
何を残すべきかは、残していなかったときによく分かる。
セラは責めなかった。
「これが終わったら、今回の分を一つの袋に。捨てる時期は、支払いの確認が済んでから決めましょう」
「書くの、苦手で」
「全部書き直す必要はないわ。来た紙を、一緒に入れるだけ」
レムは自分の革袋を見下ろした。
できることの大きさを、そこで測っている顔だった。
*
戻ってきた荷受けの写しには、箱が載っていた。
ただし、一つ。
レムが返したと言っていたのは二つだった。
バスクが眉を寄せる。
「では、九ピィだけですね。こちらの処理漏れは認めます」
「二つ返したんだよ」
レムの声は先ほどより低かった。
怒りより、疲れが混ざっていた。
セラは紙を近づけた。
「この一は、個数ですか。それとも荷札の件数?」
係が横から見る。
欄の見出しは、『口数』だった。
一口の中に箱を二つ重ねた場合、記録の仕方が違うのか。
係はその場で言い切らず、書式の説明を取りに行った。
バスクも黙った。
オレは、机の下で足を組みかけてやめた。
誰かの沈黙を勝ちとして受け取る癖が、本当に自分の中にあるのなら、こういうときに出るのかもしれない。
でも、沈黙の理由など、外から一つには決められない。
足を床へ戻し、紙の見出しを写した。
*
係が戻る前に、レムが鞄から小さな金具を出した。
箱につける留め具の見本だった。
「外したの。返す前に。自分の道具を間違えて入れたから、片方をもう一度開けて」
金具の片側に、糸が絡んでいた。
「で、空の二つを重ねて、一本で縛った。紐が足りなかったから」
記憶が、手の動きと一緒に戻っていた。
オレはその形を、紙の隅へ描いた。
大きい箱の中へ、小さい箱。蓋は重ね、紐で一つにまとめる。
「こうですか」
「そう。蓋は、逆だったけど」
直した。
レムが少しだけ身を乗り出した。
「それだよ。それで、御者に持っていってもらった」
係が戻り、説明を聞いた。
一口は、荷札一枚で受けたまとまりを指す。箱の数そのものではない。
ただ、それだけで二つあった証明にはならない。
倉庫の荷札控えをもう一度探し、実際の箱の印を確かめることになった。
オレの絵は、その確認に添えられた。
上手な絵ではなかった。箱も少し歪んでいる。
それでも、レムが口だけでは伝えにくかった物を、他の人へ渡すことができた。
オレは、鉛筆の先を見た。
白い枠を増やしたくなる感触が、今日は来なかった。
目の前の箱を描いただけで、手が忙しかった。
*
昼を少し過ぎ、倉庫から返答が来た。
二つの箱は、実際に戻っていた。
荷札の控えには、重ね箱二、という短い記入がある。倉庫では処理したが、返却済みの印が商人の精算へ移っていなかった。
バスクは長く息を吐いた。
「こちらの不手際です」
オレは、すぐに謝ると思っていなかった。
男は手元の台帳へ線を引き、十八ピィの未払いを認めた。
「ただ、もう一件。こちらからも確認を」
今度は、レムが顔を固くした。
納品した留め金のうち、三つの幅が注文より大きかった。
受け取りのときに見本との違いを記した紙がある。レムはそれを見て、唇を噛んだ。
「……型を替えたときのだ」
オレは机の端へ手を置いた。
十八ピィが戻れば、全て気持ちよく終わると思っていた。
取引は、気持ちのよい順番を待ってはくれない。
セラが言った。
「返却箱の精算は、今ここで完了させましょう。金具の直しは、納期と費用を別に決める。片方が間違えたから、もう片方の間違いが消えるわけではありません」
レムはしばらく紙を見てから、頷いた。
バスクは十八ピィを出した。
数える指は、最初に見たときと同じだった。
オレの見え方だけが、少し変わっていた。
*
レムは、三つを作り直すことにした。
元の寸法に直し、次の便へ載せる。修正分を追加で請求しない代わりに、バスク側も今回の遅れだけで取引全部を打ち切ることはしない。
係が両方の了承を記し、紙を二枚作った。
