第41話 魔法使いの落第点
第41話 魔法使いの落第点
講習室の椅子は、小さかった。
少なくとも、ゴルドには。
爺さんが座ると、机の下から両膝がはみ出した。もう少し深く座ろうとして椅子を引き、後ろの机へぶつかる。
「すまん」
振り向いた先には、爺さんよりさらに大きな男がいた。
白い前掛けを畳んで膝へ置き、肩をすぼめて座っている。
「いえ。俺もさっき、やりました」
大きい人同士で、静かな理解が生まれた。
講師が入ってきたのは、その直後だった。
若い女だった。短く切った髪を耳の後ろへ押し、教壇へ水差しを置く。顔だけ見れば、オレたちに教えるより、隣の席へ座りそうな年齢に見えた。
ゴルドが姿勢を正した。
そこだけは、意外なくらい素直だった。
「ユルネです。今日は初めての方が三人。使ったことのある方も、最初の指示から一緒にお願いします」
机には浅い皿が一枚ずつあった。
見慣れた水の稽古だ。
ただし今日は、動かそうとする前に、ユルネが窓を閉めた。
オレは少し嬉しくなった。
自分で風を遮っていたのは、見当違いではなかったらしい。
*
「まず、何もしない水を見てください」
講師が言った。
ゴルドの指が止まった。
もう何かしようとしていたらしい。
水面には、天井の梁が細い線になって映っていた。隣の男が机へ肘を置くと、線が揺れる。
男は慌てて肘を上げた。
「それも、見ておいてください。揺れた理由が、術とは限りません」
ユルネは各卓の横を歩き、皿の下へ薄い布を敷かせた。
揺らすことより、何で揺れたかを区別すること。
教科書の最初に書いてあっても読み飛ばしそうな話を、実際の机が見せてくれた。
次に、息を整える。
ここでゴルドが胸を大きく膨らませた。
「吐きすぎです」
「まだ吐いとらんぞ」
「その吸い方だと、次に全部押し出します。肩を下げて」
爺さんは肩を下げた。
隣の大男も、つられて下げた。
オレも下げた。
教室全体が、少し小さくなった。
*
水を動かす手順は、ゴルドの本と似ていた。
違ったのは、失敗したときの戻り方だった。
最後まで唱え直すのではなく、どこで息が詰まったかを確かめる。強くしようとして指へ力を入れたら、一度手を膝へ下ろす。
オレは二度、三度とやった。
水は動かなかった。
右隣では、小さな波が皿の端へ触れた。
前の机でも、輪が広がった。
その音は聞こえない。それなのに、自分だけ取り残される音がする気がした。
ユルネが、オレの横へ来た。
「術の経験は?」
「ありません。家でも練習してますが、一度も」
「どの本を使っていますか」
ゴルドから借りた教科書を示した。
ユルネは発行年を見て、頷いた。
「この版は、集める感覚の説明が少ないですね。ある程度できる人向けです」
ゴルドが、ほら見ろという顔をした。
「だからといって、本を替えればすぐできるとは限りません」
顔が元へ戻った。
講師はオレの指先を見た。
「今、痛くありませんか」
「……少し」
「手を握りすぎています。今日は、力を入れない形を覚えるところまでにしましょう」
「でも、それだと何も」
言いかけた。
何もできなかった、と言いたかった。
ユルネは皿を取り上げなかった。
やめなさいとも言わず、掌の下へ柔らかい布を置いた。
「手を開いていても、ここには座っていられます」
オレは布へ指を下ろした。
皿の水は、変わらず静かだった。
*
ゴルドの番では、紙が飛んだ。
水ではなかった。
爺さんの皿には細い波が立ったが、ついでに教科書の頁もめくれ、前の人の髪が揺れた。
ユルネは動じず、窓を確かめた。
「術は使えています。ただ、範囲が広いです」
「実戦なら、これで届く」
「今日は机の上です。前の方の髪まで運ばないでください」
前の男が、自分の生え際を押さえた。
「残ってる分は、大事にしたいので」
オレは俯いた。
笑うまいとして、肩が震える。
ゴルドも口元を動かしたが、ユルネが指を一本立てた。
「もう一度。小さく」
