第40話 賢者は何階ですか
第40話 賢者は何階ですか
カルダスの門は、思っていたより低かった。
もっと高い塔があり、もっと大きな旗が垂れ、知恵のある人間がその下を黙って歩いている場所を想像していた。
実際には、門の前で大根が転がっていた。
「踏まないで!」
売り子の声に、ゴルドが足を止めた。
次の大根が足首へ当たる。
「止まっても来たぞ」
「拾ってください!」
オレたちは、到着して最初の仕事として野菜を拾った。
隊商は門へ入る列に並んでいる。六日目の昼。昨日は見張りの確認を待ってから出発し、その後の街道では返り鳴きの姿を見なかった。鈴を借りた分は弁償し、馬も落ち着いて歩いている。
街道の向こうに見え始めた都市は、近づくほど建物を増やした。
門が低く見えたのは、その奥に家が何段にも重なっていたせいだった。
オレは泥のついた大根を籠へ戻した。
「ありがとうございます。あなた、踊り手?」
「荷運びです」
「そう。じゃ、あと一本、そっち」
大きな町では、話の進みも早かった。
*
納品先は、門からかなり歩いた先にあった。
石の倉庫の前で荷を下ろし、箱の印を確かめる。街へ着いたから仕事が終わり、とはならない。
オスムは蝶番の箱を示すたび、上の黒い点を指で確かめた。
旅の途中で一度取り違えたことが、もう手の癖になっていた。
オレも荷紐を解く前に、上から箱が落ちてこないかを見た。
検品で一枚、外箱の板が割れていた。中の布には傷がない。倉庫の係とオスムが一緒に確かめ、その場で記録した。
イェナは馬を厩へ入れてから戻ってきた。
「これで、荷主さんを下ろせば終わり」
「私は荷台に積まれてませんが」
「ずっと肩に乗ってたよ。納品まで」
オスムは苦笑し、懐から金袋を出した。
残金は百二十ピィ。前払いの四十と合わせて、契約の百六十だった。
セラが受領を記す。
旅で使った共同の消耗品と薬、壊れた器、失った鈴の弁償を合わせ、経費は二十ピィ。残り百四十を分け、一人三十五ピィ。
オレの木の碗も、その二十の中に入っていた。
数字を聞くと、森で息を止めていた時間が、すぐに元へ戻るわけではない。
けれど四人とも、自分の袋へ取り分を入れることができた。
オスムは次の出発日が決まったら、ギルドに札を出すと言った。
イェナは別の便で出るらしい。
「結び目、見せて」
最後にまた言われた。
袋の紐を引いてみせると、彼女は頷いた。
「開ける方も?」
「今はできます」
「じゃ、合格」
何の紙も出ない合格だった。
オレは、それでも少し胸を張った。
*
本部へ向かう道に、本屋があった。
入口の札には、大きく『賢者の知恵』と書かれている。
足が止まった。
昨日までの草むらなら危険な反応だったが、今日は本屋なので、たぶん大丈夫だった。
戸口に座る老人が、こちらを見て冊子を持ち上げた。
「旅の方。道を知るにも、暮らしを知るにも、一冊あると役に立つよ」
「賢者になる方法も?」
「なる方法?」
老人は眉を上げた。
「賢く暮らす方法なら」
言葉の似た親戚らしかった。
試しに見てよいと言われ、最初の頁を開いた。
早く起きる。
腹いっぱい食べすぎない。
借りた金の期日を守る。
「それ、うちの店主も言うとるわ」
口から出た。
低く、跳ねるような節回しだった。
オレは冊子を持ったまま固まった。
耳の奥に、別の部屋の音が残った。壁の向こうで水が流れている。机の上には薄い箱。画面の光に照らされた手が、文字の並びを勢いよく送り上げる。
肝心の答えが、どこにもない。
いらだつ声だけが、さっきの自分の声に重なった。
「お嬢さん?」
老人に呼ばれ、目が紙へ戻った。
「……失礼しました。知っている話に、少し似ていたので」
取り繕う声は、いつもの高さへ戻っていた。
喉に指を当てたくなったが、冊子の角を潰さないよう両手で持ち直した。
老人は特に追及せず、後ろの頁を示した。
「この町の水場と、便の出る日も載ってる。暮らすなら、そっちが役に立つかもしれないね」
見れば、簡単な町の図があった。
どの橋を渡れば本部へ行けるかも分かる。