セラの報酬は八ピィ。レムは受け取った十八の中から払い、残り十を自分の袋へ入れた。
セラはオレへ二ピィを渡した。
自分の取り分は六。
オレは銅貨を見てから、レムを見た。
返ってきた十八が全部手元に残るわけではない。作り直す時間も、金具の材料も要る。
それでも、レムの手は最初よりよく動いていた。
「ありがとう。あの箱、上手だった」
「歪んでましたよ」
「うちのも、歪んでるから」
少し笑った。
オレはつられて笑い、彼女が控えを一つの袋へ入れるのを見届けた。
*
昼飯は、立ったまま食べる薄焼きのパンだった。
セラは熱い具を避け、端から小さく齧っている。
オレは二ピィをそのまま全部使う気になれず、安い方の具を選んだ。腹は少し物足りなかったが、自分で選んだ出費だった。
「バスクさん、嫌な人だと思ってました」
言うと、セラは眉を上げた。
「今は?」
「間違える人でした。レムさんも」
「私たちもね」
口調は、いつものままだった。
オレはパンの端を千切った。
「机の向こうで、相手が困るのを待つ感じが、分かる気がしたんです。今日」
セラは噛んでいたものを飲み込むまで待った。
「バスクさんが、そうだった?」
「分かりません。たぶん、アタシの方です。そういう待ち方を、したことがあるような」
言葉にすると、喉が少し冷えた。
セラはすぐには答えなかった。
通りを、肩に長い板を載せた男が通った。オレたちは揃って半歩下がる。
「覚えていること?」
「形だけです。机とか、手とか。いつのことかも、誰のことかも」
「じゃ、今はそれ以上、書き足さなくていいんじゃない」
「嫌な人だったら?」
聞いたあと、自分でも少し驚いた。
セラはオレの手を見た。
「今日、あんたが描いたのは、箱だったわ」
それだけ言った。
過去を許されたわけではない。
そもそも、何をした過去なのかも分からない。
でも、今日したことまで見えなくなる必要はなかった。
オレは残りのパンを口へ入れた。
*
閲覧室へ寄ると、リゼが受け取り棚を見た。
「オルセの資料、明日の午後には出せます。複数冊あるので、時間を取ってください」
胸が弾んだ。
待ったのは二日ほどなのに、もっと長く感じた。
セラは申請票へ目を落とす。
「紹介文だけだと、どの辺が気になったの?」
「旅芸の一座にいたこと。施療と、風を読むことです」
「同じ人の、どの時期の話かも見ておきなさい」
今日の一口と二箱が、まだ頭の中にあった。
ひとつの言葉から、自分に都合のよい中身を取り出さない。
オレは申請票の裏へ、小さく三つの問いを書いた。
一座では何をしていたか。
その前は、何をしていたか。
賢者と呼んだのは、誰か。
答えを読む前に書いておかないと、答えに合わせて質問を変えそうだった。
*
宿へ帰ると、アルトが珍しく落ち着かない顔をしていた。
「兄への便、もう出てしまいました」
「次の便は?」
「二日後です。金具屋には、それまで待ってもらえます。ただ、返事を待つと、いつ帰れるか」
オレたちは食堂の卓へ座り、日程を並べ直した。
原本を見る時間もある。あと三泊なら、最初の滞在と合わせて六泊になる。そこまで延ばし、帰りの仕事は明日から探すことにした。
宿代の追加は二十四ピィ。四人で六ずつ出した。
誰かの用事だけを、誰かが黙って待つ形にはしなかった。
ゴルドが、セラへ今日の仕事を尋ねた。
「十八、取り戻したか」
「返す箱が二つ、未払いが十八。確認しただけ」
「確認したら金が出る。よい芸だな」
「あなたにも試す?」
爺さんの手が、財布を押さえた。
既存の罰金の未払い百七十五ピィは、今も消えていない。
ここから先の旅費を残した上で、いくら渡せるかは帰還後に相談する。その話まで、セラは忘れていなかった。
「芸は、もう少し楽しいのにせんか」
「受け取る側は、楽しいと思いますよ」
オレが言うと、ゴルドは深く頷いた。
相手がマルヴァだと思えば、そこだけは疑いがないらしかった。