爺さんはやり直した。
今度は波が小さすぎて、よく見えなかった。
「それでいいです」
「こんなのでか」
「一度止めて、同じくらいでもう一度」
できなかった。
次は皿の端から水が一筋こぼれた。
爺さんは黙って布を取った。
魔法が使える人も、教室では布を取る。
それを見ると、オレの動かない水が、少しだけ同じ机の上へ戻ってきた。
*
休憩になると、隣の大男が話しかけてきた。
名前はダン。『三つ匙亭』から二本先の通りで、厨房の仕事をしているという。
「昨日も失敗したんです。煮込みなら、泡の出方で分かるんですが」
「火加減で?」
「ええ。でも、これは下から火をつけると、叱られる」
「試したんですか」
「一度だけ」
オレは笑った。
するとダンは、前掛けを開いて小さな包みを出した。干した果実の菓子が入っている。
「口を動かすと、落ち着くんです。先生には外で食べろって」
廊下へ出て、一つもらった。
薄い皮が歯で切れ、酸味が広がる。中の果実は、見た目よりずっと柔らかい。
「美味しい」
「余り物です。形が揃わなかった分」
「その説明で、美味しさが減るわけじゃないですよ」
ダンは少し照れ、包みの角を折った。
何で魔法を習うのか尋ねると、彼は廊下の窓を見た。
「ずっと厨房で、鍋の前に立ってるので。外でもできる仕事を、一つ欲しくて」
「魔法使いになりたいんですか」
「なれたら。診断の数も、そんなに高くないですし」
その言い方に、オレの胸が少し詰まった。
自分の八を低いと思うときの声に似ていた。
「今の菓子、アタシには作れません」
「慣れれば、できますよ」
魔法について言われたい言葉が、菓子にはあっさり出た。
慣れるまでにどれだけ作ったのかを聞くと、ダンは指で数えかけ、やめた。
「分かりません。焦がした分なら、かなり」
オレたちは、もう一つずつ食べた。
*
菓子の包みを畳みながら、ダンがオレの手を見た。
「指、細かく動くんですね」
「接客で、袋を結んだりするので。最近は、よく落としますけど」
「俺、細い紐が苦手で。引くと切れるか、結び目が大きくなる」
前掛けから、小さな袋を出した。
菓子を分けるための紙袋らしい。紐が妙に長く余っていた。
オレは一本借り、袋の首を少し捻ってから結んだ。
同じことをしてもらうと、ダンは紙を握り潰した。
「あ」
「待って。中の菓子を握るつもりになってません?」
「崩れないよう、持とうとして」
力を入れたせいで、かえって紙が潰れている。
オレは自分の指を見た。
さっき皿の前で、同じことをしていた。
「袋の口だけ、持ってみてください。下の方は、机に預けたままで」
ダンはやり直した。
今度は潰れなかった。
結び目はまだ大きいが、ほどこうと思えばほどける。
「できた」
大きな身体から、小さく嬉しそうな声が出た。
「でも、これだと売り物には――」
「最初の一つですよ」
オレが言うと、彼は笑って紙袋を眺めた。
そのあと、こちらを見る。
「水の方にも、その台詞を使ってよさそうですね」
返事に詰まった。
人の練習なら、一つできたところを見られる。自分の皿には、何も起きないという札を貼りたくなる。
都合のよさにも、向きがあるらしい。
「使います。たぶん、すぐ忘れるので、書いておきます」
帳面を出すと、ダンは自分の袋を少し遠ざけた。
「字、苦手なんです。厨房だと印で済むことが多くて」
オレは掌を開いた絵と、握った絵を描いた。開いた方に丸をつける。
「これなら?」
ダンは覗き込み、掌を開いてみせた。
オレも真似した。
誰も水を動かしていないのに、廊下では少し稽古が進んだ気がした。
*
後半の講習では、二人一組になった。
一人が試し、もう一人が動きを見る。できたかどうかだけでなく、肩、息、指の変化を伝える。
オレの相手は、ゴルドだった。
ダンと組むつもりだったのに、爺さんが当然の顔で椅子を寄せてきた。
「俺の癖を知っとるだろ」
「悪い方なら、かなり」