賢者の教えとして出会ったために、最初から身構えていた。街の案内として渡されたら、素直に便利だと言ったかもしれない。
「この冊子を書いた方は、本当に賢者なんですか」
「さあ。元の話は昔からあるよ。町の案内は私が直した」
オレは表紙を見た。
著者の名はなかった。
題名には大きく賢者とあるのに、町の道を直した老人の名は載っていない。
値段は三ピィだった。
少し迷ったが、今日は買わず、見せてもらった礼を言った。
「本部の入口までなら、そこの角を左。紙を買わなくても、そこまでは教えるよ」
老人が指で示した。
オレはもう一度、礼を言った。
歩き出すと、ゴルドが横から覗いた。
「買わんのか。期日を守る話があったぞ」
「そこは、買わなくても守ってください」
セラの声が、背後から届いた。
オレは笑ったが、喉の違和感は少し残った。
さっきの声は、なぜあの言葉を知っているのだろう。
賢者という看板に答えを期待するより前に、自分の声の方にも、まだ読めないところがあった。
*
本部は、塔ではなかった。
広い中庭を囲んで、何棟もの建物がある。灰色の鷲は同じなのに、どの入口にも別の札がかかっていた。
依頼受付。
貨物裁定。
広域精算。
閲覧受付は奥、と教えられて入ったら、裏の別棟へ出た。
「広すぎませんか、ここ」
「本部だからな」
「説明として便利すぎます」
道を聞いた受付の女は、紹介状を見て頷いた。
「ハイベル支部。閲覧の申請ですね。二階の一番手前です」
階段を上る。
ゴルドの靴が大きく鳴った。
上った先の戸には、『静粛』と書かれていた。
爺さんはそれを見て、一歩だけ静かに歩いた。
二歩目から元へ戻った。
「一歩しか効かない札ですね」
「本人の問題よ」
セラの小声が、よく通った。
*
閲覧室には、乾いた紙の匂いがした。
酒場の帳簿にも紙の匂いはある。でも、ここでは食べ物と酒の匂いが重なっていない。頁をめくる音が、別の机から別の机へ小さく渡っていた。
受付の机には、短く削った鉛筆が五本並んでいる。
奥に座る女は、オレの紹介状を読む間、顔を上げなかった。
髪を高い位置でひとまとめにし、細い紐で眼鏡を首へ掛けている。読み終わると眼鏡を掛け直し、初めてこちらを見た。
「リゼです。探しているものを、できるだけ狭く教えてください」
「遊び人から、賢者になった人です」
言ったあと、かなり狭いと思った。
リゼは鉛筆を持ったまま止まった。
「年代は」
「分かりません」
「地域は」
「それも」
「お名前は」
「……まだ、一人も」
リゼは紙の左上へ小さな丸を描いた。
丸の中には、何も入らなかった。
「それですと、狭いのは願いの方ですね」
オレは返事に困った。
笑われたわけではない。受付の顔は、ずっと真面目だった。
「賢者の記録は、何階にありますか」
「一箇所にまとまってはいません」
「では、賢者になった順に――」
「並んでいません」
図書館の想像を、二つ続けて失った。
*
リゼは薄い目録を一冊出した。
人名、地域、記録の種類。見出しが細かく並んでいる。
「ギルドの登録で、現在職を賢者と書いた人の例は引けます。ただし、登録は本人の申告です。前の職業が残っているかは、その人の更新と当時の書式によります」
「じゃ、遊び人だった時の紙があれば」
「同じ人だと確かめる必要があります」
「名前が同じなら」
リゼは目録の一頁を開いた。
似た名前が、縦に六つ並んでいた。
「この六人を、同じ人にできますか」
「できません」
ゴルドが覗き込み、昔の知り合いにもいる、と言った。
七人になった。
リゼは別の紙を出した。公開されている登録抄録と、閲覧に本人の同意などが必要な診断原簿の違いが書いてある。
オレは、全部読めばよいと思って来た。
全部の中には、読ませてもらえないものと、初めから残っていないものがあった。
「ここに来れば、答えが出るわけじゃないんですね」
「答えに近づく質問は、作れるかもしれません」
リゼは紹介状へ受領印を押した。
「まず、公開抄録の目録からでよければ」