「今日は、その話じゃない」
オレは爺さんの手を見た。
水を動かす直前、左の小指だけが強く曲がる。それから肩が前へ出る。拳を出すときの動きに似ていた。
指摘すると、ゴルドは自分の手を見た。
「出とるか」
「かなり」
「直したつもりだったが」
次は、小指を開いたまま試した。
水は動かず、爺さんの顔が険しくなった。
「今度は、全部止まりますね」
「見とれば分かる」
「見る係なので」
ユルネが来て、ゴルドの肘の位置を少し変えた。
「指だけ止めるより、構え全体を小さくしてください。古い動きが役に立つ場面もあります。今日は、この皿に合わせます」
ゴルドは三度、試した。
三度目に、小さな波が一つだけできた。
オレは思わず身を乗り出した。
「今の、よかったですよ!」
机へ手をついた。
皿の水が、全部揺れた。
ゴルドがこちらを見た。
ユルネも見た。
「……今のは、アタシです」
正確な観察報告として、受け取ってもらった。
*
終わりに、講師が各自へ短い課題を書いた。
ゴルドには、範囲を狭く保つこと。
ダンには、息を止めずに続けること。
オレには、身体を固めず手順を辿ること。
魔法が出る保証は、どこにもなかった。
「職業が、遊び人なのでしょうか」
人が少なくなってから、ユルネへ聞いた。
「できない理由ですか」
「はい。今の職業だと、何をしても駄目なのか」
彼女は少し間を置いた。
「私には、その理由だけとは言えません。教えた人数にも限りがあります。今日の練習だけで、将来まで決めることはできません」
「遊び人から賢者になった人、ご存じですか」
「いいえ」
はっきりした答えだった。
何人目だろう、と数えそうになって、やめた。
人数が増えても、知らない人の数だけでは、できるともできないとも決まらない。
ユルネはオレの教科書の余白へ、今日省いた段階の番号を書いた。
「独習するときは、ここでいったん止めてください。痛みが出るほど力を入れないこと。次に誰かに見てもらうなら、今日どこで止まったかも伝えて」
オレは礼を言った。
課題の紙を受け取る手は、もう痛くなかった。
*
見学を兼ねた初回講習は四ピィだった。
ゴルドも自分の分を払う。卒業したら授業料が永久に無料になる仕組みは、なかったらしい。
外へ出ると、昼の市場の匂いがした。
肉の脂と、焼けた粉。大きな町では、どこへ歩いても誰かが食事を作っている。
ゴルドは課題の紙を、教科書へ丁寧に挟んだ。
「先生、若かったですね」
「若いな」
「気になりません?」
「気にしたら、俺より上からしか教わらんことになる」
オレは黙った。
爺さんは歩きながら、濡れた袖口を捲った。
「だいぶ、相手が減るぞ」
先に自分で笑った。
オレも笑った。
昔四十で学校へ入った話より、今日の小さな椅子へ座る背中の方が、近く感じられた。
*
宿で結果を話すと、セラはまず机へ布を敷いた。
「また練習するんでしょう」
「するつもりですけど」
「宿の机に染みを作ると、別料金になる」
先回りが現実的だった。
アルトは金具屋から戻ったばかりで、包丁の柄に合う部品を二つ並べていた。寸法は合うが、兄が求めた穴の間隔とは少し違うという。
「こっちを削れば合いそうなんです。でも、勝手に替えていいか」
「手紙で確かめるんですか」
「はい。せっかくなので、ちゃんと届く物にしたいです」
オレは自分の課題を見た。
今日持ち帰ったのは、使える魔法ではなかった。
でも、どこで止めるか、どこを見てもらうかは、昨日より具体的になった。
ゴルドが向かいへ座った。
「肩、見てくれ」
オレは頷いた。
爺さんが息を整える。
今度は、左の小指が曲がらなかった。
小皿の水に細い波が一つ立つ。
「今の――」
褒めかけて、机へ伸びた手を止めた。
ゴルドが笑う。
「そっちも、覚えたな」
オレは膝の上で、自分の手を開いた。
明日は、原本の閲覧申請が通ったか確かめに行く。
その前に今日の一回を、自分の手でもやっておきたかった。