閲覧は一日二ピィ。複写を頼む場合は別料金で、自分の手で抜き書きする分には紙を持ち込める。インク壺は倒すと困るので、席では貸し鉛筆を使う。
オレは二ピィを置いた。
大きな町で最初に買った知恵は、何を知らないかの一覧だった。
*
ゴルドは二十分で眠った。
いびきが出る前にセラが肘で起こし、本人は読んでいたと言い張った。
目録は上下が逆だった。
「逆から読めるんですか」
「難しい本は、どっちからでも難しい」
リゼが机を見た。
声を出さず、ただ見た。
オレたちは全員、少し小さくなった。
セラは自分の用事があるので広域精算棟へ向かい、アルトは宿を確かめに行く。ゴルドも、新版の教科書を扱う店を聞きに出た。
一人残ると、急に部屋が広くなった。
目録には、賢者と呼ばれた人が何人もいた。
町の教師。診療院の創設者。戦場で二系統の術を扱ったと記された人。
同じ言葉が、同じ種類の人を指していない。
オレは気になる項目を写した。
『灰の賢者オルセ』。
短い人物紹介に、『若年に旅芸の一座へ身を置く』とあった。
指が止まった。
旅芸。
遊び人、と同じではない。
同じではないが、ずっと読んできた文字の中で、初めて身体が前へ寄った。
続きには、施療所と気象観測の話がある。怪我を治し、風を読む。それなら、オレが思い浮かべる賢者に近いのではないか。
原本の欄を見ると、別棟保管と書かれていた。
閲覧の申請を出す。確認して運ばれるまで、数日かかるという。
「見つかりました?」
リゼが聞いた。
「見たいものは、一つ」
答えると、彼女は初めて少し笑った。
「では、今日は進みましたね」
*
外へ出たとき、同じ道が違って見えた。
来たときには人の多さしか分からなかった。今は、紙を抱えて歩く人が目につく。車輪を直す男も、店先で靴を磨く女もいる。
その人たちの登録職を、誰も聞いて回ってはいなかった。
宿の角を曲がるつもりで、一つ手前を曲がった。
干された靴下の列があった。
行き止まりだった。
「賢者になる前に、宿へ帰りたい」
独り言を言うと、窓の上から声が降った。
「宿なら隣の通りだよ」
洗濯物を干している女だった。
オレは礼を言って引き返した。
何を知らないか聞けば教えてもらえる場面も、まだたくさんあった。
*
宿は『三つ匙亭』という名だった。
看板の匙は二本しかなかった。
「もう一本は?」
女将に聞くと、洗い場、と即答された。
冗談かと思ったが、裏口に修理中の木の匙が立てかけてあった。看板も手入れが要るらしい。
四人で二室、一泊八ピィ。食事は別。ハイベルより二ピィ高い。
セラは最初の三泊分をまとめて払い、それぞれ六ピィずつ出すことにした。滞在を延ばすときは、また相談する。
オレは鞄を下ろし、寝台の端へ座った。
腰が、ようやく自分のものへ戻る感じがした。
同室のセラは、机のがたつきを紙一枚で直している。
「どうだった」
「旅芸の一座にいた、賢者と呼ばれた人がいました。まだ、紹介文だけですけど」
「その『まだ』は、書いておいた?」
「はい」
帳面を開く。
題名の横に、紹介文のみ、と大きく書いてあった。
セラは覗き、頷いた。
褒め言葉ではなかったが、オレには十分だった。
*
夕食では、四人の成果が卓へ並んだ。
セラは明後日の相談の予約。
アルトは金具を扱う店の場所。
ゴルドは魔法の基礎講習の案内。
「明日、見学できるそうだ。新版もそこで比べられる」
爺さんが紙を差し出す。
机の上のオルセという名と、基礎講習という文字を見比べた。
答えを探すことと、自分の手を動かすこと。
今のオレには、両方あった方がよさそうだった。
「行きます」
「実技で騒ぐなよ」
「ゴルドさんが言います?」
「俺は、もう卒業しとる」
妙に得意そうだった。
アルトが運んできた煮込みには、門の前で拾ったのと同じ、大きな大根が入っていた。
匙を入れると、すっと割れた。
「カルダスって、何でも集まるんですね」
「荷も、人もね」
セラが答える。
オレは、まだ湯気の立つ一かけを口へ運んだ。
熱かった。
セラが珍しく、少し勝った顔をした。
知恵のある人間になるために、まず待つべき場面だった。